08:徒手格闘型身体表現
石田憲一
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1月は、過去の配信を1週間分ごとにまとめて編集したものをお届けします。
まとめ編 08:徒手格闘型身体表現
月:アクションと立回りの違い
アクションは身体能力対応型受動的表現。ゆえに独自技術・独自練習法なし
だから異分野の練習で身体能力を高めることが必然となる
特に機動性=モビリティが重要
しかしモビリティを高めるための異分野練習が、専門性を高めることをよしとする誤認を生み出す傾向を常に内包している。
立回りは、日本独自の成熟した格闘表現法であり、単なる格闘表現と一緒にしてはいけない。
成熟とは、見栄え・見せ方効果重視の振り付けパターンが型化されているというのが一つ。間や様・見栄の芸化と自由度の高さ、そこの独自性に価値をおく文化であるというのが一つ。
殺陣と立回りは、振り付けという意味では共通する。殺陣とは、外部視点からの全体的形態重視。立回りは主役視点からの具体的攻防重視という違い。実際は、言葉の使い分けを気にする必要はない。
刀剣操法によって完成された立回りは、徒手格闘に転移されたが、その時点では技自体は脆弱だった。その完成は、アクションとの融合まで待たなくてはならなかった(=異分野訓練による機動性獲得)。
火:立回り型アクションとは
格闘表現を中心としたアクションを格闘型アクション、または格闘表現型アクションとする。
立回りアクションとは、立回りとアクションの接点に生まれたもの。立回りにアクションが導入されたものだが、その逆もあり得る。
立回りは、徒手格闘に転移されたとき、打撃系の技、特に蹴り技が脆弱であった。それはチャンバラには存在しなかった技だから当然と言えば当然。それをアクションの身体能力の高さで補う必要があった。
アクション側としては、立回り概念が脆弱であったため、立回りとの接点で立回り概念を吸収する必要があった。
このように、接点に生まれたものが立回りアクションであり、両サイドからのアプローチがあった。
立回り型アクションとは
徒手格闘におけるアクション表現の要求から生まれた、立回りアクションに対し、立回り側とアクション側、双方が対応すべく強化した立回りアクションを打ち出した。それが立回り型アクションである。
立回り型アクションの分類
⑴ 立回り側からのアクションへのアプローチ:T T A →主にジャリ番・子供ショー
⑵ アクションの側からの立回りへのアプローチ:A T T →主に空手アクション
水:イン・コンバティブ・フォーム
ブルース・リー言うところの”in combative form, the art of expressing the human body”とは、徒手格闘型身体表現であり、立回り型アクション。
in combative form=格闘形態
the art of expressing the human body=身体表現
ただし徒手格闘型身体表現と、立回り型アクションは似て非なるもの。
この矛盾は、ブルース・リー自身の矛盾と重なる。=つまり「徒手格闘型身体表現」と言いながら、実際にやっているのは立回り型アクションであるということ。(しかしアクションという言葉を使わずして、説明しているのは素晴らしい。)
これはマーシャル・アーツ(実際はマーシャル・アートと言っているが)と、アクションを発言に混在させているのと同じである。これは本人が混同しているという解釈と、意図的に混在させているという解釈の両方が成り立つが、実際は彼の中では非分離なものとして存在していたというのが正しいのではないか。(そのように理解すべきであり、マーシャル・アーツ原理主義の解釈は辻褄が合わなくなってくるので肯定できない。)
ここにはアクションの可能性と、身体表現の可能性が潜在している。
木:徒手格闘型身体表現
元々は、”in combative form, the art of expressing the human body” 以前に考えた名称である。
当初のコンセプトは、アクションという名称を使わずに立回り型アクションに相当するネーミングを考えるというところにあった。
そこに芸術性への展開の可能性を開くために、身体表現という言葉を当てたわけだ。
当時はコンテンポラリー・ダンスや、フィジカル・シアターなどをたっぷり鑑賞していたということの影響もある。
立回りのもつ独自の様式美を芸術性として捉えるなら、それを徒手格闘でも実体化できれば、それは身体表現となるだろうという方向性が必要である。
その意味は、スポーツ的に体を動かしているだけでは、全く発展性がないどころか脱線していくというのが一つ。同様に立回り文化が積み上げてきた至高の芸術性を維持継承できないというのが一つ。
そう言った意味でも、運動だけを切り離して行うことはあり得ない。
金:ストラクション+まとめ編
ストラクションとは、単なる名称であるが、実際は名称にとどまらない。
元々はアクション専用打撃術として始まった。だからストライク+アクションでストラクションである。
しかし技術性の総合化によって、名称も全体へと広がっていった。
根底にある技術は剣流体理論に基づいている。剣流体とは、「剣術の流れを汲む体術」という意味で、もちろんここでいう剣術・体術とはアクションの範疇のものである。
剣流体は五段階に分かれていて、その中にチャンバラから打撃まで、全てが分類され、技術体系として関連づけられている。しかし敢えて表現の技術性とは切り離し、説明の原理には加えていない(実際は関連ある)。それは習得のしやすさを考慮したからである。
ストラクションは総合化された全体を統括する概念である。だからSTRにはストラテジー・タクティクス・レンディションという意味が込められており、それらを駆使することで成立する身体表現であることを意味している。
アクションと一線を画すのは、拡張性を視野に入れているところである。それは芸術性という点だけでも広がりがあるだろう。
またアクションとの関係で例えるなら、バレエをマスターしてショー・ダンスに参入するなら楽にトップを取れるというようなイメージで、ストラクションをマスターしてアクション表現に参入するなら、楽々対応できるというようなところである。
