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〜沖縄…戦争と平和〜 その2 訪れた場所の写真とともに、祈りを込めて(2025年1月)
今回、沖縄で、戦争と平和について学び、考えることのできる場所を訪れることができました。その場所について、書いてみたいと思います。
2 白梅学徒隊
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白梅学徒隊とは、沖縄戦で従軍看護婦として活躍して犠牲になった女子学徒隊のうち、沖縄県立第二高等女学校の四年生たちによって編成された部隊の名前。「白梅隊」「白梅看護隊」と呼ばれることもある。「白梅」は沖縄県立第二高等女学校の校章で、戦後になってから「白梅学徒隊」「白梅部隊」「白梅看護隊」などと呼ばれるようになった。
白梅(しらうめ)学徒隊の生徒46名のうち22名が戦死しました。
学徒隊に入隊した生徒たちは、18日間の看護教育のあと、八重瀬町の第24師団第一野戦病院に補助看護婦として配属されました。実際の仕事は、負傷兵の看護、排せつ物の処理、水くみ、食事の運搬、伝令、死体の埋葬など過酷なものでした。
糸満市真栄里には「白梅之塔」が建立されており、沖縄戦で犠牲になった学校関係者149人が合祀されています。
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1984(昭和59)年 母校跡地に建立された永遠の乙女像「白梅の乙女たち」の案内板
沖縄県立第二高等女学校は、太平洋戦争の戦渦によって昭和19年(1944)10月10日に校舎を全焼し、暫時民家等で分散授業が行われたが、沖縄戦の激化によって学校の機能は消滅、戦後も復興されることなく自然廃校になった。
創立80年の節目にあたり、元職員と同窓生及び篤志家の協力を得て、母校が存在した証のモニュメントとして、また、人類共通の願いである平和のシンボルとして、永遠の乙女像「白梅の乙女たち」をここ母校の跡地に建立する。
昭和59年(1984) 9月10日 白梅同窓会
沖縄戦では21の学徒隊が動員されました。その動員数、戦死者数についてはいまだ不明な学徒隊もあります。わかっているだけで1913人が動員され、980人が戦死し、戦死者率は51%にのぼります。
学徒隊のうち、女子の学徒隊は以下の通りです。
・沖縄師範学校女子部(ひめゆり学徒隊)
・沖縄県立第一高等女学校(ひめゆり学徒隊)
・沖縄県立第二高等女学校(白梅学徒隊)
・沖縄県立第三高等女学校(なごらん学徒隊)
・沖縄県立首里高等女学校(瑞泉学徒隊)
・沖縄積徳高等女学校(ふじ学徒隊)
・昭和高等女学校(梯梧学徒隊)
・沖縄県立宮古高等女学校(宮古高女学徒隊)
・沖縄県立八重山高等女学校(八重山高女学徒隊)
・沖縄県立八重山農学校(八重農(女子)学徒隊)
3 ひめゆり学徒隊とひめゆりの塔、ひめゆり平和祈念資料館
沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校からも、生徒222名・教師18名、計240名が看護要員として動員されました。2校の愛称が「ひめゆり」であったことから、戦後になってから「ひめゆり学徒隊」と呼ばれるようになりました。
学徒看護隊は懸命に負傷兵の看護にあたりました。特に、飯上げや水くみ、死体埋葬は、危険な壕の外に出なければならない命がけの仕事でした。食事や生活環境は、戦況の悪化に伴ってますます劣悪になっていき、過酷な状況の中、健康を害する生徒も出ました。
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壕の入り口が縦穴になっているため、梯子をかけて壕に出入りしていました。
1945(昭和20)年5月までは「沖縄陸軍病院」は南風原町(はえばるちょう)にありました。しかし戦況の悪化によって、5月22日に第32軍司令部が首里から南部の摩文仁に撤退すると、陸軍病院も5月25日に撤退を開始し、糸満市伊原のこの付近に、第一外科、第二外科、第三外科とそれぞれ別の壕に入りました。沖縄師範学校女子部と県立第一高等女学校の学徒隊(ひめゆり学徒隊)もこれと行動を共にしています。
戦況が絶望的になった6月18日には、学徒隊に解散命令が出されます。その翌日19日朝、第三外科壕は黄燐手りゅう弾などの攻撃を受け、壕内にいた96名のうち87名が亡くなりました(うち学徒隊の教師5名・生徒46名)
