51.思案の軸に必要なこと
従兄弟から、最新のよりひとつ型の古いゲーム機がお下がりとして我が家にやってきた。
以来、保育園から帰って来るや否やゲームに飛びついてそれに夢中になる6歳の息子。彼だけじゃない。3歳の娘も兄の姿をみて「〇〇も遊びたい」とわめいて、結果、取り合いのケンカが毎日続いていた。
「仲良くしなさい!」
「貸してあげなさい!」
「順番に遊びなさい!」
両親の口からはいつも同じ叱り文句が飛び交うばかり。
しかし、一向に争いは絶えない。
ゲームに限ったことではない。
毎回いつも、どちら片方が持っているものをもう片方が欲しがり、それの取り合いが始まる。
泣いたりわめいたりが延々と繰り返される。
それだけでもう、親はなんだか疲れてしまうんだ。
同じものが人数分あればケンカなんか起こらないのになぁ…(´Д`)
ついついそう考えてしまいがちになるのだが、実のところ、その発想は間違っているのだった。
数が足りなくて争いが起こるのなら、数を増やせばいいというのは、そもそも信仰を基準とした物の考えや在り方とは程遠かった。
ひのきしん精神から学ぶ
教祖120年祭の年祭活動をふりかえり、当時おやさとふしん青年会ひのきしん隊の班長をしておられた土佐剛直先生(現・撫養大教会長)が、あらきとうりょう誌でこんなことを述懐していた。
これは“ひのきしん精神”において深堀りしたエピソードだが、ここからヒントを得るべきことがたくさん詰まっているような気がする。
物事の壁にぶち当たった時、外側から何かを補充すればよい、買ってくればいいとして増やすことで目の前の問題の解決を目指したとしても、それは信仰的な態度とは言えない。
足りないかもしれない。
お互いの思惑は一致しないかもしれない。
だけど、その中でどう思案をめぐらし、噛み合わない思いを擦り合わせ和合を目指していくかが陽気ぐらしへと向かう鍵なのかもしれない。
幼い子ども達にはそこまでの思慮を求めるのはまだ難しいのかもしれない。けれど、それでも辛抱強く、2人とも仲良く譲り合って遊べるように工夫し、親の方から言葉をかけていくところに信仰の妙味が含まれているのかもな~と感じつつ、だけど絶えないケンカの渦中で声を荒げている現実はなかなかにして如何ともし難いわけで。
笑って暮らせる何気ない他日を味わい深めるために必要な、お互いの心の角をまるく磨きあう大切な摩擦なのだと、そう信じて見守る父であった。
【2014.10】
小さい頃のケンカって成長に必要不可欠な学びの場なんだなと今では感じています。この積み重ねで段々と大人になっていくんですよね。
ここまで読んでいただきありがとうございました!
それではまた(^O^)