106.教話雑感(12)-どうして布教、やめちゃうの?-
◆教話1.「証拠信心」
◆教話2.「神は低きにつく」
雑感
定年退職し、一念発起し誠錬寮を志願してきた60代後半のKさん。
育成担当者という立場もあり、一緒に戸別訪問して歩くことが度々あるが、いつもこれといった成果もなく、ただ二人で断られて終わるばかりの時間を繰り返した。
でも、これが何より一番尊いことなのだと思っている。
私が天理大学生時代、よふぼく会という信仰サークルで活動していた頃、私達の集まりの中に出入りしてくる天理高校二部生の女の子がいた。
あれから10年以上経ち、彼女とおぢばでたまたま再会すると、布教の家に入寮し、いよいよ卒寮というタイミングだった。寮生中は帰参者、初席者をお与えいただき、なかなか大活躍だったようだ。一年間の成果をひとしきり聞かせてもらい、
「すごいや。それで、これから今後はどうするの?」
と尋ねると、意外な返事がくる。
「働こうと思っています」
一瞬、言葉に詰まる。
「え? どうして? たくさん布教の成果をいただいたんじゃないの?」
「はい、布教の家で充実した布教生活を体験できたし、自分でも十分頑張れたと思ったので、これからは社会勉強をしようと思っています」
彼女のそんな明瞭な返答に、出す言葉が見つからなかった。
そして形容することの難しい、なんとも複雑な気分になった。
それとはまた別な方で、同じく布教の家での一年間を終えておたすけ先をたくさん与えてもらい、なんと住居までお与えいただいた男性がいた。引き続き現地で単独布教をされ、知人であったそんな彼の活躍に一目置いて、その後の進展に期待を寄せていた。
しかし、いくらか単独布教期間をすごすと、ある時を境に彼はぱったり布教をやめ、自教会に戻って就職する。
つい、どうしてそういうことのなったのかを問うと、
「世上働きをし、教会の繋ぎとして務めさせてもらおうと思った」
と返される。
絶句。
嘲笑と無理解の中、気違いじみた覚悟をもってなお何の成果もあげぬまま、道の先でのたれ死んでいく本物は、そうそうなれるものではないのかもしれないが、それにしても、私は先述の二人との関わり合いの中で、少しさびしい気持ちになっていた。
【2017.2】
余談
狂気の布教者が、やれど尽くせど何の成果もあがらなければそれは無駄働きなのか?
それに対するひとつのアンサーについて、過去の記事でも触れている。
ご参考いただきたい。↓
一時は戸別訪問一辺倒、で生涯一兵卒、捨て石覚悟で終えてやるぐらいの気持ちで布教して時もあった私の心を打ち砕いた男がいた。
彼の名は三郎(仮名)。
誠錬寮にやってきた彼は当時まだ24歳の若造だったが、入寮するや否や度肝を抜く。
こいつはとんでもない戸別訪問モンスターだった。
毎日全く心を折ることなく、何百軒もただただひたすらインターホンを押すだけの一日を平気な顔して繰り返す。夕づとめ終わってからも「まだ今日の心定め分が足りない」とか言って夜の闇に向かって布教に走るサイボーグみたいな彼の背中を眺めていた時、私にとってひとつの時期の終わりを迎えたような気持ちになった。
俺が先頭切って駆けまわろうとする時は終わったんだ…。
教区の青年会、地域の青年会の布教勢の牽引役を内心どこか自負していたわたくしピーナッツは、自分をはるかに凌駕する戸別訪問の鬼みたいな後輩の出現に、その肩の荷をそっとおろすこととなる。
役割が変わっていく。
それは後退とか途中下車などとは違う。
同時に、次のステップの始まりでもあった。
そこから数年経ったいま。
三郎はどうなった?
どんな大成長を遂げた?
……彼はいま、アマゾンの配達と、ウーバーイーツの配達で忙しそうにしている。
お前、最近戸別訪問やってんのかよ?
と尋ねると、
「路傍講演はやっているんですけど、戸別訪問は最近やれていません」
との返事。
…折れるのが早いよ、ばか。
今日はここまで。
おつき合いいただきありがとうございました。
それではまた(´ー`)