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56.合わせる心に神がはたらく(1)

私の直属青年会分会では、旬々・その時々に応じて都度談じ合いを重ね、やがて何かしらの具体的な心定めを決めてはそれを実行する、そんなサイクルを繰り返している。

ひとくちに青年会とくくっても、委員会を構成する各委員の年齢には幅があり、また直属内での立場も違えば、思想信条・考え方も、地域性も様々なもので、それなりの大所帯委員会(総務・委員・部員含めると20名超)だった。あくまでもその全員でできることを模索していく。
それなので、決まった心定め内容に表面では賛同の意志を見せてはいるものの、内心では不満を感じながらそれを飲み込んでいたことが少なくはなかった。

(もっとこうした方がいいんじゃないかのかな…( 一一))

と心の中でブツブツつぶやきながら、渋々動いていた。


そんなある時、とある先人教話に触れ、“一手一つの在り方”をめぐってとんだ思い違いをしていたと自身の姿勢を改めることがあった。

「一手一つが神の望み」
神様がいつもわれわれにお望みになることは、一手一つになるということである。一手一つとは皆のものの心が一つになるということで、多くの人の心が融け合うて一つになりさえすれば、よし、まとまった事柄が最善の事でないにしても、神様はご守護して下さる。皆寄ってできたことなら間違ったことでも許すと仰せられているのあるから、皆のものの心が離ればなれになってしたことは、それが良いことでも神様に守護して頂く訳には行かん。
とにかくお道にとって肝腎なことは、心を一つにするということにある。教会などでもよくあることであるが、一人の人がこうしようじゃないかと言うたのに対して、皆のものがそれではそうして貰おうと心に和して働くのは一手である。ところが、それよりもこうしようと異議をはさむことは、たとえそれが良いことであっても何にもならん。
親子にしても、又夫婦の間柄にしても、喧嘩をよくやるが、話を聞いてみればどっちにも理屈がある。そして自分々々が思う通りにやろうとするから、その間に火花の出るのは当然である。しかし理屈があるから神様の御守護が頂けるというわけのものではない。心を合わすか合わさぬかによって、御守護を下さる時も下さらん時もある。
教会などはえらい人の寄り合いだから、常にこうした問題があるが、要するに聞き分けの付いた者から心を合わせて行わねばいかん。好ましくないこともあろう。しかしそれに心を添えてやって行けば神様の御守護を頂くことができるのだから、よい結果を見ることができる。あーだ、こうだと言うていると、それが人間の考えでは立派なものであっても不始末に終ってしまう。異論を立てることは神様の理を頂くことのできないことになる。
自分はあれがいい、こうした方がよいと思うであろうけれども、それは第二としておいて、とにかくまず心を一手にすることができるかどうかを考えねばいかん。

増野鼓雪選集第一巻「講壇より」抜粋


最善を求める上からもっといい方法を発案したり、主張したりすることは自然の発想かもしれない。だけど、たとえそれが真っ当な意見であったとしても、芯となる人の思いや全体と歩調を合わせようとしない個人プレイであったなら、「神様の働きは薄い」と先人・増野鼓雪はそう説いている。

賢い者がどれだけ正論を並べようと、芯となる存在(天理教全体なら真柱、教会なら会長さん)の思いや声に、神様の思いが込められているとして受け止める心がなければ全くの無力であり、当然にそこに求める御守護はあらわれてなど来ないということなのだろう。

(注・しかしこれはなかなか際どい論だとピーナッツは感じてもいます。増野教理の鋭利さと、誤解との背中合わせの表現や展開は現代において賛否意見あって然りだと思っています。)


この教話。
自己を反省するキッカケとはなったものの…。


…こういった個を滅して集団に投ずといった“一手一つ論”は現代における宗教と社会との問題に絡めると微妙な印象を覚えてしまうのは私だけではない筈だろう。

この考え方・悟り方とは別角度から言及される“一手一つ論”も発見したが、それに関してはまた次回の記事で紹介したい。


続く




おまけ

布教の家時代の恩師・大豆先生の講話や聴講者からの質疑応答を収録した音声記録をたくさん保存しているわたくしピーナッツ。なかなか貴重なおたすけの資料でもあります。

先生はその後、我が教区独自の布教師育成機関・誠錬寮寮生の丹精役を受けて下さり、年数度の御来寮時にはいつも必ず布教講習会講師をして下さいました。一般信者や教会長さん方も大勢講習会には参加し、その場所でのおたすけに関する質疑応答が10年以上にわたって遣り取りされました。
それらの多くが音声データとして残っています。

その中から、今回の記事に関連の深い質疑応答を一部、文字起こししてみます。


Q.“大勢の人が一手一つに心をそろえてかかれば、形は多少いびつでも、神様が働いて下さる”という先人教話に触れました。大豆先生がこれまで見聞きしたり、経験から悟ってきた中で、何かこういったことを思い起こすエピソードがあればお聞きしたいです。

【質問者・ピーナッツ】

A.はい、ちょうど私自身、いま改めようと思っていることです。
おつとめのことを例に挙げます。一手一つに調和のとれたおつとめのメロディは、音楽の世界的権威が聴けば「素晴らしい」と絶賛するほどだと聞きます。そういうことを知っているだけに、やはりそこを目指したくなってしまいますので、私の教会でもおつとめに携わる人達にもついつい「もっとこうした方が良い、ああした方が良い」とあれこれ注文が湧いてきてしまいます。
しかし、完璧を目指して銘々にあれこれ求めていくことよりも、「これはこれで良いのだ」という心が大事なのだと最近になって気づかされるようになってまいりました。
背の高い人もいれば低い人もいる。太っている人もいれば痩せている人もいる。誰が見ても整った容姿の方もいれば、必ずしもそうとも言えない方もいて、個性とは実に千差万別なのです。そこに楽しみがあるわけです。同じ特徴の者ばかりが集まってもそこから味わえる楽しみは少ないと思います。
せっかちな性分でカッチンカッチン世話しなく鳴り物を鳴らす者もあれば、逆にのんびり、静かに鳴り物を鳴らす者もいる。肝心なのは様々な特徴をもつ人達と向き合って、それを楽しめるかどうかなのだと思います。
にをいがかかり信仰の道について、おつとめを一から教えても、上達には差異があって、なかなかまわりに合わせてうまくやれない人もあります。こちらがいくら求めてもそれに一向に応えられず、お互いに喜べなくなることもありました。
だけどいまは、一つに合わないということも喜ぼう、楽しもう、と私自身も考えを改めている最中であります。一生懸命やったが合わない、うまくいかないという結果を喜ぶことで、その心を神様は受け取ってくださるのではないでしょうか。

【回答者・大豆先生】



ここまで読んでいただきありがとうございました!
次回に続きます(^^)

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