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141.狂信者が見ている景色

2018年4月、桜が間もなく満開咲きを迎える頃、家族で連れ立って花見に出かけた。

訪れてみると花見地は人だかりで賑わい、お祭り騒ぎであふれている。
多くの子ども等が広場で球技や駆けっこをしてはしゃいでいたり。

その日の帰りでのことだった。

気がつくと、妻は何やら憤慨している様子。

ちょうどこの日、過激なカルト宗教(私がそう見ている)・顕正会が花見会場内に入って来ており、道行く人に自分達の新聞を配布して布教活動をしていた。
妻もまた、そこを横切る時に新聞を手渡されたらしい。

「両手に荷物を抱えているからいらないって言っているのに、アイツ無理矢理手の中に新聞をねじ込もうとしてきた」

彼女が腹を立てている原因はそれだった。

強引。なんだ、それじゃあ怒るのも無理はない。

…というか、そもそもなんだけど、顕正会の人達は、それで自分達のしたかったことの本来の目的や、使命(布教)を熱心に果たしているのだと、そう信じ切っているのだろうか?

そのありさま、偏狭さを本当にわからずに、一直線にひた走っているのだとしたら、怖ろしいよ。

極めて一方通行のまま、相手側の気持ちや状況を全く理解しようともしない思考回路。
休日、花見を楽しみにやってきた人達を相手に、ただ単純に人(カモ)が大勢集まっている絶好の機会という風にしか見えていないのだとしたら、そんな人達とは接点を見つけてわかり合える気がまるでしなかった。

そんなのいいからさ、ちょっと見上げてごらんよ、あの綺麗な桜花びらをさ。

目の前の感動をすっぽかして何かに遮二無二になろうとしていて、いたずらに危機感を煽って来たり、人を不快な思いさせたりしてさ、それで一体何の為に生きているんだ?

それと同時に、天理教の布教戦線の最前(と言っても精々その中の末端)に身を置いている側の立場として、宗教に関与しない第三者からこんな風に見られているのかもしれないと想像すると、何やら少々気分が滅入る。

誠真実によって貫かれた揺るぎない信仰姿勢は素晴らしいものだけれど、一方でそれ自体の在り方を俯瞰したり、自分自身の素直な気持ちで冷静になって物事を見つめる理性もまた、欠かざるべきでない一面なのではないだろうか。

自分達の立てる基準にばかり照らし合わせ、頑なにそれを曲げないことは、それは多分、“誠”なんかじゃない。おそらくきっと、“狂信”的な何かだ。


聞くところに寄ると、顕正会は現在、私達の住む地域で活発に勢力を伸ばしている。その現状に対し「自分達の教えが真に正しいから増えていくんだ」と彼等はそう思っているかもしれない。
いや、思っているんだろうなぁ、きっと。

もし、それが“間違いない教え”なら、それを信じる人は自然に増えていくとのだとしたら、私達の教団はどうなんだろう。

だんだん人が減っていくのは何故?

こども達に信仰が伝わらない家庭が少なくないはどうして?

つくづく思う。

信じるって、一体なんだろうって。


【2018.5】




おまけ


以前にも顕正会の方と過去に関わったことがあります。
その過去記事はこちらです↓

また、他宗教者と対話を試み、“信じるってなんだろう”と自問したことが以前にもありました。
こちらです↓


朝起きてから窓の外を眺めても、ありがたいことに積雪はゼロ。
風がビュービュー吹いているぐらいで、朝から雪片付けの仕事もなくホッとしているピーナッツ。

その一方で帯広が今やばいことになっていると聞き、確かめると災害クラスの大雪が降っているご様子。
一晩で100cmぐらい雪降ってないか(゚Д゚;)?

その街に住んでいる友人・アーモンド君のことが気がかりである。

とはいえ、本州日本海側も、これから強烈な寒波に見舞われるんじゃないかと今から警戒を強めているところです。

春が待ち遠しいなぁ、ホント。


というわけで本日はここまで。
最後まで読んでいただきありがとうございました!
それではまた(^O^)

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