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89.教話雑感(7)-陽気ぐらしできない人が抱える問題-

◆教話「信仰とペシミズム」

増野鼓雪全集を読んでいたら、「僕は生きていることがどうしても愉快とは思えない。これは僕が神を信じていない証拠であるに違いない」という意味の言葉にぶち当たり、すっかり考え込んでしまったことがあります。
この発言は、天理教の文章の中でも稀に見る深刻な内容をふくんでおり、軽々しく見すごすわけにはいきません。
(中略)
性格的に楽天的な人は、天理教の世界観、生き方にとけ込むのが比較的容易でしょう。しかし内向的で暗い性格の人は、頭で分かっていても、水準的な陽気さに達することがむずかしいということも起こります。疑い深い人、うつの傾向のある人が陽気ぐらしを味わうには、想像以上の困難をともなうはずです。このタイプの人は、生きていく上においても、信仰においても不利な人ですが、これはいんねんに属する事柄ですから、一概に善悪でもって律するわけにはいきません。
私は増野先生の言葉を通じて、近代的自我にめざめた人が味わわねばならなかった信仰についての苦渋を見る思いがします。自我を捨てて神に一筋にもたれるのが信仰の本筋でしょうが、これは口でいうほど簡単ではありませ ん。多くの人は、ごまかしたり、妥協したりして生きてゆきます。自分に忠実になり、それを突きつめてゆくと、その果てに待っているのは神との対決であります。この対決がこわいから、中途半端になるのでしょう。換言すれば、自我にめざめ、自我を捨てきることのできない人にとっては、信仰とは真剣、命がけのものとなってゆくのです。精神の生か死かということなの です。
陽気ぐらしというのは明るい世界観であり、望ましい心的情況です。かといってそれは一種類ではありません。名実共にそれを味わうこと のできる人もあれば、辛うじてそれにしがみついて生きている人もあると思います。これは外から見ていたら分かりませんが、見すごすこと のできない深刻にして微妙な問題であると思います。 

西山輝夫著「新・教理随想」より抜粋



雑感

親神様が望まれている陽気ぐらしと、人々がイメージし「 きっとこういうものなんだろうな」と捉えている陽気ぐらしとは、大きな隔たりがあるように感じている。
自分は陽気ぐらしをしている、実践していると錯覚している人ほど、今そういう状態におかれていない人のことを自らのフィルターでああだこうだと安易に決めつけ、レッテル張りをする傾向を感じている。人付き合いのあまり上手でない人、シャイで陰気な人、周りの雰囲気に馴染めない人等⋯ そんな種類の人を見つけると「陽気ぐらししなくちゃダメ だよ」と説教じみたことを言いたくなるような方が、お道あるあるというか、けっこう多いのではないだろうか?
天理教学研究の偉大な先達、諸井慶徳先生が著した「陽 気ぐらし論」(諸井慶徳著作集下巻)に出会った時、これまでにない大きな衝撃を受けた。“教理と照らし合わせた陽気”とは、感情の明るさのことを指しているのではなく、見えるもの・聞こえるものを感知する“銘々の心の内側の在り方”を表しているというのである。つまり、性格上は陰気、言葉数の少ない方であっても、心の持ち方次第で陽気ぐらしすることが可能だということだろう。
世界を画一化していくことを、神様は望んでなどおられない。それよりもむしろ、複雑多岐にわたり、様々なタイプの人間がごった返す中、制度による秩序ではなく、一人ひとりの懸命の努力によるそれをこそ、きっと心待ちにしておられる筈。何事もすんなりと吸収し、成人していくのも良いかもしれないが、そうではない、壁にぶつかってばかりの落第生でも、それはそれで人間らしいじゃないか。


余談

NHKの人気番組「プロフェッショナル仕事の流儀」。
過去の放送回で、世界一のバーテンダー・岸久氏が登場し、彼の語るバーマン哲学に心を打たれた記憶がある。

バーの激戦区・東京銀座で店を構える岸氏。世界最高峰のカクテルコンクールでの優勝経験もあり、彼のカクテル作りの腕前を学ぶため、日本国内にとどまらず、遠く海外からも店を訪れるバーマンは多い。

そんな有名バーテンダーである彼、実は元来シャイな性格であるため、客に気の利いた言葉やお世辞を言うことが出来ず、接客が昔から苦手だったという意外な一面がある。
客商売なのにうまく接客ができないと思い悩み、一時はこの業界から足を洗おうと迷っていたこともあったのだとか。

そんな葛藤を苦しみ抜いた末に彼が導き出した答えは、

「たくさん客がやってくるバーでは、マニュアルが通用しない。だからこそ、自分の本心でもって向き合うしかない、それで受け入れられなかったらしかたない」

プロフェッショナル仕事の流儀


というものだった。
今では、そういう岸氏の虚飾のない、正直な姿勢に惹かれやってくる客で、店はあふれているという。

人は、何を求めてバーを訪れるのか。
岸はこう語る。

「究極は、(そこにいる)人に会い来るんだ。それがバーテンダーの存在するひとつの理由であり価値である」

前同


私は岸久氏のそんな実践哲学に、天理教にも相通ずるものを感じている。
16000を超える教会(2016年当時)があり、人救けに関わっている数万・あるいは数十万のようぼくが存在している。皆、タイプや性格は様々。千人いればまさに千通り。
当然、口下手で無口な会長さんやようぼくさんもたくさんいる。

気の利いた会話の遣り取りができない。
鮮やかに教理が取り次げない。

きっとそんな人だってたくさんいる。
ならば、その人は会長の素質、ようぼくの素質はないのか?

いや、きっと違う。

真摯な姿勢、本心で事にあたっていく努力の積み重ねがあれば、その人にしか生み出せない会長道、ようぼく道が切り拓かれると信じたい。

道の通り方、神様との向き合い方にマニュアル通りか否かなんて問題じゃない。正解も、不正解もない。

そんな風に、今そう思っている。


【2016.11】


ここまで読んでいただきありがとうございました。
それでは、また(^^)


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