ある日の病棟ときっかけ
皆さんこんばんは。
私が認知症のことを勉強しようと思ったきかっけになったことを紹介したいと思います。
数年前のある日・・・
私の受け持ちのAさんは、ターミナル期の患者さんでした。
フルモニター(心電図(ピッピッ・・となるあの器械です)に血圧計やSpO2測定機器がついたもので、その一台でたくさんの情報が把握できるようになっています)がついており、もう尿量も少なくなり、意識もかなり朦朧としている状態で中心静脈栄養(点滴)のみで数日が経過しています。
状態だけを見れば数日中に亡くなってもおかしくない方でしたが、両手には安全対策として安全帯(手首に装着する布製の5cm程度の幅の紐で、手首に巻いて行動を制限する目的で使用していました)がまかれていました。
いつから安全帯が開始になったのかと考えると、中心静脈路(少し特殊な点滴で誤って抜去したり、挿入部が不潔になると身体状態、場合によっては生命に影響を与える様な管)から高カロリー輸液をはじめた時に点滴のルート(管)を訪室時に触っていたからだったと思います。
何なら初めのころはそこに安全ミトン(手指を曲げられないようにする手袋)をつけていたようにも思います。
そして、1日が経ったころにAさんは息を引き取られました。
排尿が出なくなり、血圧も低下したまま上がらず、意識も朦朧としたまま亡くなられましたが、幸いご家族の見守る中での最期でした。
ご家族が到着するまでは安全帯を使用し、到着直前に外し、看護師がご家族と入れ替わりで退室する形でした。
私はお見送りまでさせていただいて、その日の仕事は終わりました。
その日、お風呂に入り仕事を振り返っていたときにふと「あれ?」と感じたのを覚えています。
表面上は「よくある最期の看取り方」のように考えていましたが、あの安全帯はそもそもいつまで必要だったのか。そして、それを外そうと声をあげることをしていなかったことに気づきました。
そこから、安全対策に対して、本当に必要なのか?
それを外すためには何が必要なのか?
せん妄・認知症をどうにか対処しなくてはいつまでも変わらない。
そう考え、私は資格の取得や手に入れた肩書で少しずつ変化を求めて行動するようになりました。
今思い出してもよくないことの連続でした。何が良いのか、悪いのか、それを判断するのはどうしていたのか。何もかもがめちゃくちゃだったと、もっと変化を起こせるタイミングはたくさんあったのだと思います。
もちろん、過去には戻ることはできないのですが、この失敗を他の誰かにしてほしくないと考え書くことを決めました。
ここまで読んでいただきありがとうざいました。
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また、認知症に関してこういった記事も書いています。
これから周囲の方や、配偶者のかた、自分の親など身近な方に大きくかかわる可能性が高いものです。ぜひ、一読していただければと思います。