![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/152885681/rectangle_large_type_2_6f7c2ac92230319f8cb8715bde75a23e.png?width=1200)
68.“信じる”と“期待する”とは違う
かつて、オウム真理教という宗教団体が世間を騒がせ、大きな社会問題となったのはもう20年も前のこと。
宗教組織を挙げた大規模な犯罪・反社会行為が世に露見し、世界中で取り沙汰され、今日の宗教全般に対する「思考回路がおかしい異質な集団」という漠然とした偏見・負のイメージを大きく強める契機となった。
脱線すると、ピーナッツはこれの影響からか、高校生の頃、とあるアルバイトをしている時、従業員からあだ名で「おい、天理教」と名前ではなく、教会だった家そのもので呼ばれていたこともあり、先の事件の風評被害を被った側の人間だと感じている。(なかなか辛かった…)
さて、種々の犯罪の実行犯として逮捕されていったオウム教団幹部等は、それぞれの裁判上で口々にこんなことを言っていたという。
「目が醒めた」
「麻原に騙されていた」
布教の家の寮生時代、どういうわけかオウム真理教に興味を持ち、市民図書館から事件を扱う関連書籍や視聴覚資料を借り漁って研究していた私は(どんな布教師だよ)、資料映像や文献を通して知ったそれらの裁判記述・被告幹部等の言動に、当時、とても違和感を覚えていた。
もちろん、オウム真理教がやってきたことに一ミリも肯定しないし、教祖・麻原彰晃を擁護する気など更々ない。
布教道中の現在であっても、未だにオウム事件の余波で宗教不信からくる偏見や隔たりの壁を度々実感させられているから尚のことだ。
しかし、“信仰”とか“信じる”という行為・心の在り方に対し、考えさせられることは大いにあった。
つまりだ。
信じるとは、「たとえあなたに欺かれたとしても、一切恨みません」という覚悟のこもった決意と同義なのではないか、と。
だから、それだけに「あなたを信じています。約束は必ず守って下さいね」と、まるで念を押すかのようなはたらきかけは、単に期待なだけであって、そもそも信じていないからこその意識であり、それはもう、信仰とは別種のもののような気しかしない。
信じる・信じ切る姿勢とは、何の見返りも求めない、一筋に貫かれた純粋無垢な心のことを言うのではないだろうか。
信じる覚悟
オウム真理教教団幹部達は、都合の良い時だけ教祖・麻原を神格化し、思考停止させて指示のまま、流れのままに後に犯罪と既定される行動を繰り返した。
それらが全て頓挫するや否や「あいつに騙された」と責任転嫁しようとする。
果たしてそれを、そんなお粗末な理屈を信仰と呼んでいいものだろうか?
ただ単なる稚拙な主従関係にお互い酔いしれていただけなんじゃないだろうか? そう想像してしまうのも無理ではない筈だ。
本当の意味で神様にもたれる精神であろうと思うのなら、
「私は裏切られてもいい。神の試練を矮小な人間心で汚したりなどしない。与えられたあるがままの状況を甘んじて受け入れるのみ」
…ぐらいの覚悟が必要なのかもしれない。
“信仰”とは神様に見返りを約束してもらうことではない。
“信じる”とは、その後の都合の良い好転を期待するものでもない。
“信じる”とは、それに伴う経過も結末も、“全て神様にお任せ”し切ることなのだ。
結果、裏切られた形になったとしても。
見放されたような末路が待っていたとしてもだ。
それを危険な心理状態と見なすか、穏やかな結末への最適ルートと見なすかは、本当にその人次第だろう。
とはいえ私はまだ、到底その域には立てていない…。
【2015.10】
おまけ
“御守護をいただく為の信仰”というものに、疑問を抱くピーナッツ。
何故なら御守護は今まさに、十二分にいただき続けているものと認識しているのだから。
不都合・不具合に見舞われ、それを元の状態に戻して欲しいと願うのが人間の浅はかさ故なのだけれど、それってつまり、身上・事情をいただく前の何でもない当たり前の状態が、御守護もらいっきりの状態だということを意味しているのではないか。
とするなら、これから先はいつか失うかもしれない、だけど今はまだ持っているたくさんのことを一つでも多く実感し続け、与えられていると再確認し、それに満足することが、生きる喜びを味わうに直結するのではないだろうか?
実は、今夜はホッピー片手に既に最初から酩酊しながらのnote作業なんです(^_^;)
書いた内容、果たして大丈夫なのかしらと不安に駆られつつ、投稿しようと思います。
ここまでおつき合いいただきありがとうございました(^O^)
それでは、また‼