溶けない雪の中で
病気になって、回復して十日以上たったが、未だに本調子とはいかなかった。一進一退なのか、足踏みをしているのか。
一番のストレスは、お金もそうだが小説が書けていないことだった。金は無い、むしろマイナスでその上身体を壊して小説までかけないなら、死んでいるのと同じではないかと考えた。
でも、久しぶりに少し書けた。そんな些細な事でとりあえず、大丈夫だって気になる。大丈夫だって思えるように小説を書こう。
いや、大丈夫と言うか、小説を気分良く書けている時は、俺は普通でいられるのかもしれないと思う。自分の思ったことや感じたことを書く。素直に。
美しいと思ったことを口にする、憎しみ欲望、親愛、自然に振舞うこと、嘘をつくこと。好きなように生きる、かのような時間。
自分の中で美に対する言葉が失われている。日々、それを口にしないから。独り言にも疲れてしまった。でも、その路傍の呟きを止めてしまったら俺はがらんどうになって生も死もわからなくなって、恒常性に起因する不安から生きることにしがみつくだけの日々をおくるのだろう。
それより、好きなことを好きだと言えるように。
三井記念美術館『国宝雪松図と吉祥づくし』見る。去年も見た円山応挙の雪松図屏風 を見るために行く。とても良かった。記憶の中の雪をまとった立派な松と同じだった。近づいて細部を見れば筆はわりと荒いのだが、全体を見れば生々しい姿が現れる。国宝の名に疑いようのない凄まじい作品だ
円山応挙は緻密で写実的な描写がすごいが、この作品についてはその得意な技法とは別のアプローチをしているように思う。まるでゴッホの作品のように、写実ではなく画家の中の自然が生々しく現れているようなのだ。見ていていつまでも飽きない。目の前の自然に飽きることがないように。
他には玳皮盞 鸞天目(たいひさん らんてんもく)という茶碗がとても良かった。ウミガメの模様、鼈甲のような発色とのことだが、俺は鹿の背の様だと感じた。黒に近い茶の地に点々と白が散らされていてとても美しかった。美術館のライトアップだけではなく日の光の中で手にして眺めたい碗だ
沈南蘋『花鳥動物図』三匹のリスが瓜を狙う。とても可愛い。この人は画力はすごいのに、他の作品は岩と木の質感をわざとかき分けていないようでモヤモヤした。この作品はゴツゴツした木とフワフワリスとグラデーション瓜の対比が見事だ。後、紫のアヒル?のお香がカワイイ。紫の鳥かわいい。
素晴らしいなって思った作品をまた見られると言うのは幸福なことだ。美術館に行くと気持ちが軽くなる、雑念が洗われるようだ。好きな物を好きだと言える生活を送れるように。当たり前のことなのにな。
レイハラカミのファーストアルバムを買って、聞く。彼は俺の中で一番のテクノアーティスト。テクノは詳しくないけど。でも、早すぎる旅立ちで、まだ聞いていないアルバムが俺にとって彼の新作になってしまった。ファーストアルバムらしく、音もリズムも主張が強め。でも、やはり素晴らしい曲たち。
朝田ねむい『CALL』読む。顔が良いが金欠で軽薄なフリーターは、成り行きで冴えないサラリーマンらしきゲイの男とデートサービスの契約をして金を巻き上げるが……。とっても良かった。作者さんの本は他のも人物描写が丁寧。二人は愚かで不器用だが、相手によって変われる。その物語に胸をえぐられる
朝田ねむいは大好きなのだが、前の作品があまり好みではなくて、どうかなあと思いながらこの作品を読んだのだが、とても良かった。作者は現代的な軽薄なノリを表現するのが上手い。打算やゲスい考えやら、様々なことを感じながら人は生きる。その心理描写が巧みだ。
聖人なんて、いない。いたとしても隔離された空間か感受性ゼロでしか成立しない。まあ、いてもいいけど、それを現代の作品の中で表現するのは困難だし、リアリティを損ねる場合が多々(別にご都合主義でもいいならいいけど)。
この漫画の二人の男たちは、どちらも良い奴でも賢い奴でもない。でも、この二人がとても魅力的なのは、彼らが相手の為に考えて変わろうとするから。その行為は、良い結果を生まないかもしれない。だけど、相手の為に変わる姿は、見ている者の、そして彼らが思っている相手の胸をうつ。
漫画って素敵だなって思える作品だった。朝田ねむい先生、ありがとう。
今日は好きな作品に触れることができて、小説も少し書けた。有意義な一日だった。
好きな物にふれて好きなことを考えていれば、それは明日も来るかもしれない。
そんな生活をしていたら、俺はしごとなんてしている場合かよくそったれ、ってなっちゃうけど、支払いあるし、いいとしのオッサンだし。
働きながら、違う景色のことを考えられますように。俺が好きな物は、素敵な物なんだ、って誰かに。