毒親育ち、母になる。
「うちにはお金がないから。あんたは大学には行かせられないのよ。」
物心ついた頃からずっと、まるで呪文のように、母はそれを私に言って聞かせた。
小さな小さなコミュニティーで、一際大きな存在の母にそう言われれば、それが世の摂理で私の運命なのだと、特にそれを疑うことはなかった。
自分は大学には行けない。
だから、大学に行かなくてもなれる職業に就こう。
小さな頃の夢は、ことごとく諦めざるを得なかった。
ある時は幼稚園の先生。
またある時は、雑誌の編集者。
芸能人のマネージャーとかもやってみたかったし、脚本家にも憧れた。
まあ、その辺りは些か不純な動機もあったのだが…。
ともかく、それもこれも、『13歳のハローワーク』という本に打ちのめされることになる。
当時中学一年生。大層話題になったその本は、各クラスに一冊置かれているほどで、次貸して!なんて、まるで心理テストでもするみたいに、ワクワクしながらそれを開いた。
しかしそこにあったのは、揺るがない現実で、私はそれを見て早々に、それなりの会社でOLでもやろう、と将来を決めることとなった。
誤解しないで欲しいのは、あくまで当時の自分がそう受け取っただけ、ということだ。
大学に行かずとも夢を叶える手段はあっただろうし、親を説得するほどの情熱を秘めた夢でもなかったから、私はそこで諦めてしまった、というだけの話だ。
それでも時折考えてしまうのだ。
もし母が、あの呪いの言葉を唱え続けていなければ?
自分の人生はどうなっていたのだろう、と。
それから十数年後、かくして私はそれなりの会社でOLをして、そこで見つけた人と結婚して、一児の母となる。
息子が一歳を迎える少し前、世はコロナ禍に突入していた。
それまで特段困りごともなく、順調に成長していた息子だったが、検診は延期、子育て広場は軒並み閉鎖、公園へ行くことさえ憚られる世の中。
部屋の中で、危なっかしくよちよち歩く息子と二人、息が詰まるような日々だった。
そんな時に偶然SNSで流れてきた、『モンテッソーリ教育』の投稿が、母としての人生のみならず、自分自身の人生を振り返るきっかけになろうとは、予想だにしない。
いつものように、気楽に、それを読んだのだ。
モンテッソーリ教育の根底は、子どもを一人の人間として尊重しよう、ということだと、ど素人なりに理解している。
自分より何倍も小さく頼りない生き物だから、つい、『まだこれはできないだろう』とか、『自分では決められないだろう』とか、その優しさがいつの日か押し付けになり、『親(大人)が言うんだから間違いない!』『言われた通りにしていればいいんだ!』となる。
その縮図は、恐ろしいことに、私には容易に想像できたのだ。
自分もそう育てられてきた自覚があるし、そしてまた自分も、息子に対して同様の感情を抱いていたことに気付かされた。
一歳になる頃といえば、早い子は歩き出すが、まだまだハイハイの子も多い時期。
我が子は出生時から身体が大きく、すでに十キロを超えていたにも関わらず、九か月になる前からよちよち歩きを始めていた。
体重の重い子が早く歩くとO脚になるだとか、ハイハイの時期が短いと体幹が弱くなるだとか、諸説あるのだが、私はそれを気にして、当時歩きたくてしかたのない息子に、意図的にハイハイをさせようと四苦八苦していたのだ。
だって、先輩ママたちがそう言ってるし。その道の第一人者らしき人もそう言ってるし。
なのに、どうしてこの子は、言うことを聞いてくれないのだろう。私は母親なのに、言うことを聞かせられないのだろう。誘導が下手なのか?どうしたら思い通りに動いてくれる?動かせる?
