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104.教話雑感(10)-陽気ぐらしとは、主体性をもって“いま”を遊ぶこと-
◆教話「陽気ぐらし」
おさしづにおいて一番用例の多い「陽気遊び」の意味について思案してみたいと思います。まず「陽気」について、次のおさしづを紹介させていただきます。
神が連れて通る陽気と、めん/\買っての陽気とがある。勝手の陽気は通るに通られん。陽気というは、皆な勇ましてこそ、真の陽気という。めん/\楽しんで、後々の者苦しますようでは、ほんとの陽気とは言えん。めん/\勝手の陽気は、生涯通れると思たら違うで。 (明治30・12・1)
(中略)
ここで、「遊び」の主な性質について列挙してみましょう。
まず第一に自由、自主性です。つまり遊びとは自由で強制されないものです。
人間創造の目的は、神が「陽気ぐらしをさせる」ではなく、人間が「陽気ぐらしをする」のを見て共に楽しむ、となっています。「させる」は強制ですから、そこには真の楽しみ、喜びはありません。もし人間の心の自由がないと考えますと、人間は神の操り人形にしかすぎません。ロボットですから、神の意志通りに動きます。そして、この世の人間にとって完全無欠の理想的な世界になるかもしれませんが、それでは神が演者であり観客である一人芝居、自画自賛の芝居をしているようなもので、そこには神人和楽はありません。したがって、人間にも真の楽しみはありません。
第二の性質は、遊びに目的がなく、何も結果を残さず、たとえ結果があっても、それにとらわれることがないということです。
遊びの目的を強いて挙げますと、時間を忘れて、いま現在を楽しむということです。過去にとらわれたり、未来にこだわる限り遊びは成立しません。過去や未来に遊ぶことなど考えられません。
(中略)
遊びの第三の性質は、共同性、社会性、たすけ合いということです。遊びは本来、一人でするものではありません。
(中略)
かくれんぼ、鬼ごっこ等を考えてみますと、多人数で、しかもそれぞれに役割が決まっています。また、役割に長く固定されずに順番が変わっていきます。だから遊びは楽しいのです。役割が長く固定されると、遊びは消滅します。
雑感
お道の信仰が真に心に治まったなら、まるで幼子が無邪気に遊んでいるかのごとく明るい心持ちで人生を通れるようになり、先への不安や心配にも心を奪われず、解き放たれたようなふわふわと軽やかな気分で日々を送れるようになっていく。心にかかるものがなく、いつも自由な精神でいられるようになる。…これが想像できる理想の姿だろうか。
神を求めていく上で大切なのは、銘々の主体性である。様々な状況下において命令や指示によってではなく、己の意志で判断し、神の手招く方へと進んでいくことを何よりおやは望まれている筈だ。間違っても、
「あっちの方で大号令があったから、正直よくわからないけれど、とりあえずみんなも進んでいるみたいだし、ひとりだけ別なことをして他から白い目で見られるのも嫌だから、私も一緒にこっちの方に向かってきました」
なんて、思考停止の信仰姿勢など、神意に沿った生き方だと言えるわけがあない。
ある時、大教会の御用の中で誰とは言わないがとある権威者が、道の子弟の教会離れを改善していく手段として
「教会はとにかく良いところなのだと、洗脳というか、若い者の心に植え付けていこう」
という言葉が出た時には耳を疑った。洗脳とは、主体性を失わせ個の判断力や思考力を奪っていく。若者の心に響かない理由は、もっと根本的なところに原因があるように感じてならなかった。
【2016.9】
余談
先日、NHKの「朝までラーニング!」という番組を視聴して、色々な気づきを得る機会があった。サンシャイン池崎が心理学、物理学、哲学の専門家に学び、そこから得た池崎なりの「時間の正体」をわかりやすくかっこよく発表するという企画だった。
様々な分野で「時間とは」ということをとことん突き詰めた結果、あらゆる角度から同じような結論が待っていた。
時間の正体とは、わからない。
でも、なぜ「わからない」という結論に至るのかには、成程と思わせるものがあった。
時間の正体がわからないのは、時間とはまだ終わっていないものだから。
いまこの瞬間も現在進行形で連続して続いているもの、それが時間。
完了していないものだから、結論も出せない。
だけど、哲学の分野で時間を見つめた時、その「わからない」ってことは時間とはまさにいまこの瞬間だという気づきをも与えてくれた。
終わらない、いまこの瞬間の繰り返し=時間
さて、教話の中で「陽気遊びとは時間を忘れて楽しむ」ということに触れられてる。ここが興味深いところだ。
時間というものを意識している時点で、人は、過去や未来へと意識が分散され、現在という意識が薄くなっているのでは?
とするなら、「陽気遊び」とは、そんな過去や未来という意識から解放され、いまこの瞬間という意識が拡大している状態なのではないだろうか?
主体性を失うことなく、自由で制限されることもなく、そして、終わらない、連続するいまこの瞬間に心が満たされていること、それが“遊んでいる”ということであり、もしかしたら陽気とはそんな様なのかもしれない。
もちろん、そんな状態にあってなお、神様とともに在るという意識と融け合うように。
ここまでおつき合いいただきありがとうございました!
それではまたぁ(^^)