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37.鏡を磨こうとしても
私が布教の家に入寮していた時のことです。
当時、同期のあるひとりの寮生の行動が、どうしても目にあまり、気になって仕方がなかったことがありました。
それは、水の使い方でした。
彼(Мさん)はとても潔癖な方で、食後の皿洗いの時、尋常じゃない量の水をじゃぶじゃぶ垂れ流し、執拗なまでに念入りに食器を洗っていました。
一台しかない寮の洗濯機の使用方法に至っては、それにも増してひとりで大量に無駄な水を浪費します。誰かが先に洗濯機を使用していると、次に使う前に、自分の洗濯物を投入せず一度空のまま洗濯器そのものを洗ってから(この時点で既に異常)、改めて自分の洗濯物を洗っていました(そこでもすすぎ洗いの際に常軌を逸した量の水を浪費します)。
私を含め、傍から見ている他の寮生は、自分達がまるで汚いもの扱いをされている気がして、正直あまりいい気持ちがしませんでした。
これに輪をかけて気に入らないのが、彼は当時同期最年長で、寮生の生活費を預かる会計役を担っていたのですが、共同生活の中で生活費を可能な限り使わないでとにかく貯めるよう、節約を他のメンバーにしつこく忠告し、過剰に干渉してくるような人でもありました。
おかげで食材の買い出しひとつ取っても小さな揉め事になったりもし、その都度寮生全員で集まって談じ合いをしなければならなくなり、とにかくそれが億劫でした。
教務支庁が負担し、自分達が直接支払いをすることのないガスや水道、電気等の使用にはやたらルーズなのに、一方で自分達が身銭を切ることになる寮生活費のことになると、1円とて計算を間違うことを許さず、とにかく自分尺度やルールをまわりのみんなに強く押し付けてくること度々だったので、いつも辟易していました。
そういうダブルスタンダードなМさんの振る舞いがどうしても許せず、かといって10歳以上も年上で、ずっと世間で仕事をしていたことから、20代そこそこだった私達をどこか経験の浅いこども扱いをし、(学歴も高かったこともあり)馬鹿にしたように意見を軽くあしらう態度に、ついにピーナッツは行動を起こします。
ある日、教務支庁の事務所に教区の書記先生や寮長・副寮長、本部派遣委員の先生が集まっていたことを知った私は、そっと彼等のもとを訪ねます。
そしてМさんのこれまでの生活全般の出来事を訴え(先生方は誰もこのことを把握していなかった。寮生の自治運営を基本としていたので、この時は悪い意味でその放任が作用し、実質Мさんの独裁状態だった)、これから一体どうすべきかを相談します。
「うーん、知らないところでそんなことになっていたのか…」と先生方。
「てっきりみんな仲良くやっているとばかり思っていたのだが…」とある先生。
そういう反応から、寮の内部事情が、育成委員の先生方にも全く伝わっていないということを思い知るピーナッツ。複雑です。布教の家とはそういうものなのでしょうか。
これで先生方がМさんに注意を促してくれるだろうと予想していた私に対し、当時本部派遣委員のおたすけの名人・大豆先生が思ってもみないことを私に忠告してきました。
ピーナッツさん。それはね、全部Мさんという鏡を通してみせてもらっている、あなたのいんねんの姿そのものなんだよ。
………え(゜o゜)?!