そんなことばかり考えていたことに気付かされ、ぞっとした。
モンテッソーリ教育では敏感期という考え方をするのだが、今目の前の子どもが、なにをしたいのか、それを見極めて環境を整えることこそが、大人の役割である、と言う。
環境が整っていれば、子どもは自ずと、今身に着けたい力を、自ら学ぶというのだ。
正直、そんな上手くいけば苦労しないけどね、と思った。
しかし、我が子の場合は、ことごとく上手くいったのだから、驚きである。
とにかく歩きたい様子の息子のために、できる限り散歩の時間を増やした。
遊具のない公園で、手を離し、好き勝手に歩かせた。
するとみるみるうちに、歩くのみならず、走る・ドリブルする、なんてことができるようになってしまったのだ。一歳一か月のことである。
初めて手をつかずに公園を一周歩けたときの、あの息子の満ち足りた顔は、今でも鮮明に覚えている。
その経験が、私がモンテッソーリ教育を信頼する根拠となり、そこから色々な本を手当たり次第に読み漁って、ふと気づくのだ。
これらの本に書かれている望ましい親の接し方は、まさしく、自分が両親にして欲しかったことだ、と。
そしてこれだけは絶対駄目、と書かれている接し方こそ、私が両親にされてきたこと、そして、私が息子にしていることだ、とも。
平成の初期、今では虐待とされることも『躾』として罷り通っていた時代。
父も母も、よく手を上げ、声を荒げて罵る人たちだった。
それは私や弟にだけではなく、夫婦喧嘩でもそうであった。
ある日は漫画が宙を舞い、ベランダから母の化粧ポーチが投げ捨てられたときのことは、断片的にだが、今でも記憶に残っている。
だからと言って、夫婦仲が悪いわけでも家族仲が険悪なわけでもなかった。
休みの日にはお弁当を持って公園へ出掛けたり、長期休みには必ずと言っていいほど、キャンプに連れて行ってくれた。
玩具や身の回りのものも、必要以上に買い与えてくれたし、毎年誕生日会には親戚が大勢集まってくれて、一見すれば恵まれた家庭だったと思う。
だから、正直今でも、『毒親』とは言い切れない部分もある。現に、私は両親が好きだからだ。
それでも、胸に刺さってずっと抜けない棘があることも、ぽっかりといつまでも埋まることのない穴が開いていることも、事実なのだ。
それとこれとは相反するから、私はこれまで、両親が好きだという感情しか認めてこなかった。
いくら自分を罵られようと、尊重されなかろうと、私は両親が好きだし、両親も私のことを愛してくれている。それだけでいいじゃないか、と。
あれもこれも、もう過ぎたことだし、今私は幸せなのだから、と。
けれども、それだけじゃいけないのだと、母になり知る。
このままでは、私は両親と同じことを、当たり前のように息子にするだろう。
そして息子は、私のような思いを抱えることになるのかもしれない。
一生抜けない棘を刺して、穴を開けて、それでも口では『愛してる』と言って。
そしてゆくゆく、息子が父親になることがあれば、きっと息子も同じことを我が子にするのだ。もちろん悪気なんて微塵もなく。
そんな歪な関係、私で終わらせたいと思った。
だから覚悟を決めたのだ。
「どうして左手で書くの!」
私の意思などお構いなしに、無理矢理右手に持ち直させられた鉛筆で、上手な字が書けるわけがなかった。書く意思もないのだから、当たり前だ。
母は左利きを嫌がった。
のちに知るが、母の時代では、左利きは親の躾がなっていない、と言われることが多かったらしい。だから母は、宿題に取り組む私を見ては、右手で書けとしつこく怒鳴ったのだ。
