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129.おたすけもどき

おたすけって何だろう

昨年の夏の終わり頃、誠錬寮にひとりの男性が突然訪ねてきた。

「食べるものがなくて何日も食べていません。なんでもかまいませんので少し食べ物をわけて下さい」

姿勢は低かったが、風貌が引っかかる。
50歳前後ぐらいであろう中年ながらも真っキンキンの金髪。
パッと見、チンピラ風の方だった。

お金を要求されたのなら断わるところなのだが、欲しいのは食べ物。身分証の提示を要求すると、マイナンバーカードを手渡してくる。

徒歩15分程度の距離のアパート住まいの方で、写真と目の前の男性は同一人物のようなので、嘘ではない。

お下がりのカップ麺や簡単な食べ物をいくらかビニール袋に詰めて手渡した。彼はお礼を言ってそそくさと帰っていく。

後姿を見送った後、

この対応で良かったのだろうか…?

と、そんな風に自問する。
もっと良い関わり方があったのでは、と。



彼が再びやってきたのは、それから約2か月後のことだった。

やはり、食べ物をわけて欲しいと。

何日も身体を洗っていないであろう臭いを嗅ぎ取る。
やはり困窮は嘘ではないらしい。
この時、ひのきしんのお手伝いに行く用事があって、その迎えがタイミングよくやって来たので、ゆっくり応対する時間がなかった。
じっくり考える余裕もなく、咄嗟に以前のように食べ物を袋詰めして手渡し、

「いまから出かけなくちゃならないのですみませんがこれで」

と断って帰ってもらった。
車の中で、

あれでよかったのだろうか…。

とやはり自問。

時間なかったんだ。
タイミング悪かったんだ。

そう自分に言い聞かせながら。


3度目の来訪は、つい先日のことだ。

食べ物を手渡しながら、市役所の生活福祉課に相談とか行ってるんですか?

と尋ねると、いま相談しているんですが…と彼。

土木関係の仕事に勤めてて最近リストラされ、途方に暮れているところを、“天理教”の看板が目にとまって、思い切って訪ねてみたのだ1度目のあの日だったのだという。母親が実家で天理教の信者だったのが、後押しになったそうだ。いまは貯金も底をついて、万事休すだと。

しかし、絶対に見た目で損してるよな(金髪だもん)…と私は感じていた。


その翌日は、教務支庁で屋根の雪下ろしのひのきしんの集まりがあり、私も一緒に雪片付けをしていると、また件の彼がやって来た。

「ピーナッツさん(名前を覚えられた)にご報告をと思って今日は来ました。昨日あの後、市役所の方から生活保護の申請が認められまして、来月から生活していけることになりました」

おー、それは良かったですね(^^)

「それで、あと半月、全くお金がなくて、その間なにかお金を稼いで食いつなぐ方法があれば、教えて欲しくて…」と彼(Kさんという名前)。

妙にタイミングが良いというか。
この教務支庁のひのきしんの後、信者さんで高齢者のお宅の屋根の雪下ろしを有償でお願いされていて、今回ひのきしんに参加している人の中から5人程度時間が空いている方に声をかけて連れて行くことになっていた。

Kさんも一緒に連れて行くことになり、午後からそっちで屋根に上って雪を落として汗をかいた。

ひとり〇千円ずつ謝礼をいただいて、Kさんもこれでしばらく食いつなげると安心していた。

この時、私は、少しだけ彼に違和感というか、引っかかりを感じていた。


Kさんは合間合間に煙草を吸っていた。


私は喫煙者じゃないのでその心境は正確には推し量れない。
でも、食べるに困っている、と言いながら煙草を買う金はあるのか、と考えると、彼の言い分にちぐはぐさを感じざるを得ないでいた。


そして、昨日、Kさん5度目の来訪。

「わたし、38度の熱があって病院にいったら、インフルエンザにかかっているから、ワクチンの注射を打たなくてはいけないと言われ、それが700円かかるんです。ピーナッツさん来月お返しするので貸してもらえませんか?」


何言ってるんだ、この人?


それが嘘だということは瞬時にわかった。
言っていることがデタラメ過ぎて、もう少しマシな嘘つけないのかとさえ思った。

インフルエンザの人がのこのこと歩いてまわれないし、感染してから注射するとか聞いたことがない(しかもワクチンって(-_-;))。700円という絶妙な金額の要求と、同時に、脳裏によぎった彼が以前吸っていた煙草。

しかし、時間をかけて追及している余裕はなかった。

どうしてだか彼は、毎回毎回、これから出かけるという急いでいるタイミングでやって来るんだ。

時間はなかった。小銭を手渡す。多分嘘なんだろうなって感じつつ。

絶対返してくださいよ、信じますからね。

そう念を押して。

まあ、お金が返って来ないなら来ないで、彼はその後ここにはたすけを求めに来れなくなるだろうし。

急ぎの車の中で、俺はどうしたらいいんだ? という自問自答が延々続いた。


天理教の人はいい人が多い。
多分、私よりもKさんに親身に甲斐甲斐しくやってくれる人もいるだろう。
だけど私は、そういう風にする気になれなかった。

多分それは本質的なところでKさんのためにはきっとならないだろうから。


食べ物がなくて困っている人に、魚を釣ってあげることは割と簡単だ。
そしてもらった方はそれはそれでたすかるだろうし嬉しい。
だけど、食べてしまえばその人の状況はまた元に戻ってしまう。

だから、魚をあげるのではなく、魚の釣り方を教えてあげなければならない。この例えはよく聞く話で、要するに、困っている人を自立させてやる必要があり、こちらの善意に依存させてしまうようでは表面的にたすけているような体を保っているだけで、根本の解決には至らない。

私はKさんに、できれば根本的な部分をはずさずに援助する必要があると思っている。食べ物をわたして一時しのぎしかできないのは、彼のやって来るタイミングが、私がじっくり受け止める状況がつくれない時ばかりやってくるのだからだ。

私は神に試されているのだろうか?

それとも、そういう表面的な援助しか受ける機会を得られない、彼自身の徳の問題なのだろうか?


でも、絶対に依存関係はつくらない。

しなくていい気をまわして、彼に過剰に力を貸し過ぎるのは供給側の自己満足に陥る可能性が高い。

善意での援助は、困窮者の自立心を著しく骨抜きにする。

そしてそういったものは、必ず供給側が力尽きて先に音を上げることとなるだろう。

と、ここまで考えをめぐらせ、改めて自問する。

じゃあ“おたすけ”ってなんだろう?

なにを持って“おたすけ”と定義し、なにをはずせば“おたすけ”ではなくなるのだろう?

Kさんと関わる度に、私はどこかで居心地の悪い気分を自身の対応に感じている。だけどこの居心地の悪さが大切だとも、どこかでは思っている。

「あー、困ってる人を助けられてよかった」だなんて、自己満足な“おたすけもどき”にだけは決してならないように。


そのうち彼はまた私の元にやって来る。その時はどうして差し上げられるのか。やっていることが“おたすけ”であればいいのだけれど…。


【2025.1.21】

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