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145.教話雑感(23)-おたすけ人は飲み会に顔を出すな-

◆教話「徳と因縁」

私は、病気(肺結核)の頃、「俺が徳を積む速度が早いか、肺病の因縁が迫ってくる速度が速いか、その差が生死を分ける」と思っていた。
だから、寸分の油断もない。自分で自分の怠慢が許せなかった。寸時も、ボンヤリしている余裕はなかった。
(中略)
したがって、自分一人で楽しむことは何一つしない。趣味、道楽、遊び事、遊山などはしたこともない。ましてや、女遊びなどは全然ノーである。
昭和二十年からは「自分の使うもの、身につけるものは決して、生涯買いません」と心定めて通ってきている。もちろん、教会生活も(昭和二十七年から)与えられるままの生活に徹してきた。
(中略)
こうしておつくしをした。
その後、次第に結構な立場となってくると、役得の旅行や宴席も多い。しかし、できるだけ、これを避けて通ってきた。おつきあいでの旅行も避けてきた。宴席も抜けてきた。
かつて恩師・柏木庫治先生に聞いたことがある。
「何某先生の教会はどうして盛んにならないのでしょうか」
「ただ酒を飲んであるいているようでは教会は伸びんね」
と、これが答えであった。
(中略)
神様は『道の往還道とは、真実、誠の道であって世間のように派手になったり、役得にありつけたり遊んでいても金儲けができたりすることではない。細道が往還なのだ』とお教え下されている。
(中略)
私はその後、二倍も三倍も働いて、その結果、得たものを、たすけ一条のために、また、ご恩報じのために、おつくししてきた。これが私の信仰であり、信念である。
お陰であろう。心も軽くなった。身上も時折頂くが、すべて、理を悟り解決されてきた。いよいよ、ますます身も心も明るく通らせて頂けている。
徳が、因縁を追い越したのであろうか?

北村光「信心三昧」より抜粋



雑感

残念ながら私は、非常に道楽者である。

漫画を読むのが好きで、テレビを観るのも飲酒をやるのも大好き。
スマホだって手放せない。
そうやって娯楽にまみれた生活を送っている。

だから、北村光先生の教話を読む度にグサグサ私の心臓を容赦なくえぐってくる。

人間生活の交わりの中で、かつ苦行に徹することは並大抵のことではない。だから雰囲気につい負ける。弱さ故だ。

反面、決して因縁が良い家柄の出ではないということも、少なからず自覚もしている。北村先生同様、油断してはいけない側の類だとも思っている。

だからこそそんな因縁の深さに対する徳の積み方にも、果たしの浅さにも納得のいく貫き方ができずのた打ちまわっている。

私は、人間であるということを、どうしても捨てられない。

人間らしく営む上で欠かせない、ありふれた喜びを享受したいという誘惑と、それによって生じる後ろめたさ、罪深さを感じながら、さも信仰者風を装って厚いツラをしてのうのうと暮らしているのが私なのだ。


だけど、お酒の場、宴席、お道には必ずと言っていいほどどこにでもある光景。そういうつきあいをかわしながら己の姿勢を貫くのって、本当に容易じゃない気がする。

「俺は細道に徹するぞ」と息巻いてひた走ろうものなら、時には場の空気を読まない、しらけさせるような態度をとることすら迫られる場面が出て来るだろう。

そんな人材がいまのお道には相当乏しいんだという実情もなんとなく感じているんだけど。

いずれにせよこの教話は本当に、耳の痛い話だ。



【2018.5】


余談

この教話雑感を編集した当時よりもまた少し心境に変化が起こっているわたくし、ピーナッツ。

いよいよホントに真面目に生きることをやめてしまった今日この頃。

いまとなっては、北村先生のこの教話の最後の一文、

“徳が、因縁を追い越したのであろうか?”

という言葉に、どこか一抹の不安を感じさせるのものがあるのだが、いかがだろうか?

おたすけの名人・大先生であり、私みたいな道楽者があれこれ揚げ足を取るようなことを語るのはあまりにも恐れ多いのだけれど、どうもこういった布教やおたすけがまるっきり教内の中央値であるという風潮は、私には“戦闘モードの天理教”という印象をつい連想させる。

その場合、先人は戦人といった風にもその後ろ姿が見えてしまう。

戦人意識でものを窺うのが主流であるなら、今日の天理教はすっかり堕落し切ってしまった目も当てられない無残なそれなのかもしれない。

めためたに弱体化し切った、戦闘意欲を失ってしまった成れの果てだと。

だけど、(少なくとも)私はそんな戦人的な在り方を見直す方に向かって歩みを進めてここまできた。

おたすけの在り方も、見つめ直し、自分なりのそういったものを掴もうと姿を徐々に変えてもいった。

“バリバリ布教してなきゃ天理教じゃない”
“身を削っておたすけに奔走してなければ信仰者としては落第点”

だとしたら、私は完全にそれに該当する。

徳積みも因縁果たしも、布教もおたすけも、大切なことだ。
おつくしも重要な信仰者の行いだとも思っている。

だけど、もう、“どうやったら教会が伸びるのか、栄えるのか”という意識で信仰する気にはなれないでいる。

もっと、ひとりひとりの心に焦点をあてたいと思っている。
形は違ってもいい、緩やかな繋がり方でもいい。

“教会”“組織”という形の方にではなく、ただただ、そこにいるひとりひとりの気持ちにちゃんとフォーカスして…。


今回記事に関連した内容の過去記事はこちら↓


ここまで読んでいただきありがとうございました!
それではまた(^O^)

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