幼心に納得のいかなかった私は、結果生粋の左利きとなるのだが、いまだに左右盲は治らないし、ペンの持ち方も綺麗とは言い難い。箸の持ち方は、いざ夫のご両親に結婚の挨拶に伺うとなるまで、ままならなかった。
両親は、頑なに右手を使わない私に、よくこう言った。
「左利きなんて教えられない。自分でどうにかしなさい。」
言葉通り、鉛筆の持ち方も箸の持ち方も、はさみの使い方、包丁の扱いさえ、両親から教わった記憶はない。
酷いな、と思ったことが、ないわけじゃない。
それでも心のどこかで、言われた通りにできなかった自分が悪いのだと、申し訳ない気持ちがあったのだ。
またある時は、こんなこともあった。
中学に入学したての頃だ。
同じマンションに住む一つ上のRちゃんは、吹奏楽部でフルートを吹いていた。
Rちゃんは小さな頃から私の憧れで、吹奏楽部の体験入部にもたびたび顔を出していたから、親経由で母の耳に入ったのだろう。
「運動部以外は認めないわよ。吹奏楽部に入るなら、部費は出さないからね!」
母のその言葉に、逆らう余地はなかった。
中学生がお小遣いを部費に充てるなんて現実的じゃないし、母ならそのお小遣いすら没収しかねない。
要するに、詰みだったのだ。
仕方なく、先輩がいないから上下関係楽そう、という理由だけで、バドミントン部に入部するのだが、そもそも運動は苦手だし、やる気はないし、おまけに仲の良かった友人は次々に退部していく始末で、散々の部活生活となる。
引退するまでに、何度部活を辞めたいと話したことだろう。
両親は決してそれを許してくれず、仕舞いには、
「部活を辞めるなら、K高校(地元で一番偏差値の高い高校)に入れるくらいの成績とれよ!」
と言われたから、それに頷いたところ、
「そんなこと、できるわけないだろ!」
と一蹴された。
確かに私は、当時、成績はあまりよろしくなかった。
けれども、その頷きはその場凌ぎなんかじゃなく、割と本気だったのだ。
勉強のやり方がわからないだけで、いわゆる、まだ本気出してないだけ、という思春期特有の根拠なき自信でもあったが、それでも、間髪入れずにその言葉を言われたことは、いまだに根に持っている。
のちに中学二年生の冬から塾に通うことになるのだが、みるみるうちに成績が上がり、K高校も射程範囲だと、塾長に言われるまでになったのだ。
あの時の頷きに根拠はなかったけれど、やればできたのだ。
なぜ父はあの時、私を信じてくれなかったのだろう。
その不信感は、それ以降も、私が大人になっても、続いていく。
卒業後にそれなりの会社に就職するため、高校は偏差値ではなく、就職率で選んだ。
「K高校なんて入ったところでどうするのよ。普通科出ただけで、まともな会社に就職できると思ってるの?」
「大体、公立落ちたからって私立なんて無理なのよ?わかってる?」
志望校をK高校にしようかと悩んでいた折、母は、それはもう流暢に、それを咎める言葉を次々と吐いた。
それを跳ね除けるほどの情熱もなかったし、実際、その方が楽だ。
ほんの少しだけ、頑張ってみたいなと過った程度の、軽い気持ちだ。
まあ別にいいか、と思うことにした。
それがこれから先の人生にどれほど影響してくることか、私も母も、わかっていなかったのだ。
そうして大した苦労もなく入った高校で、それなりの会社に推薦してもらうためには、三年間成績トップ層を維持することが必須条件だった。
塾に通い、勉強は好きになった。やり方もわかった。
そうなった私にとって、就職率で選んだその高校は、授業さえ聞いていれば満点が取れるようなテストを出してくれる学校だったから、それもそう難しいことではなかった。
その当時付き合っていた大学生の彼氏は、毎日毎日、それはもう大層輝いて見えた。
サークル?ゼミ?宅飲み?オール?
