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実体験

こんばんは、最近は朝晩が冷えますが、日中はまだまだ冬には程遠い気温が続いていますね。
今日は自分の祖父について話そうと思います。
ちょっとこれを書くと気持ちがキュッと閉まるのでいつ書こうかと思っていました。

私の父方の祖父は93歳で亡くなりました。
病院に勤めていた時だったので、夜勤上がりで帰っているときに連絡が入ったのを覚えています。
もともと冠動脈(心臓に栄養をおくる重要な血管)が3本あるうちの2本が詰まっており、新しく自力で血管を伸ばしてなんとか心臓の働きを保っているような祖父でした。
看護学生の実習中に祖父の疾患について確認をするレポートの際にはメモを渡してくれ、そこには「狂心症」と書いていたことが今でも忘れられません。(※正確には狭心症です。冠動脈の血管が狭くなる心臓の病気です)

そんな祖父が入院したのは癌でした。
闘病生活を続けていくうちに徐々に退院し自宅にいる間隔が短くなり、気づけば入院しながらあちこちの病院を転々とするようになっていました。
始めのうちは私もたびたび通っていましたが、気づけば少しずつ足が遠のき、1か月、2か月と間が空くようになっていきました。
闘病生活最後の2か月頃、私の父から状態が良くない。もう長くはないといわれ、病院を訪ねました。

個室のドアを開けるとベッドサイドにはおむつ交換の時間や飲水時間などが書かれた表がおかれており、腕には点滴が。そして、両腕には安全帯がついていました。

その光景に改めて看護師ではなく1人の家族として祖父と向き合い、ショックを受け、少し意識が変化したように感じました。
ドアを開けたことで、人が入ってきたことにきづいた祖父がゆっくりと首を回し、私を見つけ、「おー、〇〇か」と嬉しそうにつぶやきました。

この〇〇は私の兄の名前でした。
兄弟なので、似てるところもあるだろう、視力の低下もあってよく見えなかったのかとも考え、近づいていくと「よくきてくれたよ、〇〇」とやはり兄の名前を祖父は呼びました。
この時の衝撃はうまく表現ができないのですが、胸がキュッと締め付けられるような、一瞬だけ氷水に全身を浸かったような、体の自由が一瞬だけ人に奪われたような。そんな強烈な不安がありました。

父が「もう、あんまり覚えてることないんよ」と寂しそうに話し、私が知らない間に認知機能はどんどん低下していき、気づけば覚えているのは父と兄、あとは友人が数人とのことでした。

それでも、兄としてみられていたとしても、祖父の昔からの優しい笑顔は変わらず、それが逆にしんどかったように思いすぐにでも病室を出ていきたい気持ちに駆られました。
その後は何を話したのか覚えていません。
ぼんやりと安全帯を外してあげたいな程度の考えは持っていたかもしれませんが・・・。
それから2か月がたち、4回ほどの面会の後に祖父は亡くなりました。

後悔しても何も残らないのはわかっていましたが、無力感が強く、どうにかできたのではないかとも考えました。
その時は認知症だからなのか、別の理由で認知機能が低下しているのか評価もできませんでした。

さて、少し重たい話をしましたが、何を言いたいのかといいますと
1.忘れられた衝撃は想像できないぐらいにしんどい
2.私も認知症をもつ家族、親族がいたこと
3.知らないことは悪いことではないが、知っているからできることはたくさんある
の3点です。
認知症は本人も大きな衝撃、生きにくさが出ます。
そして、認知種をもつ方の周囲の人にも同様に大きな衝撃と、生きにくさを与えてしまいます。
私のような経験をする方が一人でもなくなればと思いますが、気づけなければ何も始まりません。

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長い間読んでいただきありがとうございました。
自分の時はこうだった、あの人はこうだった、今こんなことに悩んでるなどあれば気軽にコメントに記載してもらえたらと思います。
認知症で悩む人が一人でもなくなればと思います。

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