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沖縄陸軍病院に動員された生徒・教師240人のうち136人が亡くなりました。死亡者の86%にあたる117人が6月18日の解散命令後に死亡または行方不明になっています。解散命令は結果的にアメリカ軍の包囲網の中に生徒たちを放り出すことになり、その後の犠牲を飛躍的に増やしました。
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ひめゆり学徒隊の戦争体験を伝えるミュージアム
1945年の沖縄戦で、ひめゆり学徒員として日本軍の病院に動員されたのは15~19歳の女子生徒たちでした。
病院壕やひめゆりの塔のガマ(鍾乳洞)の再現模型のほか、証言映像や当時の写真などによって、戦争の様子を伝えています。
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資料館はひめゆりの塔の奥に所在します。
ひめゆり平和祈念資料館は、1989年6月23日、沖縄戦の体験と平和の尊さを伝えるため、ひめゆり同窓会によって設立されました。
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集合写真
「ひめゆり」というのは、わたしたちの学校の愛称です。
那覇市安里の校舎で、13歳から19歳の約1150人が学んでいました。
勉強やスポーツにうちこみ、友達との楽しい時間を過ごした学校は、
1945年の沖縄戦によって、なくなってしまいました。
戦争は、学校だけでなく、友達や先生の大切な命も奪っていきました。戦争は、いつも身近にあったのに、
本当の戦場の姿を知らなかったわたしたち。
わたしたちは、体験してはじめて知った、戦争のおそろしさ、命の尊さ、
平和の大切さを大切に伝えていきます。
写真に写る笑顔がまぶしく、このまま平和な学生生活が続いたなら、と思わずにはいられません。
戦争さえなければ、あったはずの楽しい学生生活。戦争さえなければ、あったはずの当たり前の幸せ。戦争さえなければ、あったはずの未来。
戦争に奪われてしまった青春。そして戦争に奪われてしまった大切ないのち。
館内では、生き残った方の証言を読むことができます。ビデオによる証言もあります。
最も胸に迫るのは、犠牲になったひとりひとりの写真でした。短い紹介文が添えられています。失われてしまった命の重みを感じます。「沖縄戦の犠牲者20万人」は、一括りにされるのではなく、ひとりひとりの命✖20万人なのだと。
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今は穏やかな時間が流れる中庭
80年前の出来事がまるで幻のように思えてしまいそうな平和な風景でした
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ひめゆり平和祈念資料館の入り口に咲く花、ベンガルヤマネコハズカズラ
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葉が茂り、花が咲く、空からは陽の光が降り注ぐ。青く晴れた空と花とのコントラストが美しい。
4 沖縄県平和祈念資料館
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県営平和祈念公園内に所在します
住所は、糸満市字摩文仁614番地の1
2000年4月1日、現在の新資料館開館。
前身の沖縄県立資料館は、1975年6月11日、沖縄国際海洋博覧会開催に合わせて開館。
私たちは、戦争の犠牲になった多くの霊を弔い、沖縄戦の歴史的教訓を正しく次代に伝え、全世界の人びとに私たちのこころを訴え、もって恒久平和の樹立に寄与するため、ここに県民個々の戦争体験を結集して、沖縄県平和祈念資料館を設立いたします。
沖縄戦終焉の地、摩文仁の平和祈念公園の敷地面積は、約47ヘクタールと広大です。
平和祈念公園内には「平和の礎(いしじ)」があります。
沖縄戦終結50周年記念事業の一環として、平成7(1995)年に建設されました。礎(いしじ)の読み方は、沖縄の方言に由来しています。ゆるぎない平和への想いをこめてつけられました。
平和の礎には、国籍を問わず、沖縄戦で亡くなったすべての人々が刻銘されています。戦没者の母国語で表記され、国別、都道府県別に表記されますが、沖縄県は市町村別、字別に表記されます。平成6年度以降に判明した戦没者は、追加刻銘されています。
