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133.教話雑感(20)-人類の進む未来は明るい-
◆教話「人類の進む方向」
天変地変に遭いますと、一様に大自然の偉大さにうたれます。人はただ、オロオロするだけです。これは人間全体がうけるショックです。つまり、天の警告と云うことも云えると思います。
個人的に云うならば(災害に見舞われるということは)、身上(病)や事情ということと同様の意味であろうと思います。神の手引きである(陽気ぐらしへの手引き)と思います。この際、日本人は大いに、覚醒しなければならんと思います。(災害等で)犠牲になった方々は、以上も申しましたような日本人全体に対する心救けの用木として、お使いいただいた人なのだと私は悟らせていただいております。
(中略)
こういう悟り方が正しいとか、本当だとかということではなく、以上が私個人のこの世界に対する観方なのである。
この世界は、陽気ぐらしの方向に引っぱられて動いているものである、と私は思う。
たとえば、交通事故死する人は、世の人々や、社会の人々に対しての警告者ではないか。そういう意味を持っているのではないか。つまり、陽気ぐらしの方向に進む人間のために一役を果たしているのではないか。
また、ガンで出直す人にしても、あとからくる人々のためにお役にたっていると思う。
たとえば、医学の研究の上でもお役にたっていると思うし、最近ではガン患者の精神的共通点なども調査されたりして発表(研究)されたりもしている。
つまり、人間に起こりくるすべてが、陽気ぐらしの方向に進むためにお役にたっている、ということである。
どんな人も、本当にご苦労様! ということであって、無意味ではない。皆陽気ぐらし世界建設の用木なのだ。ただし、本人も周囲もそういうことに気づかないでいるということが悲しいことだ。
※文中に()を用いて一部補足説明を加えました。
雑感
身上さとし等の教理の大家・柳井徳次郎先生の著作・講演集『たすけのだい』を読んでいると、随分どぎつい言葉で身上者の心得違いを指摘していたりする。
例えば、ある身体のガンに触れ、「その内臓や部位がガンに冒されるのは、前生までに七代にわたってほこりを積み、それを果たすことなく積み重ねてきた理」といった要旨の説明がされていた。
一体、何を根拠に七代という具体的な数字を挙げられるのだろう?
書き手がその道の権威であるだけに、きっと多くの先達・布教者・教会長等がこれを参考に身上を患う人の心の入れ替えを諭していたかもしれない。
このガンに対する柳井説から思案するなら、二人にひとりがガンを患うと言われているこの現代社会は、神恩を忘れ、全体的風潮として恩報じが薄くなってしまった人々の成れの果てとも言えるのかもしれないが、ハッキリ言って悟り方がものすごく暗い。
陽気じゃないよね。
そこへ来ると、北村光先生の身上事情と社会への照らし合わせ方は、素晴らしいと称賛するしかない切り口だと思った。今回の教話にはじめて触れた時、感嘆してしまった。
おふでさき注釈においても、“かやし”という一語に、
銘々の心得違いを知らせ本来あるべき心の持ち方にしてあげたい神様からの“返報”であって、決して悪い心遣いをしたこへの復讐ではない。
…こういった意味の解釈がなされている。
つまり、どんな病気も、事情も、各当事者がそれを味わい、通って果たす中で、大局的には他の人々や社会への貢献となり、それによって全体がより良い方向に向かっていくし、そうやって陽気ぐらしの世界へと近づいていくというのが北村流の観方・悟り方だというのだ。
これは明るい!
だから、どんな病気を発症したとしても、どんな苦しみを抱えることになったとしても、決して後ろめたさを感じることはない。
まさにみんな、本当にご苦労様!
そしてありがとう! なのだ。
【2018.1】
余談
妻にはちょっとした気がかりがあった。
実家の母親の老後の心配のことだ。
今はまだ元気にしているけれど、いつかは母も年老いて、他人からの介護が必要な時期がやって来る。だけど、妻と母親の住む実家は、物理的にとても遠い。そうそう簡単に行ったり来たりできるような距離ではない。
ここが彼女の悩みだった。
そんな我々の隣に、Nさんという七十代に迫る年齢の初老の女性が住んでいる。おかげさまで近所付き合い良好で、仲良くさせてもらっている。
彼女には娘さんがいるが、ほんの少し離れているところに住んでいる関係で、咄嗟に母親の身になにかあっても、すぐに駆け付けることができないようだった。
ピーナッツ夫婦がそんな母親と仲良く、そして色々と深めに関わり合っていることを知ったその娘さんから、ある日、私達は連絡先を教えていただく。
「母にもしも急に万が一のことがあったら、真っ先にお世話になると思ったので」と彼女。
実際、昨年Nさんが入院することになった時も、郵便物の整理等を頼まれ、物騒な長期留守の間の家屋の見守りも我々夫婦はほんのりやっていた。
Nさんの娘さんからすれば、母親の家の隣に、親身なってくれる人達がいてくれていることで、安心しているのだという。
ふと私は妻に、
なんか、こうやってさ、自分の実の母親に直接してやれないことを、神様はNさんという親と年齢や家族環境が似ている人を引き寄せて、代わりの親孝行をさせてくれているんじゃないかなぁ(・ω・)?
と自身の悟りを伝える。
Nさんを親だと思って世話取りさせてもらった分だけ、まわりまわって遠くに住んでいる義母を甲斐甲斐しく見守ってくれる誰かが現れるのでは、と。
そう思うと、私達は本当に、自然の形ですべきこと、恩返し、様々な必要なことをさせてもらえるように神様が先まわりしてくれているんだなぁと、実感し、また嬉しくもなった。
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ここまで読んでいただきありがとうございました!
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