悪意を憎しみを罪悪感を親愛を信じて。
画を描き始めて、少し気持ちが上向きになった。かと思いきや、当たり前だがその場で勢いで描いたのではなく、もう少しデッサンや構図を工夫して良い画を描こうとして、数日筆が止まっている。
それに、仕事も生活もうまく行ってない。
先日誕生日を迎えた。おっさんだなあとしみじみと思う。色んなことが今くいかないまま、歳をとり、様々な物が駄目になって行くことを考えると、憂鬱でしかない。
小説は、自分ではそれなりに手ごたえがある物が書けているけれど、お金にはならない。画は描き始めて楽しいが、形になるには何年も必要だろう。
自死や自暴自棄や本格的な逃避が、二十代の頃よりずっと身近に感じられてくる。
ほんの少しの救いは、文章を、芸術を、若い頃よりかは理解できたような気がする。同じ映画や絵画や小説を読んでも、今の自分の方が美点を見つけられている実感がある。小説も、自分の書きたいことが書けてきているように思う。
でも、実生活が酷い有様なら、もう駄目だ。当たり前の話だが、それなりに精神的にも人並みの生活を、「幸福!!!」を、土台にしなければ人生は、創作は難しい。
何度も、大丈夫だと自分を騙し騙し生きてきたけれど、駄目かもしれないと思い、しかしまた、大丈夫だと薬や他人、他人の作った物に頼るのだ。
そうやって、何かを、妄想を綺麗な形に作らねばと、虚妄に秩序を与えて良く編集しなければと思いつつ、気晴らし、憂さ晴らし、筆は進まない。
雑記
肉体労働終わりに渋谷でアルコール。ipod再生すると、スパンクハッピーの麻酔が流れ出して最高に哀しくて幸せなんだ。数分間は数十分は。
ねえ、からだも こころも 何にも感じなくなってるのはなぜ
木村泰司『印象派という革命』今の日本だと人気がある印象派だが、フランスの絵画の歴史の中での立場を歴史と共に解説。古典⇨ロココ主義⇨新古典主義⇨ロマン主義⇨バルビゾン派⇨クールベやマネの出現⇨権威から酷評された印象派展。画家の経済状況等も書かれており、新しい絵画の歴史が分かる
アマプラでゴッホのドキュメンタリー映画見ようとしたら、耳切って頭おかしい、みたいな導入でばぐった脳がフリーズしたので停止した。ゴッホを病人扱いするのは、それが事実でも頭おかしくなるから止めて欲しい。現実からめを背けるにも体力とかねが必要で、中年でも中学生のような思想のまま
岡本かの子『鮨』また読む。とても好きな短編。食べ物を口に入れるのがどうしてもできない少年のために、母親が清潔な道具を揃え、色のついた上等な食材を薔薇色の手に乗せ、不格好に握る。身体が良くなった息子は、父に甘やかされ放蕩を覚え母を失望させる。優しさと虚しさがさらりと描かれている。
ドキュメンタリー映画『ゴッホ 真実の手紙』をまともに見るのがつらくて、大好きな『コオリオニ』をながらみすることでしのごうとしたら、大好きな佐伯さんを描いてた。筋張って神経質で繊細な本物とは勿論似てないのだが、ファンのフィルターを通したらこう見えるという一例
映画でゴッホが
最も効き目の高い薬はやはり愛と家庭なのだ
って語ってるの、きついな。
犯罪自慢や酷い話をする人の、瞳がきらきらと輝くのを見ると、虚しくなるしわくわくする。
親愛や信仰のごとき真剣さを人や作品から見いだすとき、満たされて、しかしそれも長くは続かないと思う。我が儘な俺!
