見出し画像

96.“物を大切にする”の解釈の難しさ

どちらかと言えば物が片付けられないタイプのピーナッツ。
書籍関係、紙媒体の漫画はどんどん増えていく一方です。
一方、救いなのはある程度の役目を終えたであろうものには見切りをつけて“捨てる”等の手放しができるところです。

やばいのは、ピーナッツの父です。彼はホントに物が捨てられません。放っておくとどんどん不要な物が溜っていきます。そういう教会長さんって割とあるあるじゃないでしょうか?

父は何も教会をゴミ屋敷にしたくてそうしているわけではありません。
あの捨てられない精神の根っこにあるのは、一応“物を大切にする”から来ているのです。どうもそうらしいの(本人の主張によればだけど…)。


「物を大切にしましょう」


私達天理教の人は大なり小なりそういう精神を持っている筈です。
それ自体はとても大切なことだと思っています。

しかし、その“物を大切にする”も、世代等の価値観のギャップで、相当解釈が違うように感じるのです。そしてそれが、摩擦や停滞を生む少なからず要因となって生じている感は否めません。

一体、“物を大切にする”とはどう解釈したものでしょうか?


捨てられない世代

「お義母さん、使った割りばしとか、弁当の入れ物とか、みんな全部とって閉まっておくの…」

これは、以前ある教友の女性から聞いた話です。嫁ぎ先の教会の親奥さんが台所に立つと、本来使い捨てていい筈のものまで洗って大事にとっておくのだと言います。「もったいない、まだ使えるから」が口癖の親奥さん。物がない時代を生きて来た人はみんなそうみたいです。
ただ、その教友さんはその後でこう付け加えます。

「でも、閉まっても、二度と使うことはないのに」

大事に閉まって、取っておいて、もうそれっきりなんだとか。

菜の葉一枚でも、粗末にせぬように。

稿本天理教教祖伝逸話篇112「一に愛想」


天理教の人は全員聞いたことがあるんじゃないかってぐらい有名な逸話篇の一節。純粋な信仰者でもある年配の方々は、ホントに本気でそれを地で行こうとします。

結果、物を捨てない。徹底的にリサイクルのチャンスを与えようとし続ける。そして今すぐ使うわけでもなく、かと言って使う機会が具体的に思いつくわけでもないので、とりあえず「そのうちいつか使うかも」の精神で戸棚にしまっておく。

教会あるあるじゃないですかこれ?


“所有”の徳と“使用”の徳

こんな教話があります。

所有していても使用できなかった人がいます。所有していないけれども、使用できた人もいます。皆さんはこの二つの言葉をどう理解するでしょうか。
多くの人は、使用するために所有する努力をしています。所有さえすれば、いつでも使用できると信じているからです。しかし、現実はそうでもありません。
私は、所有と使用は別の問題であると思うようになりました。多くの方が一番に望むのが、所有して使用ができるということです。そして、宗教家は、基本的に個人の所有財産を放棄している立場で、宗教法人の中で生活させてもらっているのです。宗教家であってもなくても、所有よりも使用させていただくことに重きを置くべきだと思います。
必要な時に必要な分だけ使わせていただける理と徳を与えていただければ、こんな結構なことはありません。

船富廣國「形は消えても理は残る」


人間にはそれぞれ“物を所有する徳”と“物を使用する徳”があるのだと言います。
であるならば、先述の「もったいないと言って捨てないで閉まっておいて忘れてしまったり、使う機会に恵まれない」という事例は、所有したものの“使用する徳”がないため、一度ストックしておいたものを生かす機会がないということになるのではないでしょうか?


物を大切にするとは

では結局、“物を大切にする”とはどういうことを指すのか。

ここからはピーナッツの個人的な意見です。

それは、ただ闇雲に溜め込んだり、辛抱して温存しておくことではない。

何故なら、物が物として成り立つ大前提にある条件が、使われるために存在しているということだからだ。

使ってこそ、はじめて物は生かされるのであり、それをせず、機会を与えず長い間閉まっておいたりすると、その物が生み出された瞬間に吹き込まれたであろう、本来持っている“人の役に立つ”というエネルギーが発揮されなくなり、存在意義を失っていくことになる。

そして、閉まっておくという行為そのものは“出し惜しみ”の心のほこりとも結びつきやすく、つまりこれってシンプルにいいことがあまりないと思っている。


人が持つ“使用の徳”とは、人によって器は様々だと思うけれど、肝心なのは、自分の持っている“使用の徳”を超えた“所有”は、物を大切にしている状態から遠ざかっていることだと私は考える。ここのバランスが崩れている時、既にいっぱいいっぱいになっている“所有の徳”の器に新しいものが入る余地がないため、不思議な物金の巡る循環は起こりづらくなるといえるだろう。


まとめると、

・人には“所有の徳”と“使用の徳”がある。
・“物を大切にする”とは物本来の潜在能力(エネルギー)を存分に生かすということ。
・“物を生かす”とは溜め込みや温存ではなく“使用している”ということ。
・物本来の潜在能力を十分に生かせない状態にある要因は、“所有”が、“使用”を上回ってしまっているから。
・解決策として、“所有”と“使用”それぞれの徳が調和している状態(もしくは“使用の徳”の方が上回っている状態)をつくる。


と、ピーナッツは考えている。

使い切れない物は、欲しい人にどんどん譲るか、捨てるという選択も大切だと私は考えている。
物を簡単に処分するのがもったいない、捨てられないという気持ちが強すぎるのは、大切にしているのではなく、出し惜しんでいる、執着からなっているということは心しなければならない。

物に執着し過ぎると、周囲との人間関係に摩擦や悪影響を与える。
これは間違いない。
良好な人間関係は物がある、ない、ということよりも遥かに優先されるべきことだ。そこを履き違えてしまっているのなら、最早それは「物を大切にする」という幻に囚われた物欲への執着である。


勢いに任せて書いてみましたが、皆さんはこれをどう感じられていますでしょうか?

天理教の人にとって、けっこう根深い問題なんじゃないかと思っています。


【2024・12・2】


ここまで読んでいただきありがとうございました‼
皆さんのこれに関連した感想など良かったらお聞かせください。
それではまた(^^)

いいなと思ったら応援しよう!