3.「予定外」なことがもし起こったなら
日々暮らしていると、生活の様々なちょっとしたところで、「予定外の事態」ということが起こるのはよくあるものです。
「今日はあれをしよう」
「これを夕づとめまでに終わらせちゃおう」
そんな風に漠然と頭の中で予定を立てていたとしても、急な用事を頼まれたり、妻が忙しくて、代わりに幼いこどもを見ててあげなくちゃならなくなったり…。
(もっとスムーズに物事が運べばいいのになぁ…(´Д`))
…なぁんて常々思うところなのですが、そんな時に、たまたま読んでいた天理教学の研究者・井上昭夫氏の著書に気になる内容が書かれていることが目に留まりました。
『予定通りにことが進むと「不思議」は起こらない』
「ほほ~なるほどぉ(・o・)」
井上氏はそんな予定外に見舞われた時こそ
「宗教の出番だよ」
「あなたの信心が試されているんですよ」
「不思議なことに出会う機会が起こっているんだよ」
と、そんな風に言っているんだなと私は受け取りました。
「予定外の事態」=「都合の悪いこと」
=そのとき、自分は試されている
ここで、また別な話を関連づけて考えを巡らせました。
高野友治氏の「ご存命の頃」に書いてあった、とある記述です。
きっとおそらく、その女性は人目をはばかりながら教祖のもとに救けを求めてきたんだと思います。ところが教祖は、表面的な解決ではなく、身に降りかかっている不都合そのものをその人自身が受け入れ、それに向き合う心=“根本的な発想の転換”を促しているように私は解釈しました。
一般的なご利益信心なら、身上・事情(困りごと・悩みごと)をすっきり解決(もしくは回避)してくれてこそ「ありがた~い神様」となるのでしょう。
しかし、お道の信心はもっと次元が深く、そんな困ったこと、悩んでいることを通して親神様の思惑を悟り、我が身のいんねんを自覚し、納消の道を歩む教えだということを引用からその示唆を改めて読み取ることができます。
だとするなら、予定外・不都合が起きた時こそ、どういう心の動きでそれらを受け止めるのか、そこで個々の信仰レベルを問われるのだと、そのような気がしました。
…フム。
…とはいえ。
できることならやっぱり大過に見舞われず、なるべく予定通りのほほんとイージーモードで毎日を過ごせたら、そっちの方がなんかいいですよね!
以上、人間思案の極みでした。
ではまた(*'▽')ノ
【2012.1】