まとめ編 07:シャドーテクノロジー
石田憲一
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1月は、過去の配信を1週間分ごとにまとめて編集したものをお届けします。
<まとめ編 07:シャドーテクノロジー>
月:アクション・プラチック
アクションスターワークスのメソッドを説明するためには、その根底にある理論を明確にしなくてはならない。
それはアクションの実体、実際に行ってきたのに、その当事者たちにさえ無自覚な表現に関する実体構造を明らかにして言語化した。
これがアクションの実際行為、アクション・プラチックである。
火:アクショノイド
アクションに似て非なるもの、それがアクションもどき=アクショノイドである。
吹き替えを使った俳優とスタントマンの共同的分業表現がその基本である。
立回りにおいては、例え本人が行っていたとしても「なんちゃって化」するケースが多々ある。その理由は、立回り表現の創作〜実際表現のプロセスにある。
事前振り付け・徹底練習型の立回り表現において、なんちゃって化しやすいわけだが、それは完成品における動きの滑らかさと、技術的未熟性のギャップにある。そこが違和感となることで、なんちゃって化している=アクショノイドであるということが感知されるわけだ。
特に編集段階で早回しが加わることで、一定水準に底上げされたスピードと滑らかさに対して、技の完成度やフォームの力強さ、さらに立回り表現の充実といったものの不足という、バランスが崩れたありえない立回りが出現することになる。
これが高級な破滅的ごっこ遊びとして、商業的に量産されつつある。だからアクショノイドとしてアクションと分ける必要があるわけだ。
水:無空中枢構造論
アクションの中心=本質は無であり空であるというのが、無空中枢構造論の基本である。
それは実体としての独自技術・練習法がほとんどないというところから解明されたアクション・プラチックである。
例えるならドーナツのイメージ。ドーナツの円形実体はアクションにおける異分野練習であり、その中心には何もない。それが無空のイメージである。
これは異分野練習により、アクション表現における対応力を高めているということのメタファーとなっている。
このことを理論的に説明するなら、様々な異分野練習の導入によりモビリティ=機動性を高めているのだが、モビリティそれ自体は見えないので形態としては無にしか見えないということ。
しかし形がないだけで、モビリティとそれによる対応力は存在するのだが、形としては外部から導入した異分野練習の方が明確なので、そちらがあたかもアクションであるかのように、もしくは価値が高いかのような誤認を生み出しやすいわけだ。
木:アビリティとモビリティ
無空であるその中心には、形がないもののモビリティが存在しており、それを高めるための手段として、異分野の練習が導入されていた。
しかし実はモビリティだけではなかった。モビリティはその中心であることは間違いないが、全体はアビリティ=能力=広義の意味で、未知のアクション表現に対応できる能力であった。
つまりアクション表現対応能力の中心としてモビリティが存在しているということだ。
というのも実際的には、モビリティが高いだけではアクション表現への対応は不可能である。(もし可能なら、身体能力の高さだけで対応可能ということになり、アクション業界がオリンピック選手だらけになるはずだが、実体はそうなっていないことからも明らか。)
アビリティとは、モビリティを最大限有効活用したアクション表現への対応力のことである。だからこちらも見えないが、モビリティ以外に存在しているある種の技術性である。
具体的にはモビリティを活かした、身体全体・各部の制御力である。
金:シャドー・テクノロジー
実はアビリティとモビリティ以外にも、まだ技術性が存在する。
まず機動性としてのモビリティありき。そしてそれを活かす制御力と対応力としてのアビリティがある。
対応力とは、表現の要求に対する反応力と未知の動きの創出力、調整力、直感力などである。
しかし、これを基本として実際表現に対峙していった場合、経験を積むほどにそこで要求された技術が蓄積されていくことになる。それが累積していくことで、必然的にある種の技術性が熟成されていくことになる。
これがアビリティの影に隠れて見えない技術=シャドー・テクノロジーである。(シャドー・ムーブとは別もの)
影に隠れているので見えないが、上手いと言われる人ほど、シャドー・テクノロジーを多様に駆使しているが、本人も無自覚だったり、言語化していなかったりするので、外部に出ることは稀である。
これが芸事の見て学ぶ「見取り稽古」のような方法でしか、知ることができないため、その価値が高いはずなのに本人自身からも忘却され、喪失され、無価値とされてきた。これがオリジン・アクション衰退の原因の一つである。
これは言葉を変えれば「見えないアート」=インビジブル・アーツとも言い換えることができるほど、未知数の価値を持っていると考えられる。
以前話した究極のフィーリング対応とは、このシャドー・テクノロジーによって可能になっているのであり、それを得るには瞬間振り付けに対する、瞬間対応・瞬間記憶・瞬間創出という立回り創作表現過程しかない。それはアクショノイドと真逆のアプローチである。
