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87.異物のたわごと(1)‐上手に生きられない‐

天理教青年会が創立100周年に向けて声をあげた2016年の秋。

“親子孝行 夫婦仲良く 陽気ぐらし”

打ち出されたスローガン。
この方向性を具体的に示し、布教と求道に励んでいこうという、非常に明確な、強いメッセージがおぢばから発信された。

当時、私に対し両親から向けられる思いと、妻から向けられる思いとの間にはどうやっても埋まらない溝が横たわっていて、板挟みにあい、すっかり心身とも摩耗していたものだから、そのスローガンはあまりにも美しく、眩し過ぎる光を照射されうなだれざる得ないような、そんな複雑な心境だった。

もしそこに深い暗闇があったのだとしたら、理想を胸に光を差し込もうと躍起になるのは天理青年の当然の使命なのかもしれない。

だけどもなぁ…と、胸の奥底で人知れず自問する。

暗闇に、ある一方から光を向けて照らしたとしても、必ずそのどこか死角となるところにまた、新たな陰が生じてしまう。

もちろん、照らしさえすれば、その場は全体的には明るくはなるだろう。

でも、小さくなり、限定的であれど、陰そのものは決して完全には消滅しない。

それどころか、片側から浴びせる光が強ければ強いほど、死角の陰はますます色濃く、深い漆黒へと変わっていく。

明るみに決して交わることのできない、歪んだ、存在を公認され難い異物達があらわになる。

私は、どうしてもその公認を憚られる異物の方へと視線を落とし、じっと見つめてしまう。


“親孝行”という光。

“夫婦仲良く”という光。

“陽気ぐらし”という光。

…そして、そんな光が眩しくて、「辛くて、その場所にはいられない」と物陰に身を寄せようとうずくまる異物。


宗教者が真に心を向けるべきは、そんな異物の側ではないだろうか?


自身の過ちとはいえ、大きな失敗をして後悔に苛まれる人達。

心に傷を抱え、生きづらさから抜け出せないでいる人達。

何らかの事情で思い描いた通りには生きられなかった人達。


そんな人達にとって、模範的で美し過ぎる教えとは、敷居が高く、「私はそこにいられない」「いるべき資格がない」と他所事のようにむなしく響いてきこえるかもしれない。


上手に生きられないから、世界は苦しい。

想像もしていなかった災難に見舞われ、生きていくのが辛い。

宗教なんて、所詮気休めだろう?
心が弱い人間がすることだ。

そんなことして歩いてまわって、一体何の意味がある?


…道の辻、玄関先、出会う人、出会う人、様々な言葉を私に投げかけ、それらを真正面に受けて、そして、自分なりに納得のいく何かを、確かなものを探し求め、自らに問い続けてきた。


そして、ようやく見つけた些細かもしれないけれど、微かなひとつの結論。


“どんな不条理に対しても、須らく価値を与えるのが宗教の役割であり、そこから万事、救いの輪郭が形作られる”



人が抱える、数限りない歪みを肯定したい。

あなたから見れば、それは他愛もない戯言のようにきこえるかもしれない。

だけど、それでも貫いてみたいと思える真摯な姿勢こそが、そこに垣間見れるような気がしている。


【2016.10 加筆修正】



ここまで読んでいただきありがとうございました。
それではまた。

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