57.合わせる心に神がはたらく(2)
一手一つとは、「心を揃えることを第一に考え、個々の主張を置いておくこと。仮にたとえそれが正論であったとしても、個の主張が和を乱すようであれば神は受け取ることができない」といった要旨を先人・増野鼓雪は説いていた。
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そんな増野説とは違った角度から一手一つを論じているのは、おやさと研究所(当時)の井上昭夫氏。興味深い内容だ。
増野鼓雪の一手一つ論とは全く異なる角度からの言及であり、示唆に富んだ意見だと思った。
安易な妥協、迎合、事なかれ平和主義からくる和合はお道の一手一つの在り方とは違うよ、とそんな風にも受け取れる。それは本来の一手一つからはズレているのだと、井上氏は痛烈に論じてる。
①どんな賢い意見、正論であろうと、和を乱す個人プレイは神の理をいただけない。むしろ全員でまとまってやったことなら、それがたとえ最善策ではなかったとしてもご守護があるよ。異論を立てるより心を揃えることを優先せよ。
→これが増野鼓雪の一手一つ観。
②異議があるなら正面切ってぶつかっていけ、摩擦を恐れるな。暗に意見を引っ込めて妥協した和合は神様の真意に沿っていないよ。緊張感をはらんだ意思と意思との擦れ合いが成人に向かっていくことなんだよ。
→これが井上昭夫の一手一つ観。
さて、あなたならこれを見てどう感じるだろうか?
私は増野説に己の心の見つめ直しを考えさせられ、
井上説にシンパシーを感じていた。
一手一つに向かっていく上で、談じ合いという過程が大切だと思っているからだ。
腹の底から思いをぶつけ合うことで、自ずと銘々の信念や信心に磨きがかかってくる。それは、合理的に物事を推し進める会議とはそもそも根本的に異なる流れを汲んだ営みだ。
談じ合いを重ねに重ね、各々本音を吐き出した果てに、最後は芯となる人の決断に沿っていく。そうやって心を揃えていく。
これが神様に受け取っていただける、鮮やかな神のはたらきを見ることのできる一手一つの姿なんじゃないかとそう思っている。
あなただったら、どう考えるだろうか?
【2015.2】
おまけ
当時、誠錬寮生だったある教会子弟さん(当時20代前半)に、一手一つをテーマに寮報巻頭言を原稿依頼し、執筆してもらいました。以下がそれです。
一手一つについて様々な意見がありますね。
どうぞご参考までに。
「一手一つは難しい」
専修科生の頃、「一手一つの和をもってつとめよう!」という合言葉があり、事ある度に唱和していた。しかし一手一つにつとめていたかと言えば、恥ずかしながら全くつとめていなかったのが実際のところだ。
一人だけが勇んでいても一手一つにはならない。一手一つの難しさを痛感した。そもそも、一手一つにつとめる姿とは、どういった姿なのだろうか。
ある先生は「かぐらづとめをつとめる姿こそ一手一つの最たる雛型と言えるでしょう」と言われていた。私達は一人々々、それぞれの心というものが違い、立場・環境・能力・性格・徳分も全て違う。その何もかも違うお互いが親神様の思召し一つに心を合わせ、その一つに合わせた心を持ってそれぞれの持ち場立場で精一杯つとめる姿が一手一つの本来の姿だと教えられている。
一手一つに皆結んでくれるなら、どんな守護もする。
(明治31年3月19日 おさしづ)
今の自分には、親神様の望まれる一手一つの心でつとめることはなかなか難しい。しかし、これだけ力強く、有難い御言葉を聞いてしまったら、
勇まずにはいられない。
(某誠錬寮寮生)
ここまで読んでいただきありがとうございました(^^)
ではまた~。