もはや、『単位やばい』という台詞さえ、格好よく思えてしまうくらいに。
高校生よりずっと自由で、社会人よりは不自由そうなその様を隣で見ていて、憧れてしまうのは必然だった。
高校三年生の春、進路相談で担任は開口一番こう言う。
「就職じゃもったいないぞ。」
進路指導主任まで同席したその面談では、なぜ私が就職を希望しているのか、金銭的な援助にはこんな制度がある、といった話で、それを聞いた私は、懲りずにまた、ほんの僅かに期待してしまっていたのだ。
学校の偏差値に似つかわしくない、指折りの有名大学の指定校推薦枠。
ここなら、周りの目をなにより気にする両親にとっても、悪くない。
もしかしたら、ひょっとしたら、ひょっとするかも。
「は?いまさら何言ってんの?なんのために商業高校入ったのよ。」
「大体、女がそんな高学歴になる必要あるのか?その成績ならいい会社の内定貰えるだろう。」
「むしろ、お前みたいな井の中の蛙が、そんな大学行って卒業できるのか?今よりもいい会社に就職できるのか?」
まだまだ飛び出した不適切発言を、十数年経った今でも覚えている自分が、時に哀れになる。
あのときの絶望感は、今でも鮮明に、つい昨日のことのように、胸を締め付ける。
やりたいことがあったわけじゃない。
親を説き伏せるだけの理由があったわけでもない。
だが、もう知っていた。
やりたいことなんてなくても、当然のようにそれを探しにいけて、それを応援してくれる、見守ってくれる親がいることを。
思い返せば、たぶんこのときから、本当は気付いていたのだと思う。
自分の親は、ありのままの私には興味がないのだと。
私が彼らに何を与えられるか、それしか重要ではないのだと。
十八歳、まだ大人ではないけれど、もう子供でもなかった。
どうしたらいいのか、どう決着をつければいいのか、自分の心を守る方法はわかっていた。
両親が思い描く理想の娘でなければ、徹底的に罵られるとようやく学習した私は、なるべく基本給が高く、それでいて安定している金融系に就職した。
商業科目の中で簿記はあまり得意ではなかったし、数字に強いわけでもないけれど、そこは両親が口を揃えて勧めてきたからだ。
わかりやすく両親は、私の就職先を、知人や同僚に触れ回っていた。
それが誇らしいと思えるほどの従順性はすでになく、滑稽だとさえ思っていた。
社会人になり、家を出ようと考えたこともあったが、ここでもまた、母が立ちふさがる。
家を出ても生活費を送れだとか、心配だからオートロックで女性用の賃貸にしろだとか、片田舎では無理難題の条件ばかり提示されたのだ。
そもそもいくら基本給が高いところを選んだとはいえ、高卒の給与にそこまでの余裕があるわけないのに。
激務に耐えかね体調を崩し、入院一歩手前になったときもそうだった。
私自身のことより、会社を辞めようとしている私を責め立て、すぐに転職先を見つけなければ家を追い出すと、ベッドに横たわる私に言い放ったのだ。
私がどうやってその支配から逃れたのかと言えば、当時の彼氏の存在だった。
Yくんは同い年の大学生で、県外の大学の近くで、一人暮らしをしていた。
私はほとんど自宅には帰らず、ここで半同棲のような生活を三年ほど過ごす。
もちろん、両親からは鬼電がかかってくるし、家で顔を合わせれば大喧嘩。
けれどこの時期に初めて私は、両親がいなくたって自分は生きていけるのだと知る。
両親の許可なんていらない、私は私の人生を歩んでいいのだと、Yくんが教えてくれたのだ。
結局Yくんとは破局するのだが、彼の存在がなければ、今の私はないと言い切れる。そう思うほどに、感謝している恩人だ。
Yくんと破局後、今の夫と出会い、夫も一人暮らしをしていたので、そこへ転がり込むような形で、数年後、無事に私は、戸籍上も家を出ることになった。
両親の支配から逃れて、幸せを手に入れた私は、現状に満足しきっていた。
在りし日の傷も、癒えたかのように思っていた。
けれども違うのだ。
