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3.「予定外」なことがもし起こったなら

日々暮らしていると、生活の様々なちょっとしたところで、「予定外の事態」ということが起こるのはよくあるものです。

「今日はあれをしよう」
「これを夕づとめまでに終わらせちゃおう」

そんな風に漠然と頭の中で予定を立てていたとしても、急な用事を頼まれたり、妻が忙しくて、代わりに幼いこどもを見ててあげなくちゃならなくなったり…。

(もっとスムーズに物事が運べばいいのになぁ…(´Д`))

…なぁんて常々思うところなのですが、そんな時に、たまたま読んでいた天理教学の研究者・井上昭夫氏の著書に気になる内容が書かれていることが目に留まりました。

『予定通りにことが進むと「不思議」は起こらない』

人間は調子の良いとき、健康なとき、幸福なときは、自分の努力が実を結んだと思い、またおたすけにおいても、すべては自分の努力によって成されたと思いがちであります。
もちろん努力も必要であります。しかし、自分の努力だけで、ゆるぎない幸福が築かれるかと申しますと、往々にして人生はそう予定通りに行かないものであります。予定通りに行かないというところに信心の値打ち、宗教の出番がやってきます。
なぜなら、人間の予定通りに行くと、「不思議」は姿を消すからであります。考えてみると、私たちの身上・事情は、すべて人間の予定外の出来事でありまして、地震や津波といった天変地異も、人間の予定外の出来事であり、人間は予定外の出来事の中に不思議に出会う機会が与えられる。つまり、予定外の事象の「聞き分け方」一つで、その人の人生が決まると言っても過言ではありません。この点に気が付かない人間は、いくら財産があり、教養があり、信仰の年限が長くても、その人間は救からないということになってしまいます。これが天理であります。
喜べない人、事情・身上で手引きをいただいている人は、道具の使い方、ものの見方、聞き方、ものの言い方をまず深く反省し、厳しく「自己批判」しなければなりません。これが、このお道を信じる私たちの、「心の進化」、心の条件であり、おたすけの前提であります。

井上昭夫著「天理教学の未来」より

「ほほ~なるほどぉ(・o・)」

井上氏はそんな予定外に見舞われた時こそ
「宗教の出番だよ」
「あなたの信心が試されているんですよ」
「不思議なことに出会う機会が起こっているんだよ」
と、そんな風に言っているんだなと私は受け取りました。

「予定外の事態」=「都合の悪いこと」
=そのとき、自分は試されている

ここで、また別な話を関連づけて考えを巡らせました。
高野友治氏の「ご存命の頃」に書いてあった、とある記述です。

京都の道は既に明治十年ごろ、七條大橋付近に盛んであったこと、奥六兵衛(幼名安之助)が河内の国古市村の親戚の家で山本利三郎による不思議なたすけに驚嘆して京都へ帰っ確乎確乎てきたことは、前に記したとおりである。
(中略)
安之助が河内から帰ってくると、まず、かつて知る女で頭の毛の無い女を連れて教祖(あるいは山本利三郎か)の所へお願いに来た。そのとき女は頭をお高祖頭巾(こそずきん)で隠していたというが、教祖は、隠してはいかん、人から見てもらって笑ってもらうところに、いんねんの果てる道があることをお諭しになったという話しが伝わっている。

『ご存命の頃「道は伸びる」』より

きっとおそらく、その女性は人目をはばかりながら教祖のもとに救けを求めてきたんだと思います。ところが教祖は、表面的な解決ではなく、身に降りかかっている不都合そのものをその人自身が受け入れ、それに向き合う心=“根本的な発想の転換”を促しているように私は解釈しました。

一般的なご利益信心なら、身上・事情(困りごと・悩みごと)をすっきり解決(もしくは回避)してくれてこそ「ありがた~い神様」となるのでしょう。
しかし、お道の信心はもっと次元が深く、そんな困ったこと、悩んでいることを通して親神様の思惑を悟り、我が身のいんねんを自覚し、納消の道を歩む教えだということを引用からその示唆を改めて読み取ることができます。

だとするなら、予定外・不都合が起きた時こそ、どういう心の動きでそれらを受け止めるのか、そこで個々の信仰レベルを問われるのだと、そのような気がしました。

…フム。

…とはいえ。

できることならやっぱり大過に見舞われず、なるべく予定通りのほほんとイージーモードで毎日を過ごせたら、そっちの方がなんかいいですよね!

以上、人間思案の極みでした。
ではまた(*'▽')ノ

【2012.1】


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