まとめ編 05:アクションのマルチアングル定義
石田憲一
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1月は、過去の配信を1週間分ごとにまとめて編集したものをお届けします。
<アクションのマルチアングル定義>
月:アクションのカオス
立回りとアクションをつい混同して使ってしまう
格闘表現と立回りテクノロジーを分けて考える
格闘表現への対応法としてアクションと立回りが個別にある。
両者の混合モデルとして「立回り型アクション」がある。 このことをついアクションと総称してしまうのは、完成形だから。
同様に、当たり前の如く存在していたから。
火:ジャンル+シーンとしてのアクション
ジャンルとしてのアクション
セリフや人物描写、情景描写などよりも人間や機械(車や兵器)の動きの面白さに比重を置き、それを見世物とした作品をアクション作品といい、そのジャンルを俗称的に△△アクションという。例:カーアクション
シーンとしてのアクション
演劇の中で、セリフを中心とした普通の演技よりも、例えば危険を伴うような、高度な身体運動を要求される動きの比率・重要度が高いシーンをアクション・シーンという。
またその場合の表現をアクションという。
水:起源としてのアクション
主演俳優による、演技とスタントの統合型モデルが起源としてのオリジン・アクション。
=俳優が危険なシーンや高度な身体能力を必要とされるシーンで、吹き替えを使わずに自ら演じることを選択した、その瞬間がアクションの誕生である。
それは言い換えるなら、ノー・スタンドイン・スタイル・アクティング
つまりスタントは、アクションではない。スタントマンがアクションシーンに参加しているのであって、吹き替えスタントマンが行っているものは、厳密にはアクション表現ではない。
従って、スタントマンが創作に携わっているアクションは、アクションとは呼べない似て異なるものである。
まとめておくと、俳優本人が演じるのがアクションであり、吹き替えはアクションではない。アクション=本人
木:完成形としてのアクション
立回り型アクション
アクションの技術性=アクション・テクノロジーとは、アクションシーンに対し身体能力で対応することである。
だからこそ格闘シーンにも身体能力の高さで対応することが基本となる。
しかし日本には立回りという概念がすでに存在していた。その立回りテクノロジーを取り入れて消化したものが、立回り型アクションである。
便宜上分けて考えるなら、主役バージョンと、やられ役バージョンがある。
◆流水形態論(流水的形態表出論)
立回り表現における技とは、表現としての効果を最大化したところに生まれたものである。
従って既存の格闘技術の運動構造を一部利用しながらも、その形態は抽象化されており、表現に合わせて(場合によってはその瞬間に)最適な形態として表出されるものであって、定型化されたものがあるわけではない。
むしろ定型化されない無限のバリエーションと発展性、創出力こそが重視される。定型化を避けながら、技や動作の質を高めることが、ある意味最大のテーマであるとはいえるだろう。
金:本質論としてのアクション+まとめ編
無空中枢対応型構造
◆無空中枢論/無空中枢構造
アクションの本質技能とは、身体能力の高さで、要求される表現に対応するところにある。従って独自の技術や練習体系を持たない。これをアクションの無空中枢構造という。(無空中枢対応構造)
そのため、異分野の練習を導入することで身体能力、特に機動性を高めることに注力することになる。(結果的に、器械体操系の運動が最も効果が高いことから、中心的に行われることになるが、それはスタントとの親和性の高さにより、アクションの曖昧さをより一層際立たせることにもつながっている。)
すなわち、無であり空である中枢の外堀を埋めるかの如く、外部依存性を高めるわけだが、そのことがより一層、無空中枢性に拍車をかけることになっている。同様に異分野技術の優位性という誤認を生み出すことにもつながっている。
また、当事者たちに独自技術、独自練習と思われているものの大半は、立回りやスタントのものであり、アクション独自のものではない。
このようなアクションの無空中枢構造性と、それへの無自覚さが、全盛期の発展を維持できなかった根本的要因である。
<アクションのマルチアングル定義>
月:アクションのカオス
立回りとアクションをつい混同して使ってしまう
格闘表現と立回りテクノロジーを分けて考える
格闘表現への対応法としてアクションと立回りが個別にある。
両者の混合モデルとして「立回り型アクション」がある。 このことをついアクションと総称してしまうのは、完成形だから。
同様に、当たり前の如く存在していたから。
火:ジャンル+シーンとしてのアクション
ジャンルとしてのアクション
セリフや人物描写、情景描写などよりも人間や機械(車や兵器)の動きの面白さに比重を置き、それを見世物とした作品をアクション作品といい、そのジャンルを俗称的に△△アクションという。例:カーアクション
シーンとしてのアクション
演劇の中で、セリフを中心とした普通の演技よりも、例えば危険を伴うような、高度な身体運動を要求される動きの比率・重要度が高いシーンをアクション・シーンという。
またその場合の表現をアクションという。
水:起源としてのアクション
主演俳優による、演技とスタントの統合型モデルが起源としてのオリジン・アクション。
=俳優が危険なシーンや高度な身体能力を必要とされるシーンで、吹き替えを使わずに自ら演じることを選択した、その瞬間がアクションの誕生である。
それは言い換えるなら、ノー・スタンドイン・スタイル・アクティング
つまりスタントは、アクションではない。スタントマンがアクションシーンに参加しているのであって、吹き替えスタントマンが行っているものは、厳密にはアクション表現ではない。
従って、スタントマンが創作に携わっているアクションは、アクションとは呼べない似て異なるものである。
まとめておくと、俳優本人が演じるのがアクションであり、吹き替えはアクションではない。アクション=本人
木:完成形としてのアクション
立回り型アクション
アクションの技術性=アクション・テクノロジーとは、アクションシーンに対し身体能力で対応することである。
だからこそ格闘シーンにも身体能力の高さで対応することが基本となる。
しかし日本には立回りという概念がすでに存在していた。その立回りテクノロジーを取り入れて消化したものが、立回り型アクションである。
便宜上分けて考えるなら、主役バージョンと、やられ役バージョンがある。
◆流水形態論(流水的形態表出論)
立回り表現における技とは、表現としての効果を最大化したところに生まれたものである。
従って既存の格闘技術の運動構造を一部利用しながらも、その形態は抽象化されており、表現に合わせて(場合によってはその瞬間に)最適な形態として表出されるものであって、定型化されたものがあるわけではない。
むしろ定型化されない無限のバリエーションと発展性、創出力こそが重視される。定型化を避けながら、技や動作の質を高めることが、ある意味最大のテーマであるとはいえるだろう。
金:本質論としてのアクション+まとめ編
無空中枢対応型構造
◆無空中枢論/無空中枢構造
アクションの本質技能とは、身体能力の高さで、要求される表現に対応するところにある。従って独自の技術や練習体系を持たない。これをアクションの無空中枢構造という。(無空中枢対応構造)
そのため、異分野の練習を導入することで身体能力、特に機動性を高めることに注力することになる。(結果的に、器械体操系の運動が最も効果が高いことから、中心的に行われることになるが、それはスタントとの親和性の高さにより、アクションの曖昧さをより一層際立たせることにもつながっている。)
すなわち、無であり空である中枢の外堀を埋めるかの如く、外部依存性を高めるわけだが、そのことがより一層、無空中枢性に拍車をかけることになっている。同様に異分野技術の優位性という誤認を生み出すことにもつながっている。
また、当事者たちに独自技術、独自練習と思われているものの大半は、立回りやスタントのものであり、アクション独自のものではない。
このようなアクションの無空中枢構造性と、それへの無自覚さが、全盛期の発展を維持できなかった根本的要因である。