人として尊重されなかった日々も、子ども扱いされて真剣に取り合ってもらえなかった日々も、一番近くの大人に信じてもらえなかった日々も、消えてなくなってはくれない。
浴びせられた言葉の数々は、大人にとっては何気ないものでも、子どもにとっては一生刻まれる十字架なのだ。
それをすっかり忘れて、私は同じことを息子にしようとしていた。
いや、今でもうっかり、気を抜いてしまえば、たぶんしてしまうのだ。
それくらい、私にとってそれが当たり前だったから。
やりたいことがなかった、全部親に言われたから諦めたって、親のせいにしているだけだ。
そんなの甘えでしかない。そう言う人もいると思う。
私もずっとそう思ってきたから、わかる。
だが、違うのだ。
違うと言っていいのだ。
普段から自分を信頼して、応援してくれているという実感があれば、きっと親にあれこれ言われても、めげないのだろう。ひょっとしたら、気にも留めないのかもしれない。
けれど、それが毒親の怖いところなのだ。
毒と称されるように、ゆっくりと確実に心を蝕んでいく存在。
一つ一つは大したことではないかもしれない。
でもそれが積み重なる、繰り返されることで、両親に認められない自分が悪いのだと、刷り込まれていく。
またネグレクトとは違い、両親の望む子どもでいれば、思い切り愛してくれるのだ。
それがわかっているから余計に、期待通りにできない自分に嫌気が差すし、時にありのままの自分が認められたかのような錯覚を起こしたりする。
だから、厄介なのだ。
懲りずに何度も、もしかしたら、なんて期待してしまうのだ。もしかしたら、なんて、絶対ないのに。
大人になり、私も人の親となったから、両親がどうしてああも支配的で過干渉だったのか、少しはその気持ちや、背景を考えてみようと思う。
両親は二十歳になる年に、私を産んだ。
私が多感な時期、両親はまだ三十代前半。
二十代にまともな青春も、楽しいこともできなかっただろう。
それこそ周りが遊んでいるなか、必死に働き子育てをしていた悔しさみたいな惨めさは、周りが大学生活を謳歌するなか、残業に明け暮れていた自分の姿とも重なる。
両親はともに片親育ちで、家庭環境がよくなかったことは、本人たちからよく聞かされていた。
「帰る家なんてないんだから!」
これは夫婦喧嘩における、母の決め台詞のようなものだった。
だから両親は、きっと人一倍温かい家庭を築きたいと願っていたのだと思うし、実際にそれは肌で感じる。
子どもの人権は皆無に等しかったが、家族としての形は一層まともだったように思うのだ。
左利きを直したかったのは、自分のプライドだけの問題ではなく、私を『若い親に育てられた非常識な子』にしたくなかったのだろう。
運動部にどうしても入らせたかったのは、バスケ好きだった母が、中学時代は家庭が荒れに荒れていて、とても部活なんてできる環境ではなかったから、その未練みたいなものなのかもしれない。
自分ができなかったことを子どもにはやらせてあげたい、そういう『想い』の部分は、理解できなくはない。
大学に行かせられないという呪いの言葉も、きっと初めは、憂いを帯びていたのではないだろうか。これはもう、ただの願望なのだが。
つまりなにがしたいのかって、ここまで考えてようやくたどり着いた答えは、結局、私は両親を許したいのだ。
許したところで、刺さった棘が抜けるのかもわからないし、きっと心に開いた大きな穴は、人生を終えるその瞬間まで、完全には塞がらないのだろう。
けれど、許したい。もう、終わらせたい。
両親はきっと絶対に、謝ったりしないのだ。
いつだってそうだった。
だから謝罪の言葉が欲しいなんて、今更思わない。
こんなに大きな傷をつけたんだよって、本当はわからせたい。わからせて反省させたい。
そういう気持ちがないと言ったら、大嘘になる。
だが、そんな戦いを挑む暇は、母である私にはないのだ。
ならばどうしたら許せるのか。
その答えは、割とすぐに出た。
「あんた、声掛けがうまいんだねぇ。」
ある日、母が感心した様子で、私にそう言ったのだ。
