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120.教話雑感(17)-因縁三分、手引き七分-
◆教話1「親の心というものは」
世間では「ある日突然、不幸がやってくる」といいます。しかし、そうではないのです。不幸になる前には、必ず何度もいろんな小さなお知らせがあるのです。しかしながら、人間というものは「まあええわ、これくらい…」とか「あれくらいのことは大したことないわ」と見過ごしたり、気づかなかったりするうちに、ドカンと大きなことが起こる。人間というものは我が身可愛い故に、どうしても自分の都合の良い方へ、良い方へと解釈したり、思い込んだりしてしまうもんなんです。だから災いが突如としてやってくるように思うのですが、決してそうではないのです。
たとえば、私たちの子育て道中を考えてみて下さい。いきなり横っ面を張らないでしょ? いきなり家の外へ放り出さないでしょ? そうするまでには何べんも言うて聞かし、注意しているんです。むしろ親というものは、子供が少々悪さしている姿さえ、嬉しいものなのです。
私は今、皆さん方に分かってもらいやすいように、細かいことを一つ申しますけれども、この一つのことを、神様は全部通り返せとは仰っていない。たいがいのことは見て見ぬふりをして下さっているんです。人間として、どうしても果たさにゃならんもんとして、いんねんとして残して下さるのは、よくよくのことだけなんです。どれほど可愛い子供でも、これだけではいかん。これだけはどうもならん。ということになれば、何ほど子供が泣こうがわめこうが、首根っこ押さえてでも、引き寄せもすれば、取り上げもするんです。いきなり横っ面張ったり、表へ放り出すようなことは、決してしないものなんです。
何回も聞かしてある。でも、あまりにも聞きわけがなかったら「ウチの子やない。出て行け‼」というて放り出したりもする。親にすれば可愛いからこそ、腹も立つんです。しかし、初めから放りっぱなしのつもりはないんですね。初めから、家の中へ入れてやるつもりなんです。
ところが放り出された子が泣きもせず、強情張って黙って外で座っていてごらんなさい。
(中略)
親にしてみたら、どうしてやりようもないですね。
(中略)
戸をドンドン叩いて、「お母ちゃん、ごめんなさい」「もうしませんから堪忍して」と嘘でもええから言うて欲しい。それが親の心なんです。
◆教話2「因縁三分、手引き七分」
(東海大教会の初代・加見兵四郎は、どん底の貧しい生活の中で、父に捨てられ、母に捨てられるという不遇の幼少時代を送っていた)
兵四郎は生家である叔父の家に暮らしたが、さんざんの苦労であった。身体がきくようになると煙草屋へ奉公に出され、そこでも苦労、結婚後も苦労の連続であったという。
そして明治六年(当時大和国宇陀郡松山町に住んでいた)妻のお産のことから入信し、教祖のもとに通うた。
あるとき、教祖が、「神様が、人間をお作りになったのは、人間によふきぐらしをさせ、神とともに楽しみたいと思いついて、人間をお作りになったのだとお話くだされたとき、加見兵四郎は、「それでは、なぜ、兵四郎を三十一才まで、いじめて、いじめて、いじめたおされたのでしょうか」と質問したという。そのとき、教祖は、「兵四郎さん、あんた苦労したればこそ、神が分かったやないか。神が分かれば、これからどれだけ大きくなるや分からんで」と仰せられたという。
いろいろの疑問も、この一言で溶解する。苦労は、神を知らせるためなのだ。世の中を知らせるためなのだ。汝自身を知らせるためなのだ。
この逆もいえるのではないか。苦労をしないと、神も分からないし、世の中も分からないし、自分自身も分からないのだ。
神も分からず、世の中も分からず、自分自身も分からぬものが、どうして、神の教えを伝え、人をたすけることができようか。
教祖は、加見兵四郎にこうもおっしゃったそうだ。
「神がよふぼくに使おうと思うたればこそ、苦労艱難させたのやで」
(中略)
また一つには“因縁果たしの姿”とも見られよう。現実の諸相は、過去の因縁の押す力と、将来へよりよく導こうとする神様の手引きの力とによって働いているものと考えられる。
それでは、因縁の押す力が五分で、手引きの力が五分で、五分五分かというと、そうではないようだ。
「三分だけさとして、七分は遠いかげのようにおもふてゐる」
というお言葉からすると、因縁が三分で、手引きが七分のようである。
雑感
病気になったり、困った事情が起きたりすると、ややもすればお道の人は「因果応報」「因縁十割」というただやったことが返って来たといった物事の見方をしたり、思案したり、悟ろうとしたりする。結果、過去の過ちの懺悔・反省ばかりが強調されがちになり、しんどい気持ちになる。
「私は因縁が悪いから」
「我が家は因縁が悪いから」
こんな言葉、耳にしたり、つい口にしてしまったりしたことはないだろうか?
