結局誰かに愛されたい
夫とは一応、社内恋愛だった。
知り合ったのは共通の先輩が主催する飲み会(合コン)だったけれど、私は夫を見た瞬間、この人だ!と確信した。
それまでの恋愛は、メガトン級に重い恋ばかりだった。あの頃はその言葉を知らなかったけれど、共依存と呼ぶものだったと思う。
別れるときは毎回ドロドロの修羅場で、別れたはずなのにだらだら一緒にいたりとか、そういう、あんまりいい恋とは呼べない恋が多かった。
けれど夫との恋愛は、健全でライトで穏やかに進んでいった。
私がメンヘラを発揮しても、夫はそれをライトにかわす。初めこそ「この人ほんとに私のこと好きなの!?」なんて思っていたけれど、夫はそういう真っ当な人間なのだ。真っ当に健全に、私を好いていてくれた。
それにあてられるうちに、私も少しは普通の人間になったのだ。私の人生と夫の人生はイコールじゃないし、たまに交わる箇所があるけれど私は私で夫は夫なのだと、理解して付き合っていけた。
周囲からも驚かれるほど、私は真っ当になった。
そして、夫と結婚した。
プロポーズは一応夫からだけれど、ほぼ私からみたいなもので、せがんでせがんで夫が根負けしたような感じ。
当時二十六歳の私は、勝手に切羽詰まっていたのだ。
夫の前に付き合っていたYくんとは、四年という歳月のなかで、恋という気持ちが溶けてなくなってしまった。あんなに大好きだったのに、まるでそれが最初からなかったみたいになって、別れを決意したから。
それが怖かった。夫とはそうなりたくなかった。
しかし今になって思えば、それは問題の先送りでしかなかったのだ。
結婚したところで、恋という気持ちが溶けてしまうことは止められない。
妊娠する少し前から、私の夫に対する気持ちは恋などではなく、家族へのそれと似ていた。
子どもが生まれたらそれはもう確固たるものになったし、金輪際それがひっくり返ることはないと思う。
全盛期の私は、おじいちゃんおばあちゃんになっても手を繋いで歩きたいだとか、結婚記念日には子どもを祖父母に預けてディナーに行こうだとか、戯言を言っていたものだ。
それがどうだ。
今はもう、子どもなしの私たちなんて考えられない。自由時間があるのなら、お互い好きなことやって過ごしたい。そんな夫婦になっている。
ある種、これも正解なのだろう。
自立した夫婦と言えば聞こえもいい。
けれど私自身は、ふとした瞬間に虚しくなったりしてしまうのだ。
その虚しさは、アニメだとか漫画だとか推しのアイドルやバンドなんかが、埋めてくれる。
埋めてくれるのだけれど、満タンにはならない。すごく、厄介。
私はそのなんとも形容しにくい虚無感を、社会から離れたことや、年齢のせいにしてきた。
だから仕方ないのだと。
しかしそれもたぶん違う。
詰まるところ私は、誰かに愛されたいのだ。
愛して愛されて甘やかされたい。
普通なら許されないようなことも、抱きしめて許されたい。許したい。
それできっと満たされたいのだ。自分は誰かの特別だと実感したい。存在意義を確かめたい。
やっぱり自分は、どこまでいってもそういう人間なのだなと呆れてしまう。無償の愛だとかそんな綺麗なもの、与えられない。浅ましくて嫌になる。
私はきっと、一生ないものねだりの人生を送るのだ。
人生で一番大好きだったあの彼と結婚していたって、私の人生を大きく変えてくれたYくんと結婚していたって、たぶんこうはいかない。
むしろ夫とだから、私は今人並みの暮らしができていて、普通に「ちゃんと」幸せなのだろう。
わかっているのに、やっぱり私は虚しい。
こんな気持ち、ここでしか吐けない。
友人にこんなこと、怖くて言えない。
いつまで私は、これを悪い気持ちだと理解していられるだろうか。
いつの日にかこれに折り合いがつけられるのだろうか。
わからないけれど、やっていくしかない。
これは私が選んだ人並みの生き方なのだから。
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