28.円満の内実
街の中心地に昔からある、古いお寺の前を通った時のことだ。
“円満の中 誰かがこらえている”
何ら飾り立てることなく、そんな言葉が正面の掲示板に貼られていた。
それを目にして、
お寺さんも、なかなか普遍的なこと言うなぁ…(´ー`)
と感心していた。
簡潔な言葉で、物事をある側面から核心をついて表現しているなと思った。
もしもみんながみんな、銘々好きなように行動し、主張し合ってばかりいたら、家族だとか、教会だとか、そういった集団の中での秩序は保てる筈もなく、まるい円満な雰囲気をつくることはおそらく出来ないだろう。
“陽気ぐらし”
それは、全員が100%思い通りになっている理想世界…ではない。
それは一見穏やかで和やかな様相をはたから見ている人に印象づけたとしても、その見えないところでは、必ず誰かが(あるいはお互いが、全員が)、本心を曲げ、本音を押し殺し、自分以外の誰かに譲歩して和合する努力をしているから成立しているものなのかもしれない。
思い通りにならない時間
先日、青年会の講習会でとある先生がこんな話をされていた。
「“徳積み”とは、自分の思い通りにならない時間を増やしていくことです」
特に若い青年の時分はとにかく人に、目上の方に使われる立場なのだからこそ、様々な雑用や頼まれ事による忙しさに埋没せず、そんな自分の為ではない時間を通っている時こそ「それがまさに徳積みの真っ最中なのだ」という思いを持って、それを支えに張り切っていって欲しい、と。
いろいろな“思い通りにならない時間”は連想されるだろう。
私は真っ先ににをいがけの日々を思い起こした。
戸別訪問をしていると、インターホンを押しても不在、居留守、無下に断られる、怒られる、笑われる…どれも徒労に終わり、何にもならないような無駄とも言える時間の積み重ねだった。これもまた、そういう形で“思い通りにならない”徳積み時間を通ってきていたのだろう。
布教・おたすけが外に向かって足で稼ぐ“思い通りにならない時間”なら、家に帰って家族間での言うに言えない種々あらゆる摩擦、我慢、言葉を飲んでこらえた瞬間、ただそこを通過するしかなかった苦しかったそのひととき、そのどれもがみんな、内側の心の奥で深めていく“思い通りにならない時間”だったのかもしれない。
もしも仮に、あなたが配偶者や親子・兄弟、あるいは近しい誰かにストレスを感じ何かにこらえながら日常を億劫な気持ちで過ごしているのだとしたら、それが陽気暮らしの世の中を築いていく為の大きな地盤固め(伏せ込み)になっているといえるだろう。
それは誰の目にも映らないことなのかもしれない。
それは誰も拾ってくれることのない心の痛みなのかもしれない。
日の目を見ず、評価を与えられることもないままに過ぎ去って忘れられてしまうものかもしれないけれど、だけど大丈夫。
神は必ずそれを見ている。
だから、あなたの苦しみは決して無駄にはならない。
【2013.8】
おまけ
にをいがけに歩いていて、よく話をきいてくれたり、おさづけを取り次がせてもらえたり、帰りしなにお供えをいただいたり、そういう人達に、割とよくある共通点があったりします。
よくよく話をきいてみると、昔親類のどなたかが信仰していただとか、仕事の同僚や、友達、ご近所にあるいはお世話になった人に天理教の人がいただとか、そんな共通点が。
そういう話しの中に出てきた過去の信仰者の皆さんは、きっとガツガツ神様の話を伝えようと躍起になっていたわけではないだろうと想像します。
それよりも、普段の生活の何気ない人との関わりの中で、そっと蒔かれていた種があったんじゃないかと。
当の本人は意図していないけれど、まさに匂いのように自然の形で相手に蒔かれたものが、何年、何十年と時の経過の先で私が出会ったみたいに天理教の信仰に触れる布石になっていったように、私はそう感じていました。
そう思うと、些細な人との繋がりも、本当に疎かにはできないんだなぁと実感しますよね。
ここまで読んでいただきありがとうございました!
今回はちょっと取り止めがなかったかも(^_^;)
それではまた(^^)