25.強さって何だろう
予選リーグを勝ち上がり、地区決勝リーグを息子達のチームは戦っていました。
この日の相手チームとの試合が始まり、第1クオーターのメンバーに入ってコートを駆け抜ける息子。17‐6という先ず先ずの点差をつけて序盤の6分を終え、
“お、いい流れじゃん”
と余裕を浮かべ観戦していたピーナッツ。
が、迎える第2クオーターから、悪夢のような展開が始まります。
ベンチを温めていた相手チームの4番が登場すると、途端に空気が一変します。
茶髪のパーマ。
170cmぐらいでがっしりした体躯。
両手を腰にやりながらやや前かがみで見下ろし威圧感を与え、ふてぶてしい立ち居振る舞い。
パッと見ただけで誰が見ても雰囲気を察することのできる、明らかな存在感。
想像通り、彼が出てきてからの試合展開は全くを空気を一変させます。両チームあわせて、一人抜きん出た力量を持ったプレイヤーが体育館内の流れを全部持って行ってしまいました。声援を送っていたこちらの母親皆さんが、相手4番が難なくゴールを決めていく様に静まりかえっていくのが何とも言えない気分になります。
息子チームの4番も5番も6番も、みんなうまい子達ばかりなのに、彼等を凌駕するプレイでみるみる点を奪われていきます。
結局彼ひとりで30~35点ぐらい入れたんじゃないだろうかという縦横無尽ぶりで、息子はチーム10点差以上つけられ負けてしまいました。
決して埋まることのないもので強さをはかるべきなのか
負け試合は決して気持ちの良いものではありません。その中にも試合内容によっては色々な後味を残してくれます。
明らかに、自分達チームの未熟さ、至らなさが原因で大敗を喫した時は、叱咤を浴びながら浮き彫りとなった課題との向き合い方を各々考えていく時間が始まっていきます。
実力伯仲で激しい競り合いの末の負けだった場合、当然悔しいけれど、どこか爽やかさが残っている時もあります。試合にこそ負けたけれど、そこに本気の切磋琢磨が見られたからなのかもしれません。
だけど今回のケースはまた違った印象を残します。
抜きんでたある特定の人物によって、いいように蹂躙され全てを持っていかれてしまった末の敗北。
チーム作りに普段まったく食い込んでいない私(試合の時だけ観戦する勢)のような立場の保護者であっても、言葉にならない悔しさがにじんできます。
向こうの4番は、明らかに生まれつき備わったフィジカル面でのポテンシャルが、他の多くの子達と比較して大きく一線を画しています。その恵まれた体格・素養を土台に自らを高めてあの景色を見ているだろうことは想像に難くありません。
もちろん、きっと日々努力を絶やさず己を研ぎ澄ましてあの場所に立っているには違いありませんが、少なくとも、たとえば生まれつきチビなうちの息子なんかと比べても、スタート地点がまるっきり異なるのは目に明らかなのです。
勝ち負けって、何なんだろう…?
私は試合を眺めながら、静かに自問します。
敗因は、息子達のチームの側に克服し得るなにかと言っていいのだろうか、と。
与えられたものが既に違う。
いや、それは誰もが皆そうだともいえる。
厳密には、ひとりひとり、みんな生まれ持ったものに差異が生じている。
足が速い子がいる。
黙っていても身長が大きくなっていく子もいる。
要領よく器用に吸収してうまくなっていく子だっている。
そしてそのいずれもの反対もだって。
今回のような勝負のやり取りを見せつけられると、なおのこと、“うまい”ということと“強さ”とは根本的に違うものなんだってことを考えさせられます。
元々持っているものをお互い突き合わせ、その良し悪しを見比べることは、“うまいかそうでないか”を周囲に印象づけることは往々にしてあるかもしれない。だけど、“強いかそうでないか”は全く波長の異なる地点でやりとりされていることなのかもしれません。
それはひとりひとり、それぞれの内側の奥で営まれる、自分自身との対峙を意味します。携えたありあわせのものでどれだけやっていくかを問われる。決して他者と比べられることのない世界での戦いだと。
そしてそちらこそが、人が生きていく上で誰しもが本当に問われていることなんじゃないだろうか?
…と、そんな気がするわけです。
痛みを共有する
試合中、私は一言も言葉を発することなく固唾を飲んでそれを見守っていました。母親達や、女子チームの子達は懸命に声援を送り、流れを手繰り寄せようと必死に叫んでいます。
終盤に差し掛かると、もうこの展開は覆せないことが段々と明らかになってきます。
私は、私自身がこの場所にいることの意味を考えていました。
どうふるまえばいいだろう?
どう在ればいい?
そして色々と思案を巡らし、私なりの答えに辿り着きます。
息子達チームに向けて、いま、この場所で私にできること。
それは、この場所に居続けることだと思いました。
目の前で巻き起こっている試合。
コートの中で駆け回る子達。
ベンチからそれを応援する仲間達。
後ろから応援する保護者達。
更に多くの観戦者。
この場所には様々な立場の人がいて、みんな違った角度から試合のゆくえを見守っています。そんな人々の心の奥で、繋がり合っている無意識のうねりとか、渦とか、そういうものが確かに流れています。
試合が終わった時、きっと“悔しい“という大小の痛みが、感情のゆらぎの中で渦巻く瞬間が起こるでしょう。それは決して目には見えない世界での波の出来事です。
私はその時、そんな当事者達の側でその痛みを共有しようと思いました。
それは誰にも気づかれない、ただ私の意識の中だけでの動きだけれど、そんな風に意思を明確にして痛みのいくばくかを引き受ける側にそっと佇もうと思います。
きっとそれには意味がある。
きっとそこには意味が生じると思えたから。
ブザーが鳴り、試合が終了する。意気消沈する保護者の皆さんからそっと離れ、私は体育館を後にします。
出ていく途中、快勝し揚々とわき立っている相手チームの保護者の間を縫って行きます。
彼等の色めき立った言葉のやりとりを私の耳がちゃんと受け止める。負けた側の保護者がすぐそこを横切っていくことなんか何ら意識することのないその場所を潜り抜けて、会場を出ていきました。
なんにせよ、“強さ”ってことを深く考えさせてもらう時間でした。
【2024.6.30】
“天理教”的なことは語れていませんが、気持ちが熱いうちに表現してみました。
低気圧でひどい頭痛に苦しむピーナッツ。
今日は何もできそうにありません…(T_T)
ここまで読んでいただきありがとうございました!
それではまた_(._.)_