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「不条理も怒りも嘆きも悲しみも沖縄の海はずっと見てきた」
東シナ海が広がる、今はただ美しい海
過去のたくさんの悲しみを知っている海
摩文仁の丘には、各県の慰霊の塔が建立されています。坂を上りながら、それぞれの県の塔を目にした時、この南の地で命を落とした方々の故郷への、家族への思いを強く感じました。
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信濃の塔では、この日ちょうど午前に慰霊祭が行われた後で、たくさんの花に囲まれていました。
逆光のため、塔がとても暗く写ってしまいましたが 「塔の濃信」と右から左へ書かれています。
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5 対馬丸記念館
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所在地 那覇市若狭
「対馬丸事件」は、1944年8月22日に起こりました。沖縄県から九州に向かっていた学童疎開船「対馬丸」が米軍の潜水艦「ボーフィン号」の魚雷攻撃を受けて沈没した事件です。乗船していた1788人のうち、疎開学童781人を含む1484人が死亡しました。救助された人々は対馬丸が撃沈された事実を話すことを禁じられ、死亡者や生存者に関する詳細な調査も行われませんでした。
1944年7月以降、日本軍と政府は沖縄本島、宮古島、八重山から子ども、高齢者、女性を九州と台湾へ疎開させました。沖縄近海で、対馬丸を含めた疎開船が米軍の潜水艦による攻撃を受けて沈没しました。
対馬丸事件では、乗船していた多くの学童が犠牲になりました。どんなに怖かったことでしょう。お父さんお母さんのもとへ帰りたかったでしょう。
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「標準語励行
一億一心
ことばも一つ
※正しい日本語を使いませう」
と書かれています。
6 奇跡の1マイル 国際通り
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奇跡の1マイル「国際通り」
沖縄観光の入り口ともいえる国際通り。
そもそも、国際通りという名前の由来は、戦後国際通りのほぼ中央付近(現在のてんぶす那覇付近)に「アーニーパイル国際劇場」という映画館があったことからこの通りの名前がつきました。また、終戦後、県下でいち早く復興を遂げたこと、通りの長さがほぼ1マイルであることから、別名「奇跡の1マイル」とも呼ばれている。
国際通りは、那覇市の県庁北口交差点(パレットくもじ前交差点)から安里三叉路にかけての1マイル=約1.6kmの賑やかな通りである。
芋畑のど真ん中を通る「新県道」時代から今の国際通りまでを見つめ続けてきた浦崎さんは、次の50年への希望をこう託しました。
「光を観ると書いて、観光です。観光客の皆さんが、国際通りに惹かれるのは何なのかということを商店街のみんなで追求していく必要があるでしょうね。これからも、沖縄の文化が感じられるような国際通りであってほしいですね」
↑ 内閣府のページには、国際通りの始まりの歴史から、どのようにしてコロナ禍の危機を乗り越えてきたかまで詳細に書かれています。
沖縄を訪れるたびに、国際通りには必ず立ち寄って歩いてきました。
時代の流れに合わせて変化してきた国際通りは、これからも変わらない温かさを残しながら、国内外からの観光客にも地元の人にも大切にされ愛され続ける場所であってほしと願っています。
また訪れます。
7 最後に
最後に恒久平和への祈りをこめて一首
「人間は悪魔に変わり尊厳は踏みにじられるそれが戦争」
沖縄の地で、あの悲しみを繰り返してはいけない、と強く思いました。
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積徳学徒隊と糸洲の壕については、その1 に書いています👇️ 併せてお読みいただければ幸いです
🌺今回、沖縄を訪れ、戦争と平和について学びを深め、考える機会をいただけたことに感謝します。
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