『成瀬巳喜男の設計 美術監督は回想する』成瀬作品を始めとして多くの東宝映画の美術監督をしていた中古智へ、今は失われた「撮影所の映画」について、そして成瀬巳喜男の映画について、蓮實重彦がインタビューをする。めっちゃ読み応えがあり面白い。え、これセットだったの?と 初めて知る
のは単純に面白いけれど、それに加えて成瀬巳喜男の狭い家、こぢんまりとした六畳間、ひなびた町(セットも)といったこだわりをどうやって成立させるかを、美術監督が苦労して作り上げる姿は貴重な記録だ。映画にお金をかけられる時代の幸福な制作記。勿論映画への愛と知識溢れる蓮實のインタビュー
が素晴らしいし、中古が、『乱れる』のラストで具体的にカメラがどう動いてと説明をしながら、高峰の演技、カメラ、演出が素晴らしいと語る場面は、映画を見た震えが蘇った。成瀬巳喜男本人が雄弁に語る姿(本)は知らないので、身近な人物の熱のある話はとても有難い。
もしかしたら、今の三十代の俺が一番好きな日本の映画監督は、成瀬巳喜男かもしれない。成瀬巳喜男の高峰秀子とセットになっているかもしれないけれど。二十代の頃は成瀬巳喜男のすごさをいまいち分かっていなかった気がする。派手さはないが、実に素晴らしいのだ。余計な物をそぎ落とした、しかし人の生き方を捉える力。構図の美しさ、控えめさも、雄弁ではないことも大きな魅力だ。
『ファン・ゴッホ 巡りゆく日本の夢』読む。ゴッホと日本画についての本。定価6000円(図書館で借りた)で大判紙質発色よし!なので豊富な図版が見られるのが嬉しいし、中身もしっかりとした堅実な内容。手紙引用、当時のパリの日本ブーム、ゴッホが日本への興味が薄れた後も配色や構図の親近性。
何もできない。この先も嫌なことばかり。寝たり雑務をこなしたり。でも気分は晴れず、家にあるラリー・クラークの写真集タルサを見返す。どうしようもない奴らの生活。どうしようもないやつらに憧れていた、若い頃のラリー・クラーク。この世界に浸るには年をとりすぎたのにさ、やっぱ好きなんだ。
マルグリット・ユルスナール『青の物語』また読む。20ページにも満たない表題作がとても好きだ。宝石を狙う強欲で愚かな商人たちが迎えるのは、慰め、輝き、いや、多くの者が不孝な結末へとあっけなく落ちる。しかし、小さな光を見つける者もいる。読書の度、酷薄さと不可思議に魅せられてしまう
新刊で、知らない外国の作家の本を読んだ。自死を決めた人が集まる廃村にきた主人公がそこで暮らすこと決め、そこに来た色々な人と話をする、といった内容。久しぶりに本当に合わなかった。主人公なんで廃村で暮らせるの(食料他)みたいなリアリティ、苦しみ皆無。生きている人間ではなく
作者(物語)に都合の良い登場人物のモノローグ。げんなりする。様々な人間がそれぞれの価値観で生きている、ということを無視したら離乳食のような物語になる。消化しやすいのが悪ではないが、自死を覚悟した様々な人達が訪れる、という設定なのに主人公は洒落者チート主人公の言葉で皆いい気分!みたいなのキツいな。
渋谷Bunkamura古代エジプト展見る。この時期の美術館はどこもガラガラだったのだが、結構人がいた。プリミティブなデザインが面白いし、箱と身体が一体化したような像等奇妙な形でめをひく。赤(臙脂)、緑(ターコイズブルー)が多く使われる印象。動物の(頭部や姿で現れる)神々も可愛らしい。
宗教、人間にとって死の克服、人生の救いというのは大きな命題で、それぞれの宗教(地域)によってアプローチが似ていたり独特だったりするのが面白い。今の日本で神様や超常的な者を信じる人はやや少数だと思うが、ゲームやアニメなどの中で、神様はペット(気まぐれな猫のように)のようにして生きている
ギャラリーで、何でも骨董談!という題で販売をしていた。入口に古伊万里や岸田劉生、そういう系統かと思いきや、すがきしお、瀧口しゅうぞう、高松次郎の絵があり、マイセン、シェリー等のティートリオ、エミール・ガレと混沌というかバラエティ豊かで面白かった。
練習中でしかないのだが、自分で画を描いている中でエル・グレコの絵画をみると、色と聖人や天使が溶け合い広がるような印象を受けた(だから等身、身体が縦に伸びる)。ドラマチックな構図の美しさもあるが、人が象徴化されてイメージが色として純化されるような、神秘的な魅力を感じる。
西村賢太『瓦礫の死角』読む。貫太物の続きで、いつもと同じ。いつもと同じく、じっとりと湿り不快で面白い。ただ、著者の生活や健康に関する文章を目にして気分が落ちる。私小説の若くて愚かで傲慢な十代の『貫太』、年老いた『貫太』も、他人事ではない。ただ、人生も小説もおそらく続くと思わねば
気まぐれに、ネットに一作だけアップしている自分の小説を、読みやすいように改行だけする。数年前に書いた物で、読みにくい上に内容も酷いなあと思うが、それしか書けないのだった。酷い話しか書けない(実際はそこまで思ってないが)。酷い人間が出てこないなんて、がっかりするだろ。優しい物語って?