アクションスターワークでは、この見えないアート=シャドー・テクノロジーをカリキュラムに活かし、形のあるものとして活用しているのである。
<まとめ編 07:シャドーテクノロジー>
月:アクション・プラチック
アクションスターワークスのメソッドを説明するためには、その根底にある理論を明確にしなくてはならない。
それはアクションの実体、実際に行ってきたのに、その当事者たちにさえ無自覚な表現に関する実体構造を明らかにして言語化した。
これがアクションの実際行為、アクション・プラチックである。
火:アクショノイド
アクションに似て非なるもの、それがアクションもどき=アクショノイドである。
吹き替えを使った俳優とスタントマンの共同的分業表現がその基本である。
立回りにおいては、例え本人が行っていたとしても「なんちゃって化」するケースが多々ある。その理由は、立回り表現の創作〜実際表現のプロセスにある。
事前振り付け・徹底練習型の立回り表現において、なんちゃって化しやすいわけだが、それは完成品における動きの滑らかさと、技術的未熟性のギャップにある。そこが違和感となることで、なんちゃって化している=アクショノイドであるということが感知されるわけだ。
特に編集段階で早回しが加わることで、一定水準に底上げされたスピードと滑らかさに対して、技の完成度やフォームの力強さ、さらに立回り表現の充実といったものの不足という、バランスが崩れたありえない立回りが出現することになる。
これが高級な破滅的ごっこ遊びとして、商業的に量産されつつある。だからアクショノイドとしてアクションと分ける必要があるわけだ。
水:無空中枢構造論
アクションの中心=本質は無であり空であるというのが、無空中枢構造論の基本である。
それは実体としての独自技術・練習法がほとんどないというところから解明されたアクション・プラチックである。
例えるならドーナツのイメージ。ドーナツの円形実体はアクションにおける異分野練習であり、その中心には何もない。それが無空のイメージである。
これは異分野練習により、アクション表現における対応力を高めているということのメタファーとなっている。
このことを理論的に説明するなら、様々な異分野練習の導入によりモビリティ=機動性を高めているのだが、モビリティそれ自体は見えないので形態としては無にしか見えないということ。
しかし形がないだけで、モビリティとそれによる対応力は存在するのだが、形としては外部から導入した異分野練習の方が明確なので、そちらがあたかもアクションであるかのように、もしくは価値が高いかのような誤認を生み出しやすいわけだ。
木:アビリティとモビリティ
無空であるその中心には、形がないもののモビリティが存在しており、それを高めるための手段として、異分野の練習が導入されていた。
しかし実はモビリティだけではなかった。モビリティはその中心であることは間違いないが、全体はアビリティ=能力=広義の意味で、未知のアクション表現に対応できる能力であった。
つまりアクション表現対応能力の中心としてモビリティが存在しているということだ。
というのも実際的には、モビリティが高いだけではアクション表現への対応は不可能である。(もし可能なら、身体能力の高さだけで対応可能ということになり、アクション業界がオリンピック選手だらけになるはずだが、実体はそうなっていないことからも明らか。)
アビリティとは、モビリティを最大限有効活用したアクション表現への対応力のことである。だからこちらも見えないが、モビリティ以外に存在しているある種の技術性である。
具体的にはモビリティを活かした、身体全体・各部の制御力である。
金:シャドー・テクノロジー
実はアビリティとモビリティ以外にも、まだ技術性が存在する。
まず機動性としてのモビリティありき。そしてそれを活かす制御力と対応力としてのアビリティがある。
対応力とは、表現の要求に対する反応力と未知の動きの創出力、調整力、直感力などである。
しかし、これを基本として実際表現に対峙していった場合、経験を積むほどにそこで要求された技術が蓄積されていくことになる。それが累積していくことで、必然的にある種の技術性が熟成されていくことになる。
これがアビリティの影に隠れて見えない技術=シャドー・テクノロジーである。(シャドー・ムーブとは別もの)
影に隠れているので見えないが、上手いと言われる人ほど、シャドー・テクノロジーを多様に駆使しているが、本人も無自覚だったり、言語化していなかったりするので、外部に出ることは稀である。
これが芸事の見て学ぶ「見取り稽古」のような方法でしか、知ることができないため、その価値が高いはずなのに本人自身からも忘却され、喪失され、無価値とされてきた。これがオリジン・アクション衰退の原因の一つである。
これは言葉を変えれば「見えないアート」=インビジブル・アーツとも言い換えることができるほど、未知数の価値を持っていると考えられる。
以前話した究極のフィーリング対応とは、このシャドー・テクノロジーによって可能になっているのであり、それを得るには瞬間振り付けに対する、瞬間対応・瞬間記憶・瞬間創出という立回り創作表現過程しかない。それはアクショノイドと真逆のアプローチである。
アクションスターワークでは、この見えないアート=シャドー・テクノロジーをカリキュラムに活かし、形のあるものとして活用しているのである。