そんな言い訳めいた落としどころに自らを落として、罪業者のような気持ちにさせられるようなことが、この道の信仰なのだろうか?
だったら暗すぎる。
だけど、実際は、起きて来た身上・事情、不都合・苦痛の七割は「神様の手引き」であるそうだ。
罰や報いを与えたいのではなく、陽気ぐらしさせたいし、そのための役目を担ってほしいと気づいてもらいたい、わかってもらいたいと神様は思い、あと三割のその個々の因縁から成る身上・事情を拡大して形にあらわして、その心に気づきを与えて変えてやろうとしているのだ。
更に、高井猶久先生の言葉を借りれば「全部通り返せとは仰っていない。たいがいのことは見て見ぬふりをして下さっている」のが神様のお気持ちであり、「どうせ自分は因縁が悪いんだから、こういうことが起こって来るのも無理ないんだ」と開き直ったように居座るのでなく、「神様、ごめんなさい、今回のことで気づかせもらいました、今後は気を付けます、もうしません」と再三お詫びするような心で通れば、大目に見てたすけてやりたいと思うのが親の心だという。
仮に、因縁が深かったとしてもだ。
銘々、その心の在り方、通り方次第で、誰もが今生中に幸せになれる可能性や余地は十分にあるということだ。
間違っても「今生は伏せ込みで目が出なくてもいい、来生に期待する」ということを発想でもし出したら、それは、レースゲームを友達とプレイしていて、もう勝ち目がないとわかった途端、ゲームオーバーを待たずにコントローラーを投げ出しているのにも等しいことだろう。
そんなことしたら、それを見ている神様はきっと、興ざめしちゃうんじゃないだろうか。
どんな設定・状況下であれ、諦めずに最後まで遊び尽くそうとしてこそ、よふぼくが神から帯びた使命だと、私はそう思うのだ。
【2017.10】
余談
日本海側に住む人間として、今冬は試練のような日々を送っています。
冬は厳しいものだとわかっちゃいるが、今年はマジで厳しいぜ(;^ω^)
昨日も車がぐちゃぐちゃの雪道にはまって動かなくなっちゃいました。それも、自宅到着の寸前で。
懸命に脱出しようとスコップで車の下を掘っていると、日頃からおつき合いのある近所のおじちゃんおばちゃんが私の苦境を見つけ、みんな道具を持って走って集まってくれました。知り合いのおっちゃんがジャッキで車を浮かしてくれて、3、4人でせっせと堀り、ようやく脱出することができたのですが、すぐに駆け付けてきてくれた皆さんには本当に感謝しかないです。
普段話をしたことがなかった年代の近い方も手伝ってくれて、今回をキッカケに知り合いになれました。
そういう人情に触れて感謝の再発見ができたので、車が雪にハマっちゃったことも喜べると本気で思いました。
大変な時って、いつもは見えにくい、人それぞれの人間性の地金が垣間見えるんで、これも貴重な機会ですよね。
…今日もこの後、同じ場所でハマらないか心配だけど(;^ω^)
ここまで読んでいただきありがとうございました!
それではまた(^_^;)