川端康成『みずうみ』再読。新しい版の新潮文庫の、ストーカーという単語を使った無理矢理な褒め言葉が面白い。ストーカー、というよりもありもしない美しい女性の影を追っているのだから、ストーキングによる、相手を手に入れることでの自己実現とは少しずれていると思った。重なる点もあるけど。
ストーカー小説として読むとつまらないと思う。人々の感情がゆらぎ、移り行き、一部分では呼応しているような様を見るのが楽しみだと思った。川端康成の小説が非常に優れている(と思う)し好きなのは、人の感情を表現するのが巧みで、つまり人の感激屋で冷淡な様が四季のように豊かに語られること
が恐ろしく良いのだ。打算計算狡猾で生きる者も無垢のような幼稚さや親愛が顔を出すのも、矛盾しない。或いは、ある人物は一時やってのける。加えて着物や空や蛍といった美しさや身体の醜さを、さらりと描いて配置する。醜さも美しさも案配よく的確に構成するのが一等上手い。大好きな作家だ。
川端康成『新文章讀本』また読む。川端康成の文章、作家論。捉えどころのない、魅力的な小説を書く作家が、真面目な先生のような言葉で紹介をするのが奇妙でほんの少し退屈で、しかし面白い。泉鏡花や横光利一にやや贔屓している(その魅力を引用し伝えている)けれど、鏡花や里見諄の文を褒めつつ
彼らの文が一歩誤れば美文調に落ちる危険にも言及している。谷崎も褒めつつ、初期の華麗な文に通俗性を感じる等、批評が鋭く面白い。基本的に多くの作家を褒めている(引用して美点を完結に述べている)のも良いと思う。この本では三島由紀夫が登場しなかったのはなぜだろう。後、太宰治が出るが、
褒めるというよりかは、半ばで急逝してしまったことをさらりと書いている。大衆的な作家さえ美点を見つけ褒めてるのに、太宰治を嫌う(評価しない?)のが面白い。鏡花は非常に評価していて、林芙美子や岡本かの子もそうだった。美文調に堕する、というのを戒めていた自身の、ふらつきのような
めまいのような、しかし確かな文を思う。当たり前だが、感覚的な美点が多く見いだせる自身の小説を、批評眼を持つ川端は墨絵のようにおぼろげに、しっかりと、上手く配置していたのだろう。ここで、美文調や悪文について思いを巡らせる。俺が一番好きな作家はジャン・ジュネと川端康成。ジュネは
悪文と言うに相応しい。しかし魅力が勝るからいいのだ。エゴイストのポエジーがそこかしこにある。小説というよりかは、散文や詩集や語りかけが混交しているようだ。森茉莉のエッセイも少し近い所にある(彼女の小説は苦手)。本当の悪文は読むと嫌になり語りたくもない物だが、正直ジュネを初めて
読んだときは迷子になっていて、途方に暮れ、しかし気になり何度も読んだ。川端康成の小説も分かりやすいように見えて、一つの作品を数年後に再読すると、愛情や冷淡さや無関心にぞっとするし心地良い。人を迷子にする文は、悪文や作家の名文の中にある。いつでも迷子になりたい俺は、それを探る。
悪文と言うのは、誉め言葉にはならない。俺が耽美という文字を見て、実際の作品を見てがっかりするのは川端康成の言う否定的な意味合いでの美文調のものばかりだからだろう。
でも、俺はそういう物が好きで、自分の小説も悪文、美文調に堕しているのか、と思いつつもそこをどうにかくぐりぬけた物を書きたいと思う。ジュネのように、エゴイスティックで、読むほうはたまったものではないが、しかしポエジーに愛情に憎しみに彩られている文。
小説にはポエジーが必要だ。マラルメやボードレールやランボーやヴァレリーのごとき音の文の快感を孕んだ文章、小説があるとしたなら、それはとても誇るべき美点ではないのだろうか。
誰にも読まれない、悪文まがいの小説を書いて、このまま自死を夢想するなんて、愚かだと思う。
でも、俺の救いは結局、小説や美術しかないのだ。小説や美術が俺のことなんて眼中になくても。
ひび、生活が辛く精神的にまいりながら、日々を浪費している。素晴らしい、それなりに素晴らしい、まあ、すばらしい物に触れることを恐れている。
それでも、まだ、かけますように。自分の悪意を憎しみを罪悪感を親愛を信じて。