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61.働いた分はどこにも消えない

時々、会社勤めしている同年代の友人と近況を連絡し合ったりしている。
彼は私と同様、教会子弟であり、大学卒業後一般職に勤め、現在は中間管理職となっている。

方やピーナッツ。子どもを学校・保育園に出してから、日が暮れるまで戸別訪問、通い先まわり、天理教のことだけしかせず生きている。
たまに戸別訪問中に昔の友達とか同級生のお宅にヒットしてしまうこともあり、玄関先で「お前なにやってんの?」と聞かれると、正直心が痛かったりもする。

…そんな中、前述の友人とばったりスーパーの駐車場で会った時のことだ。
彼は買い物袋にとっても安い焼酎の4ℓボトルを携えていた。

あれ○○(彼の名前)、××五郎で晩酌しているの(;´・ω・)?

おーピーナッツ(^O^)、そうだよ。
子ども達の将来のこと考えると、いまのうちに節約しないとね~。
いっぱい飲みたいから、これがお得なんだよ。


…と、そんな会話の遣り取り。
私は複雑な気分だった。
というのも、収入面でいえば圧倒的に彼の方がいい筈なのに、私は雀の涙のような細かいお金を右から左に流してばかりの日々なのに、彼と比べ物にならないくらい、上等なお酒に事欠かなかったからだ。

私はもう、何年も前からビールは途切れることなくいつでも冷蔵庫にストックしてある。それも本物ビールばかり。いただきものだ。だから買ってはいない。ウィスキーや焼酎、日本酒など、色々な銘柄のお酒もいつも我が家には何本かある。いただきものだ。一円たりとてそれにお金を出していない。

不思議なものだ。

“大名暮らしのこじき”という言葉を聞いたことがあるが、お道を通っている人間、傍から見ると弱い生き方のように見えても、内実はけっこういいものを与えてもらっていたりもする。大名のような暮らしをするこじきとは、言い得て妙だ。

まあ、お金はそんなに手元にないんだけどね。


…と、ここまでが長い前置き。

今回は“働く”ということについて考えてみたい。


“はたらく”の本質

おやさまは、

「人間というものは働きにこの世へ出たのや。遊びの手はいらん」

と仰ったという。また、

働くというのは、はたはたの者を楽にするから働くというのや。

稿本天理教教祖伝逸話篇197.「働く手は」より


という側楽(はたらく)についての有名なお言葉も残されている。
この口伝と逸話篇とのおやさまの言葉から照らし合わせると、

「遊びの手」とは、側楽をしない者、あるいは側楽気がない者という解釈もできる。ということは、自分中心の損得勘定でのみ考え、行動する人のことを“遊びの手”と表現しているのかもしれない。
そしてそういう人は、一時は良いものの、いずれは行き詰まるようになっていると言われている。

こんな教話がある。

「『働き』と『稼ぎ』の違い」
お屋敷の近辺に朝早くから非常によく動く青年がいた。お屋敷に参拝していろいろと四方山話をしている先生方が、「あの人は感心な人じゃ、朝早くから夜遅くまでよう働かれる な、ほんに感心なものやな」とその人をほめたわけです。
そうしたら教祖は、「ほんになあ、あの人はよく稼ぐ方じゃなあ」と仰しゃった。そ うすると先生方、「わしら、働き者やなあと賞めておるのに、教祖はほんによく稼ぐ人やなあと、なんでそんなことを仰しゃるんやろ」と思っておりましたところが、しばらくいたしましてその青年が相場に手を出して、いささか貯めておりました金を使い果たして、夜逃げしてしまっ た。その時に先生方、初めて、「働きと稼ぎとは違うんやな」ということをはっきり分からせてもらった。
(中略)
稼ぎというのは自己中心の働きですね。働きというのははたはたを楽にさせる。いわばどこに焦点を合わせた動きかというと、自己中心とはたはたでは大きな違いがあ る。ここに大きな、天の理に適う動きと、適わない動きとの相違がある。
(中略)
案外、私たちも、 稼ぎと働きの区別がつかなくて、 朝から晩まで稼ぎまくっている姿を見て、感心なものじゃと言っていますが、感心のしどころが 違うのであります。