その根拠は、実体験と先人の英知に基づく理論と体系である。
まとめ編 08:徒手格闘型身体表現
月:アクションと立回りの違い
アクションは身体能力対応型受動的表現。ゆえに独自技術・独自練習法なし
だから異分野の練習で身体能力を高めることが必然となる
特に機動性=モビリティが重要
しかしモビリティを高めるための異分野練習が、専門性を高めることをよしとする誤認を生み出す傾向を常に内包している。
立回りは、日本独自の成熟した格闘表現法であり、単なる格闘表現と一緒にしてはいけない。
成熟とは、見栄え・見せ方効果重視の振り付けパターンが型化されているというのが一つ。間や様・見栄の芸化と自由度の高さ、そこの独自性に価値をおく文化であるというのが一つ。
殺陣と立回りは、振り付けという意味では共通する。殺陣とは、外部視点からの全体的形態重視。立回りは主役視点からの具体的攻防重視という違い。実際は、言葉の使い分けを気にする必要はない。
刀剣操法によって完成された立回りは、徒手格闘に転移されたが、その時点では技自体は脆弱だった。その完成は、アクションとの融合まで待たなくてはならなかった(=異分野訓練による機動性獲得)。
火:立回り型アクションとは
格闘表現を中心としたアクションを格闘型アクション、または格闘表現型アクションとする。
立回りアクションとは、立回りとアクションの接点に生まれたもの。立回りにアクションが導入されたものだが、その逆もあり得る。
立回りは、徒手格闘に転移されたとき、打撃系の技、特に蹴り技が脆弱であった。それはチャンバラには存在しなかった技だから当然と言えば当然。それをアクションの身体能力の高さで補う必要があった。
アクション側としては、立回り概念が脆弱であったため、立回りとの接点で立回り概念を吸収する必要があった。
このように、接点に生まれたものが立回りアクションであり、両サイドからのアプローチがあった。
立回り型アクションとは
徒手格闘におけるアクション表現の要求から生まれた、立回りアクションに対し、立回り側とアクション側、双方が対応すべく強化した立回りアクションを打ち出した。それが立回り型アクションである。
立回り型アクションの分類
⑴ 立回り側からのアクションへのアプローチ:T T A →主にジャリ番・子供ショー
⑵ アクションの側からの立回りへのアプローチ:A T T →主に空手アクション
水:イン・コンバティブ・フォーム
ブルース・リー言うところの”in combative form, the art of expressing the human body”とは、徒手格闘型身体表現であり、立回り型アクション。
in combative form=格闘形態
the art of expressing the human body=身体表現
ただし徒手格闘型身体表現と、立回り型アクションは似て非なるもの。
この矛盾は、ブルース・リー自身の矛盾と重なる。=つまり「徒手格闘型身体表現」と言いながら、実際にやっているのは立回り型アクションであるということ。(しかしアクションという言葉を使わずして、説明しているのは素晴らしい。)
これはマーシャル・アーツ(実際はマーシャル・アートと言っているが)と、アクションを発言に混在させているのと同じである。これは本人が混同しているという解釈と、意図的に混在させているという解釈の両方が成り立つが、実際は彼の中では非分離なものとして存在していたというのが正しいのではないか。(そのように理解すべきであり、マーシャル・アーツ原理主義の解釈は辻褄が合わなくなってくるので肯定できない。)
ここにはアクションの可能性と、身体表現の可能性が潜在している。
木:徒手格闘型身体表現
元々は、”in combative form, the art of expressing the human body” 以前に考えた名称である。
当初のコンセプトは、アクションという名称を使わずに立回り型アクションに相当するネーミングを考えるというところにあった。
そこに芸術性への展開の可能性を開くために、身体表現という言葉を当てたわけだ。
当時はコンテンポラリー・ダンスや、フィジカル・シアターなどをたっぷり鑑賞していたということの影響もある。
立回りのもつ独自の様式美を芸術性として捉えるなら、それを徒手格闘でも実体化できれば、それは身体表現となるだろうという方向性が必要である。
その意味は、スポーツ的に体を動かしているだけでは、全く発展性がないどころか脱線していくというのが一つ。同様に立回り文化が積み上げてきた至高の芸術性を維持継承できないというのが一つ。
そう言った意味でも、運動だけを切り離して行うことはあり得ない。
金:ストラクション+まとめ編
ストラクションとは、単なる名称であるが、実際は名称にとどまらない。
元々はアクション専用打撃術として始まった。だからストライク+アクションでストラクションである。
しかし技術性の総合化によって、名称も全体へと広がっていった。
根底にある技術は剣流体理論に基づいている。剣流体とは、「剣術の流れを汲む体術」という意味で、もちろんここでいう剣術・体術とはアクションの範疇のものである。
剣流体は五段階に分かれていて、その中にチャンバラから打撃まで、全てが分類され、技術体系として関連づけられている。しかし敢えて表現の技術性とは切り離し、説明の原理には加えていない(実際は関連ある)。それは習得のしやすさを考慮したからである。
ストラクションは総合化された全体を統括する概念である。だからSTRにはストラテジー・タクティクス・レンディションという意味が込められており、それらを駆使することで成立する身体表現であることを意味している。
アクションと一線を画すのは、拡張性を視野に入れているところである。それは芸術性という点だけでも広がりがあるだろう。
またアクションとの関係で例えるなら、バレエをマスターしてショー・ダンスに参入するなら楽にトップを取れるというようなイメージで、ストラクションをマスターしてアクション表現に参入するなら、楽々対応できるというようなところである。
その根拠は、実体験と先人の英知に基づく理論と体系である。