RealEditor
未踏襲エリアを開拓する男の物語。
キヤノン販売の駐在員としてアメリカに赴任その後、Macintoshの売上は安定するようになり、私も管理職になった。売れたことによりApple社やMicrosoft社との独占販売契約は解消となり、各社の日本支社がイニシアティブを取るようになった。キヤノン販売から何かを仕掛けることが少なくなり、正直退屈していた。転機が訪れたのはその頃である。 新たに海外から新しいソリューションを輸入する必要が生まれていたが、それを担う組織がない。当時はソフト会社との交渉や新商品のリクルートは、
次の一手でグーンと伸びた売上Excelの評判もよく、多くのセールスマンがMacintoshを販売できるようになったことで売上も安定してきた。しかし、常に順風満帆とはいかないのがビジネスの世界。今度は競合他社がMacintoshの弱点である日本語の脆弱性をついてくるようになったのだ。 確かに、Macintoshの日本語ワープロはあるものの、NEC PC-9801のワープロと比べれば大人と子どもの差。この差はそう簡単に埋まりそうにない。それであれば違う戦略しかないと考えた。
Macintoshの危機1985年、Apple社の本社がある米国では、問題が勃発。Macintoshの売れ行きが芳しくなく、スティーブ・ジョブズが解任される騒ぎが起こっていた。 一方、当時の私はソフトの販売企画も担当していた。ある日、米国Microsoft社の日本人担当者による訪問を受け、同社が開発中の総合ソフトの評価を依頼された。その総合ソフトというのが、私たちの生活でもおなじみの「Excel」である。 開発途中のExcelを使ってみたところ、頻繁にバグが起きて落ちるも
なかなか売れなかったMacintosh「なぜキヤノン販売がApple製品を販売するのか?」と疑問を持たれそうだが、これは当時キヤノン販売の社長であった滝川精一氏と、Apple社の日本代理店を探していた福島正也氏の思惑の一致にある。当時、滝川社長はキヤノン販売の東証一部上場を目標に掲げていたが、キヤノン製品100%での上場は難しいと、証券取引委員会から指摘されていた。 時を同じくして、発売予定であったMacintoshをビジネス分野で広めようとしていた福島さんが、キヤノン販売
キヤノン販売入社から大阪の店舗で販売研修大学を卒業した1977年、私は新卒1期生としてキヤノン販売(現、キヤノンマーケティングジャパン株式会社)に入社した。実家がカメラ問屋である私はいわゆる縁故採用だったが、当の本人はカメラに関してまったくの無知。しかし、周りからはカメラの知識はあって当然と思われていたので、こっそり猛勉強して、誰にも負けないほどの知識を身に付けた。 まもなくして、大阪一のカメラ店であるナニワ商会で新人販売研修が実施されたが、そこでもまた売上に大きく貢献して
Macintoshの販売は未踏襲エリアだったたとえ見通しが立たなくても、自分が信じたものには全力で力を注ぐ。キヤノン販売でMacintoshに携わった5年間は、誰もが行っていない未踏襲エリアの開拓そのものだった。そして、その後の私の人生を大きく変えてしまうほど濃いものでもあった。 アメリカに遊学した大学時代からキヤノン販売への入社、Macintoshやそれに携わるさまざまな人々との出会いをここでは振り返りたい。 大学時代から発揮していた営業センス「モノを売る」ということに