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121.教話雑感(18)-正文遺韻、一斉活動的在り方にダメ出しを予言する-
◆教話「掃除に譬えて」
神様のおはなしを人に取り次ぎ、諭しするのはその人の、胸の掃除にかかるので、日々のほこり掃除も同じ事。
掃除と言うても幾重の掃除もあろうが、荒箒(あらぼうき)持ってする掃除もあれば、みご(注 わらの外側の葉や葉鞘を取り除いた茎の部分。わらしべ)や、袖炉(注 しゅうろ 携帯用の香炉。袖香炉)の箒を持ちて、静かにする掃除もある。またその上に、雑巾かけんならん掃除もあれば、布巾かけんならん掃除もある。それ、絹布巾で水に濡らさず拭いておく、これも同じく掃除のうちや。
それ、塗り物の上等な家具へ雑巾をかけたらどうなろうか。また、台所や縁側を拭くのに絹布巾でこたえようか。よう思案してみよ。
人に諭すところも同じこと、上等の人(学識や地位身分の高い層)と、下等の人(無学、貧困層)と、同じ諭しでは聞けよまい。下等の中にも下等あり、上等の中にも上等もある。同じ悪いと言うても、その中に幾重の悪いもある。重いもあれば、軽いもある。また読み書き出来て世上の道理に明るい人もあれば、何にも知らぬ、読み書きも出来ぬという人もある。聞き分けの早いと、遅いもある。
これを一つに思うて諭していた分には、それ結構な座敷の掃除に、荒箒持って行き、床の柱や床縁へ破れ綴りの雑巾かけるような理も出るやろ。また台所へ縁側へ絹布巾かけて、とんとこたえぬと言うような理も出るやろう。
そこで若きは若きの理、年寄りは年寄りの理、学問ある者はあるよう、無きもには無きよう、その家二代三代前からいんねん・事情を聞きただし、それ相当の話せんければ、見分け聞き分けが、第一とおっしゃる。
※原文を現代読みに改め、句読点や補足説明を交えて読みやすいように編集しました。
雑感
私は、路傍講演が苦手である。
学生の頃、よふぼく会という信仰サークルで布教活動していた頃、「ピーナッツは路傍講演だけはかっこいいよね」「お前は路傍講演だけしとけばモテる」という謎の褒められ方をしていた。(実質ディスられてる…)
だけど、本当は苦手なんだ。
布教の家の寮生時代、毎日駅前で路傍講演を続け、実践を繰り返した上での結論は、「やっぱり路傍講演は性に合わない」だった。
どちらかといえば考えをよく練りに練って、洗練し、結晶化した言葉を大切にしたい性分なので、不特定多数を対象とし、声を張り上げ、ライブ感が重要な路傍講演布教は自身の得意分野にはなり得なかった。
一方、戸別訪問は得意ではないが、嫌いではなかった。行った先で不意に出会う人々との、一対一でのやりとりの方がまだ幾分性に合っているようだった。
大体にして、先ずは相手の話をよく聴かないことには浮かんでくるものもなかった。その人のルーツは、親々は、先祖は、一体どんな歴史的背景を抱えているのか、当人がどんな考え方生き方をしてきて、何を経験してきたのか。
また、いま現在はどんなことに悩み、問題に立ち向かっているのか。
人間関係でのつまずきの中にいる人に病救けの話をしても聞けるわけもない。
愚痴を言う場を持たず、吐き出したくて鬱憤しているひとに、滔々とお話を取り次いだところで、その心の器に入る余地があるわけもない。
胸を掃除し、心を澄まし、この世の真実ともいえるお話を沁み込ませるには、目の前にいる相手のことをちゃんとよく見なければならない。
掃き掃除が必要な人なのか。
それとも拭き掃除が必要な人なのか。
大掃除の必要があるのか。
毎日自分で掃除をして清潔を心がけているつもりの人の、気づかず行き届いていないすみの細かい部分に手を入れれば良いものなのか。
便器を磨く雑巾で食卓を拭いたり、食器用の布巾で風呂の浴槽を磨いたり、そんな根本的な間違いを犯しながら「私は毎日掃除をしている」等と、錯覚に陥っていないだろうか?
よくよく心してこの教話に親しむべきなのでは。
【2017.11】
余談
記事のタイトルでもばっちり触れていますが…。
皆さん、もうお気づきでしょう。
正文遺韻さん、ようぼく一斉活動日的なことをダメ出ししてますよね?
学のある人も浅い人もいるし、富裕層も中間層も貧困層もいるし、みんな違うんだから、銘々の心を磨く磨き方、掃除道具は細かく違うわけです。
ダーッと全員を乱暴に集めて、一列に並べてモップがけとかしちゃダメなんだと。
第3回のようぼく一斉活動日の集計が出て、本部の布教部から「前回よりも全体で〇〇人参加者が減少したので、もっと人集め頑張って」みたいなお達しがありました。オイオイ、見るとこはそこじゃないでしょ。
完全にようぼく一斉活動日は当初の趣旨を忘れてしまい、参加人数の多寡にフォーカスしてしまうようになってしまっています。
やっぱりさぁ、もうたくさん集めて全員一斉に教化していくのとか、もうそんなフェーズじゃないんだよ。
一人ひとり、みんな違うんだからそういう細部を丁寧にしていかなきゃ。
というわけで先生方、先ずは改訂正文遺韻を読んでみましょう。
ここまで読んでいただきありがとうございました!
それではまた(^O^)