矢持辰三「教祖伝入門十講」より抜粋


このように、“働く”ということと、単に生計を立てたり、収入を得るための“稼ぐ”という行為とは、本質が違うということがおやさまにより指摘がなされている。“稼ぐ”には側楽の要素が薄く、傍から見ると同じように見えても、その内実は全く別のものだとされていることがわかる。


“働く”という行為をもっての恩返し

次にこんな教話もある。

「恩報じの理」
「人間とは何ぞや」と私に問われたら、私は即座に答える。「恩の塊である」と。この自覚の上に立ってこ そ、人間生活の基本が確定されるのである。
自分の力で生まれた自分でなく、神様に生み出して頂いた自分である。自分の力で生きている自分でなく、神様の恵みをただで頂戴して生かされている自分である。 神の恵みに生かされた、恩の塊である。だから私たちの動き働き、すべて恩報じのためであらねばならない。
会社で働くのも、役所で勤めるのも、野良に田を耕すのも、職場に汗を流すのも、与えられた立場を通して神様への恩報じである。
仕事の種類によって、それ相応のお与えがある。これを受ける時の心構えであるが、まだ恩報じの済まぬうちにまたお与えを頂くと恩に着るのである。 恩を知り恩を報じる。これを繰り返し繰り返しするのが、美しき人生のあり方である。これが天理教者の生活であり、ご恩報じに生き切る生活である。

柏木庫治選集第2巻「むこうばい力」より抜粋


東中央初代・柏木庫治氏はこのように、人間は生きているだけで神様から恩を受け、恩を着続けているのだから、“働く”という行為の中で神様に恩返しを実行していくのが天理教の信仰者の在り方なのだと説明している。


これらのことから考えると、

「神様にご恩報じさせてもらいたい。誰かが喜ぶために、誰かの役に立つように、誰かが楽になるように、何かさせていただこう」

こういう心さえ持っていれば、たとえそれが道路端の除草作業であっても、路上に捨てられたゴミの収集作業であっても、トイレに脱ぎ散らかされたスリッパの整頓作業であっても、スーパーの駐車場に放置されたカートの回収作業であっても、どれも皆心の向きひとつで神様に受け取ってもらえる“側楽”になるということだろう。

そして、これは私個人が体感的に感じていることが、行為・行動が“側楽”だったものって、それに見合った何かが、後々必ず本人に戻って来ているように思えるのだ。


「仕事がハードな内容の割に低賃金で辛い」という声をたまに耳にする。
確かに大変なのだろう。

でもそれを、苦しい、辛い、やめたい…本当にそればかりの意識で充満させてしている労働は、“はたらく”ではなく“稼ぐ”の域から出ないので、どこまでいってもしんどいばかりの作業になってしまう気がする。

前述の柏木庫治氏は、

十働いて、九貰い、八で生活して、残りの一を神様に御供え

という考え方を提唱していた。
「賃金に見合った仕事量」ではなく、「受け取る賃金以上に余分に仕事して」、その給金の中から一部を未来の種として神様に御供えして生きるのが、お道の在り方なのかもしれない。

「十働いているのに、八しか貰っていない」と嘆かず、そこはどうにか捉え方を「貰えていない二は社会を通して天の口座に貯金しているんだ」と本気で思えたら、思った通り“心通りの守護”に変わっていく筈なのだ。

それが確かに側楽(はたらき)であるならば、働いた分はどこにも消えないし、損もしない。目に見る形でそれが不足ならば、その人の必要に応じて形を変え、時間を越えて必ずそれは返って来る。

そこで心配なのは、無闇に不足心を抱いてしまい、せっかく見えない口座に貯金できる筈の分をどこかへ流してしまうことだろう。

【2015.5】


おまけ

パッと見タダ働きで終わるようなお手伝い、労力投下を他人にしまくっていると、別なところで臨時収入がよくある私ピーナッツ。
やっぱ働いた分は消えない。ちゃんと戻って来る。
それが側楽でさえあれば。
そう感じずにはいられません。

だから誰かが急に相談に来たりした時も、それで時間がたとえかかったしても、真剣に相談事を一緒に考えたりしています。だって、その分後からちゃんと戻って来るのだから。

そう、やった分はちゃんと返って来る。
貰い過ぎたらどこかで違う形で出ていく。

天の理は損得勘定を超えた世界で忠実に、公平に全ての人にはたらきかけてくださっている気がします。

長々とおつき合いいただきありがとうございました!
それではまた(^O^)

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