予想外のことを言われ、固まるピーナッツ。
大豆先生は続けて優しくお諭し下さいます。
年齢も経歴もそれまでの生活環境も全く異なるところで暮らしてきた人間が一年間、このお道のにをいがけ・おたすけに打ち込む場に寄り集って寝食を共にするのであれば、それは間違いなく神様の思惑で寄せられたいんねんの深いお互いなんだよ。
布教に専従する立場の者は、“内にたんのう・外ににをいがけ・おたすけ”の精神が肝要。内々にたんのうの機会もない、何の不満も起きて来ない楽々の生活では、仮に外に向かってのおたすけをいくら頑張っていたとしても、それではここにいる意味の半分も味わっていないことと同様なんだ。
だから、Мさんのことが気になって仕方がないのなら、それこそがピーナッツさんにとって神様が与えてくれた、たんのうの機会そのものなんだと悟ることが大切だと私は思うね。
そうやって諭され、どこか納得しきれない、釈然としない感情を抱えながらも渋々納得しようとするピーナッツ。
…わかりました。それでは、Мさんの目にあまる行いに気づいても、見て見ぬふりをするべきなんですね?
そう納得したつもりの私に、大豆先生は「そうじゃない」と重ねて諭して下さいました。
Мさんの行いの我慢ならない部分を見ないふりをするのではなく、むしろしっかり見るんだ。
見て、それを自分自身のほこりだと受け入れて、Мさんに代わって神様にお詫びするんだよ。
ピーナッツさんが本気でМさんのそういうことを“我が事”“鏡に映っている自分の姿”だと受け入れ、真にお詫びできた分だけ、いんねんも切れていく。そしてМさんもまた、そういう形でピーナッツさん成人の手伝いをしたことで、神様からお徳を頂戴できる。
それで双方たすかっていく。
“たんのう”“前生いんねんのさんげ”とはそういうことだ。
以来、ピーナッツはМさんのことで嫌な思いをする度に神様にお詫びしていきます。そうして衝突せず、自分事として受け入れていくに従ってМさんは次第に、段々いい人へと変わっていきました。
一手一つ万歳。
このお道の教えに間違いなし!(^^)!
……なんてわかりやすいオチもなく、たんのうすればするほど(神様の思いに添えていたかどうかはわかりません)、それに輪をかけて、どんどんステージの難易度が上がっていくかの如く、Мさんの無茶な横暴ぶりはエスカレートしていきました。
そんなもんで、一年間寮の内部では苦しいことだらけだったし、大豆先生のお諭しに遵じても一向に関係性が改善せぬままこの日々は終わっていきます。
いま思い出しても、本当に大変な一年だったな…。
鏡を拭いても、決して汚れが落ちることはない。
本当にキレイにするのであれば、鏡を通して自分自身を磨いていく。
頭ではわかっている。
わかっていても、これが本当に難しいんだ、なかなか。
そんな苦しかった日々が、いつかかけがえのない時間へと変わっていくことを願って。
【2014.2】
いまや40代となった現在のピーナッツとしては、あの頃の時間は本当に貴重な経験をさせてもらえたなぁとしみじみ実感しています。
Мさん以上に癖の強い人とはそれ以降ほとんど出会うこともなく、強烈ないんねん果たしの一年間を過ごさせてもらっていた気がします。
“陽気暮らし”と私達は言います。
それは字面が持つ表面的な雰囲気以上に奥が深い言葉なのかもしれません。
少なくとも、適当に譲り合って納得していないままうわべだけ仲良いように繕う、“見せかけの和合”よりも、己の汚い部分、見たくない一面と真っ向対峙する、“内的な摩擦”を繰り返したその向こうで待ってくれている世界がそうなのかもしれません。
時には、どれだけ意見を交わしても、向き合おうとしても、絶対にわかりあえない人種も存在する。
簡単に仲良くなれる。わかりあえる。それが陽気暮らしの世界だ。
…もしもそんな風に信じている人がいるのなら、残念ながら私はそうは思えていない。
実際はもっと複雑で、矛盾だらけで、得てして不条理だ。
最後の最後までわかりあえない人だって無数にいる。
だけどそれでもみんな今日を生かされている。
生きているのだから、存在する意味を神様からちゃんと与えられている。
“わかりあえない”と“陽気暮らし”は、矛盾するようで、両方同時にその場所にある。
そんな気がします。
ここまで読んでいただきありがとうございました!
それではまた(^O^)