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神泡

 彼は「神泡」に夢中だった。 
 ビール? いや、そうではない。生クリームに砂糖を加え、泡立てて作る、あのホイップクリームの「神泡」に夢中なのだ。
 
 彼はある時、たまたまホイップ作りの動画を目にした。生クリームが美しい泡に変化していくプロセスのあまりの美しさに魅せられ、衝撃を受けた。以来、彼はいかに美しく滑らかでおいしいホイップクリームを作るかの試作に夢中になった。そしていつしかホイップ作りは彼の毎日のたいせつなルーティンになった。

 丁寧に愛情をこめて作り上げたホイップクリームは、お気に入りの青いガラス製デザートカップに盛り付けられ、銀のスプーンで彼の口へ運ばれる。彼は目を閉じてそれをゆっくりと味わう。ホイップクリームの世界はなんと奥深いことか。

 ホイップクリームとの至福のひとときを過ごした後、彼は24時間営業の会員制ジムへ行き、ホイップで摂取したカロリー分を消費すべく、有酸素運動に励む。神泡を堪能し、緩んだ心身はもとに戻さねばならない。万が一にも体型を崩すなどということは、あってはならなかった。

 彼は自他ともに認めるエリートだった。会社ではバリバリ働き、人間関係もうまくこなし、しかも爽やかなイケメンで、完璧な人間に見られていた。これからも間違いなくエリートコースを突き進むであろうし、そうなってほしいと周囲からも思われるような人間だった。ひとり暮らしのマンションに帰った彼が、会社での姿とはかけ離れた姿で、ホイップの神泡にうっとりしていることは誰も知らないし、想像できないだろう。

 いつからだろうか。彼自身の中で、会社での自分が偽りの姿に思えてしまうようになった。しばらくの間、彼はひとりで悩み、苦しんだ。そして彼は大きな決断をした。
 会社を辞めた。単身フランスに渡り、パリの製菓学校で2年間学んだ。その後1年間パリの有名菓子店で修業し、帰国した。帰国後、彼は洋菓子店をオープンした。かつての彼を知る誰もが驚く転身だった。

 甘い香りとホイップクリームに囲まれ、彼はこれこそが自分の天職と感じていた。お客さんの笑顔が何より嬉しかった。彼の店のホイップのおいしさと絶妙なふわふわ感が評判になり、彼の店は一躍人気店になった。
「神泡」が彼の人生を変えた。

 人生というのはわからない。わからないからおもしろい。 

人生というのはわからない。わからないからおもしろい。


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