03 ポイペトは歩けない

ある年代以上の人ならアランヤプラテートという街の名に聞き覚えのある人も少なくないだろう。

ベトナム戦争から続くカンボジアの戦乱・ポルポト政権の大虐殺、カンボジアの暗黒期に命からがら逃れた人々の難民キャンプが有ったタイ国境の街で、その時代には日本でもニュースでよく取り上げられていた。

しかし、アランヤプラテートから国境を接するカンボジア側の街、ポイペトを知る人は多くないだろう。

私のインドシナ半島周遊の旅は、バンコク北バスターミナルのモーチットから、長距離バスに乗りアランヤプラテートに向かうことが一歩目だった。

日本を飛び出し、バンコクに着いてからの私は、仕事を辞めて無職になり、後ろ盾も身分も無くした無力な一個人という自分の身の上が急激に不安になり、しばらくはどんより停滞していた。

これでは駄目だと重い腰を上げた第一歩がカンボジアへの移動だった。

アランヤプラテートはセブンイレブンも有るような想像から外れないタイ郊外の街だった。

しかし、タイ出国をすませ、カンボジア側のイミグレーションを通過してしばらく進むと、そこは想像を越える景色の広がる場所だった。

まず歩けないのだ。

一歩進むごとに泥に足をとられる。

声をかけて来たホテルの客引きのバイクでなんとか安宿まで移動する事ができ、シングルファン付の部屋を取った。

外に出ても、歩けないのでこっちを見ながら走るバイクを手をあげて止めて、10バーツを渡して走ってもらう。これが唯一の移動手段だった。

ポイペトには2泊したが、まったく街の様子を掴めなかった。

泊まった安宿、小さな商店と食堂、バッタンバンに向けて出発した乗合タクシー乗り場、これだけしか場所としての記憶がない。

ただ、国境通過のために並ぶトラックにワシントン条約は大丈夫なのか気になる積み荷の数々。メインストリートでスタックする車、横転したトラック、蚊帳の外の床一面が蚊取り線香で撃墜した虫で真っ黒になっていた宿の朝、といった刺激の強い場面は鮮明な記憶として残っている。

あともう一つ衝撃的な事件が有ったのだが、それはまたの機会に。

ある意味この街のインパクトが沈み込んでいた旅の活力を引き上げてくれたように思う。

2日間の滞在で変なテンションの高め方をして、乗合タクシーでバッタンバンへ旅を進めて行った。


その後のポイペトはタイ人が遊ぶためのカジノとホテルが建ち並び、街は整備されたのだが、国境地帯のカジノ利権、租税回避、裏組織との繋がり、ギャンブル依存、第3国からのギャンブルツアーなど、大きな社会問題にもなっていた。

シェムリアップで伝統織物を通じた活動を行っていた故・森本喜久男さんを通じて知り合った、通称オカさんが運営していた孤児院の「寺子屋」がポイペトに有ることも、初めてポイペトを訪れた数年後に知った。
後にオカさんが倒れたと聞いてからも久しい。

それから何度かポイペトーアランヤプラテート国境は通過したが、ただ通過しただけで、何の情報も得ていないし、陸路のハードな移動も長らくしていない。

近況を聞く機会もないが、ポイペトの今はどうなっているのだろうか。また訪れてみたい気もするが、今更行くのはキツいのだ。

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