たしか、駐車場で手を繋ぎたがらない息子に、ママ一人じゃ迷子になっちゃうから助けて、とかそんな感じのことを言ったときだったと思う。
鮮明にその瞬間を思い出せないほどに、何気ない瞬間だったのだ。
子育ては、いわばできて当たり前、みたいな風潮がある。
車が来るから危ないよ、と手を繋いだところで、それが親として当たり前の対応だと思われているのだ。
実際に子育てをした人ならば、この難易度がわかるだろう。
先ほどモンテッソーリ教育の話でも挙げたが、子どもは本来自立したい、一人でできるようになりたいものらしい。だから、手を繋ぐことだって、嫌な時期があるのだ。
僕(私)、一人で歩けるのに!手を繋ぐなんて赤ちゃんじゃん!みたいな時期が、必ずあるものなのだ。
それをどうにかこうにか丸め込んで、時には泣かれてでもやらねばならないのが、親だ。
結構大変なものだが、世間はそれができて当たり前。
できなきゃ教育のなってない非常識な親だと言われる始末だ。
前置きが長くなってしまったが、要するに、子育てのワンシーンを誰かに褒められることってあまり多くなくて、しかもそれが、あの母だなんて、到底想像しえないことだったのだ。
ああ、これだ、と思った。
私が両親に言って欲しかった言葉を、して欲しかったことを、息子にしてあげる。
私はあの人たちがなれなかった、まともで、健全で、子どもを支えられる母になればいいのだ。その姿を、見せ続ければいいのだ。
そしてあわよくば、いつの日か気付いてくれたなら、言うことはない。
『自分たちも、ああしてやればよかったな。』
なんて。
今はネットで、SNSで、知りたくないことさえ勝手に履修してしまう時代だ。
もし学生時代に、自分の親が毒気質だと気付いていたら、果たして私はどうしたのだろうかと、考えることがある。
まだ一人で生きていくには非力で、親から逃げることなんてできない年の頃に、自分の置かれた境遇に気付いてしまったら、どうしようもないじゃないか。
だって、親は変えられない。
これからもこの支配が途方もなく続くとわかっていたら、ほんのわずかな期待さえ持てないのではないか?
私は運良く、大人になるまで知らずにいれた。
毒に侵されていたことに気づいた頃には、逃げる場所があった。だから少しはまともになれて、誰かと愛し合い、家庭を築こうと思えた。人の親になりたいとも思えたのだ。
でもそれが、例えば中学生の頃だったら?未来に希望なんて持てないだろうし、ただただ、一刻も早く自立したいと願うだろう。
自立した先に、自分が親になるのが怖いという気持ちがあるのも、容易に想像がつく。
もしかしたら、それが正しいと言う人もいるかもしれない。
けれど無責任にも、少しでも願う未来があるのなら、きっと大丈夫だと、私は伝えたい。
正直、上手くいかないことは多い。
周りの真っ当で健全な親に育てられる子どもは、やっぱり違うな、なんて思うこともある。息子に申し訳なくなることだって、数えきれない。
だが同時に、気付けてよかった、とも思うのだ。
無意識に、当然のように、子どもに寄り添い、支え、助けられる人間だったら、そんな気付きはいらないのだろう。
だが、毒親育ちでなくとも、それほどできた人間は、あまり多くはないはずだ。
そういうありふれた、ある意味で普通の人間が、なんの知識もなく親をやっていることの方が、ひょっとしたら危ないんじゃないか、とも思うのだ。
毒親に育てられた私は、子どもの痛みが人一倍わかる。あの時こうして欲しかった、ああ言って欲しかった、それを忘れたくても忘れられずにいることは、ある種、強みになりえるのではないか?と。
息子の寝顔を見つめるとき、私はいつも胸に手を当てる。
どうかこの子が、私のようになりませんように。
どうか私が、両親のようになりませんように。
健全ではないその痛みを含んだ願いが、最後の砦になることを祈って、私は今日も、これからも、母でいる。
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