38.ある老賢婦の態度に学んだこと
戸別訪問先で出会った、クリスチャンの老婦人におさづけを取り次がせていただいた。
取り次ぎ終わった後に、
あなたの信仰している神様の祈り方とは違いますので、さすられたりして違和感や不快感を覚えませんでしたか?
とおそるおそる訊ねると、
「いえ、そんなことはありませんでしたよ。あなたに祈ってもらったおかげで元気になれそうです」
と爽やかに答えてくれた。
そんな彼女、たとえ一期一会の出会いだったとしても、人との縁をとても大切にしているのだと言っていた。
“何か不自由されていることはありませんか?
私にお手伝いできることがあれば、させてもらいたいんです”
訪問時の私の第一声がそれだった。
まわってきてそんな風に声をかけてくれた青年(ピーナッツ)の振る舞いに感心してくださったのだと彼女は言う。
玄関先でしばらく世間話を交わしてからやがて別れる。
90歳のご高齢にはとても見えない、凛とした物腰で明るく、礼儀正しい方だった。
信じている神はお互いに異なる。
だけど、それでも人と人とは配慮さえ出来ればわかりあえる事はたくさんある筈だと思っていたし、お互いに理解し合おうとする努力は大切だと感じている。
天理教の教えは“最後(だめ)の教え”だと聞かされている。
ならば、他の宗教から学ぶべきことはないのだろうか?
……否。
自分の三倍も長く生きて来た老賢婦を目の前にし、未熟者の付け焼刃の教理をにわかに伝えようなどという気にはどうもなれず、むしろ逆に、こちらの方が信仰者然とした在り方の何たるかを学ばせていただいたような気がした。
それはやはり、言葉ではなかった。
態度。
所作。
雰囲気。
余韻。
…そういったところに時折見え隠れする、さり気ない精神性に連なる部分だった。
この先、もしも自分も年を重ね老いていく日が来るのだとしたら、かくもこう在りたいと感じた。
私が想像する“陽気ぐらし世界”とは、全人類が画一的に天理教化された世界などでは決してない。
そこには、相も変わらず多種多様な人間がひしめき合い、しかしながら穏やかに結びつこうという意識を働かせている。
そして、おぼろげながらも同じ方向を目指しつつある。
…そんな未来に垣間見れる、その日に“陽気ぐらし”があるような気がしている。
未開の領域に踏み込んで、人々を教化せしめんと駆け回る、“あらきとうりょう”だとか、“布教者”といった立場に連想しがちなそんなイメージからすれば、私が夢想することと、やろうとしていることは全く矛盾しているのかもしれない。
【2014.4】
おまけ
私がまだ直属分会の委員という役目をいただいていて、現在の大教会長さまのことをまだ若先生だとか、(分会の)委員長さんなどと呼んでいた頃のこと。
分会でなにか斬新な取り組みはできないか?
という議題で練り合いをする時があった。
その時ピーナッツは、
仏教やキリスト教といった他宗教の青年会と交流してみたいです。
全く異なる宗教の若者達からも何か学ぶことがあると思います(`・ω・´)
そう意見した。
すると、委員長さんにはあまり響いていないご様子。
「…あのなぁ、青年会長さまがそういう“他宗教から学ぶ”という意見に、どらかというとあまり積極的な態度じゃなかったっていう話を人伝えに聞いてだな…」
と委員長さん。
結局ピーナッツ案はそこであっさりたち消えてしまいました。
これは現在(2024年)から十年以上前のエピソードです。
では、その後お道はどうなっていったのか?
これを読んで下さっている方ならおそらく薄々お気づきの筈です。
時を経て、“あらきとうりょう”や“陽気”といった教内誌に、著名な仏教者やキリスト教牧師の顔が徐々に登場し始めます。
これを書いている頃の最新号の“陽気”では、養徳社社長がある仏教指導者と対談をしています。
現青年会長様は、度々キリスト教や仏教の関係者と対談したり、そんな様子をYouTubeで公開などもしたりしています。
このnoteの記事の元コラムも教祖130年祭真っただ中で書いていたことです。
多様性とかが叫ばれるようになる、コロナ禍のはるか以前の話ですよ?
……俺、感覚的にしっかり先いってたんじゃね(`・ω・´)?
30歳前後にして既にこんな風に考えていた自身の陽気ぐらし観の先見性についつい調子にのっちゃってそんなことも言いたくなります。
どうでしょうね…。
ここまで読んでいただきありがとうございました!
それではまた(^^)