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135.教話雑感(21)-魂に徳をつけてやるとは-

◆教話「神様の話で心を洗う」

私がかつて先生方のお話を聞いていると、眠くなる。

ことに、別席は眠くてしょうがないと言うたら、父(増野正兵衛)は
「それでよいのだ」
と言うから、何故かと聞くと、
「この屋敷は人間の親里なのだから、子供が親里へ帰ってきて、やれやれと安心して眠くなるというのは当たり前のことだ」
と言われたことがある。

これから考えて行けば、話を聞いて眠くなるというのは、それでよいかもしれぬ。その時父は、
人に話をしているのではなく、魂に話をして徳を付けてやるのだ
と言ったが、それならばよいわけである。
話を聞きに来たのであれば、いくら眠っていても、その中に一言や二言は誰でも耳にとまっているもので、それさえ身に沁みて、そして守って行きさえすれば、沢山聞いて忘れてしまうよりも余程ましだ。

とにかく昔の人は、魂に徳を付けてやるのだという自信をもって話をしていたのだから偉い。我々にはとてもそれまでの自信はないが、本当の道の話ならば魂にまで喰い入って行かねばならぬものだと思う。それを聞いている間に心は澄んでくる。道は銘々の心で通るべきものであって、昨日より今日、今日よりは明日ときれいになって行かねばならぬ。天理教の人だから必ずしも道を通っているとは言われない。

天理教に入ると言えば判一つでなれるのだが、果たしてすべての人が、神様の道を辿っているかどうか、それは分からぬ。また、それを他から強要することもできぬ。
が、真実のお道は自らの心を清くして、不思議な世界に入って行くべきものであるから、各自の自覚を持って、一つの話、一言の話によって心を洗うようにして行かなくてはならぬ。

増野鼓雪選集第ニ巻「講壇より」より抜粋

※文中に()を用いて一部補足説明を加えました。


雑感

たまに、(この人は本当にどうしようもないな~)と感じざるを得ない人っている。社会、親戚、多くの人に世話になったり迷惑かけたりしながら恩返しする気持ちが露ほどもない、そういう種類の人間。

そういう人に対し愛町の流れをくむ、とある有名な先生が、

「そんな人がいたら、放っておきなさい。そんな人は死ななきゃ治らない。そこに労力や時間をつかうぐらいなら、もっと救けを求めている人達は大勢いるんだから、そっちに行きなさい」

という要旨のことを書いていて、なるほどなぁと納得するよりも、むしろどこか違和感を覚えていた。

…どうしようもない人だからこそ、救済の対象なんじゃないのだろうか?


そんな私には、増野鼓雪教話の、相手が耳を貸すとか貸さないとか、理解できるとかできないとかではなく、とにかく魂に神様の話を取り次いで沁み込まして、徳をつけてやりなさい、ということの方が腹に落ちる。

理解するかしないかは、相手次第。
心に治まるかどうかも、相手次第。

だけど、魂に徳をつけてやりたいと真実を込めることは、自分次第なのだから、そこは物事を分けて考えてもいいのではないだろうか。

たとえ今生で理解できなかったとしても、魂につけたものなら、きっと来世まで持ち越していってくれる筈。だから無駄は一切ない。そう信じて。

頭でそれがわかっていても、それでも、どうしようもない人から眼をそらさず対峙するのって、なかなかけっこうハードなんだけどね…。



【2018.2】


おまけ

『帰ってる?』

おぢばの春季大祭に帰参なされている友人達からのありがたいご連絡に、

すまん、ワシ、帰ってないのだ…(´・ω・`)

と返信するのが誠に申し訳ないピーナッツ。


そもそも、最後に春季大祭参拝したのっていつだったっけ? というぐらいこの季節のおぢばがえりはご無沙汰です。多分14年ぐらい前に参拝したのが最後だったと思われる。


遠方の教会に嫁いだ友人Kからも、帰参してるかどうか確認のご連絡をいただいたが、会えずじまい。
元気でやっているのだろうか、Kは。


友人Kの登場回の過去記事はこちら↓


北国日本海沿岸は、陽が射し、ほっこりするような冬の朝を迎えています。
今日も一日良い気分で過ごしていこう。

ここまで読んでいただきありがとうございました!
それではまた(^O^)

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