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【2024年最新版!】アルゴリズム様のクツを舐めつつ、創作者が生き延びるには!?【YouTube攻略】

再生ボタンを押してから30秒以内。

視聴者の指は、画面をタップする準備をしている。面白くないと思われたらそこで終わり。彼らはまるで審査員だ。

優秀賞に選ばれるのは、やたら赤文字が躍る詐欺臭い動画とか、謎にバズる果物を潰すだけのスローモーションとか。最近はBlenderのクソ動画が跋扈し始めて目が腐りそうになっている。

負け犬たちにはスワイプで追放の刑。悪ければ低評価のクリスマスプレゼント。ジーザスだ。

私はいつもその評価に怯えている。動画を投稿してから視聴データが溜まるまでの数時間、結果がどう出るのか気が気でない。何百回も見直して調整したはずの編集が、アルゴリズムの前では一瞬でスワイプされてしまう。

「いくら自己満足だと言っても、誰にも見られない作品に意味はあるのか?」そんな疑問が頭をよぎる。

YouTubeもSNSも、私たちの創作を「バズるかどうか」で判断する。いくら自分が満足する作品を作っても、それが届かないなら、自己表現と呼べるのだろうか?

何より、こんなプラットフォームで創作者はどうやって生き延びるのだろうか?どうやって「再生数をお恵みいただく」のだろうか?


アルゴリズムの冷徹な支配

アルゴリズムという名の冷徹なクソボットが生物学的な脳も持たないくせに計算し、次の動画を選ぶ。私たちの創作を支配していることは、疑いようがない。視聴者が何に興味を持つかをデータで解析し、ピコピコ鳴り散らかしている。

それは、私たちの作品が「何を語りたいか」ではなく、「誰にどれだけ届くか」によって評価される世界だ。

「この動画は何を語るか?」ではなく、「どの動画が次の再生につながるか?」が唯一の基準になる。

これは劇場で観客を魅了する演劇や、教会の壁画とはまったく違う性質を持っている。

過去のプラットフォームは人間の感情や価値観を軸にしていたが、現代のアルゴリズムは、意志を持たない。
「これはいい作品だ」と感じる感情ではなく、単なるデータに基づいて冷徹に次の作品を選ぶ。

こうした状況で創作するということは、私たちの「自己表現」が数値化され、評価される仕組みに巻き込まれることを意味する。

ただ一つだけアルゴリズムに期待できることがある。もしも動画が大バズりして数字が跳ね上がれば、その瞬間だけ「ええやんこれ」と言わんばかりに、無感情に私たちを褒めてくれる。こんなに嬉しいことはない。

再生数、視聴維持率、クリック率――これらは私たちの業界で神々の名に等しい。いや、実際は神々というより、何でもお願いを聞いてくれるスナック菓子みたいな生活習慣病の邪神かも。


歴史におけるプラットフォームとの葛藤

こうした葛藤は今に始まったことではない。

創作とプラットフォームの関係は、常にその時代の制約の中で揺れ動いてきた。

古代ギリシャでは、劇作家たちは観客の心を掴むために簡潔で派手な物語を追求した。中世ヨーロッパの宗教画家たちも、教会の壁に直感的なメッセージを描いて信者の目を引いた。

どちらも「目の前にいる観客」が創作の形を決めた。観客が笑えば成功し、背を向けられれば失敗だった。それがシンプルな時代のルールだった。

だが、今、私たちの作品を裁いているのは観客ではない。アルゴリズムだ。

無機質な数字とデータが「これがいい作品だ」と冷たく判断し、次の作品を選ぶ。クリック率、視聴維持率、再生時間――創作者が注目を集めるために気にしなければならないのは、もはや人間の感情ではない。数字だ。


揺れる自己表現の選択肢

もし古代ギリシャなら、劇場の管理人を説得すれば自分の作品を舞台に載せることができたかもしれない。中世ヨーロッパなら、悪徳牧師にご機嫌を取れば教会の壁画に名前を残せたかもしれない。

だが、アルゴリズムには説得できる耳も、取り入る価値観もない。殴られて困る肉体も、掘られて喜ぶ尻の穴もだ。ただ冷たい無味乾燥なコードの羅列が、私たちの努力を積分してしまう。


「再生数」という名の餌に群がるわたしたち

たとえば私は動画を作るとき、何度も自分に問いかける。
「視聴者はどこで飽きるだろう?どのシーンでクスッと笑うだろう?」「このサムネイル、目立つだろうか?」

再生数を伸ばすには、視聴者の視線を数秒でも止めるサムネイルとタイトルが必要だ。「○○してみた!」や、画面いっぱいの赤文字。自分では「バカみたい」と思いながらも、これが正解なのかもしれないと信じて投稿する。

そして再生数が伸びるたびに、私は言い聞かせる。
「やっぱりこれでいいか」

そして次に、もう一人の私が問う。
「このクソはなんだ?」


選択肢は二つ。「アルゴリズムに適応する」か、「無視する」か。そのどちらにも満足できない現実がある。適応すれば「私らしさ」は擦り切れていき、無視すれば「そもそも存在していないも同然」になる。

じゃあどうする?何を目指す?

アルゴリズムは確かに冷たい。まるで、「お前が何を伝えたいかなんて興味ない。ただ、この数字が正義だ」とでも言わんばかりだ。熟年夫婦の夜でももう少し温かみがあるくらいだろう。

でも、考えなければいけないのは、その冷たさに「負ける」か「付き合う」かじゃない。むしろ、「冷たさにすがる」ことの怖さだ。

クリック数を見て安堵し、視聴維持率を眺めて「これでいい」と思い込む瞬間。あの甘美な数字の裏で、本当はどれだけの「私」が薄まっているか、誰も教えてくれない。

そう、それが怖い。私は、自分の作った作品を通じて「これが私だ」と叫びたかったはずなのに、気づけばその声がアルゴリズムのテンプレに埋もれていく。奥さんの言いなりになって股間の脈動を抑え続けるのは間違いなく不幸だ。


アルゴリズムとどう戦うのか?

でも、ここで一つだけ確かなことがある。アルゴリズムは敵じゃない。そして、味方でもない。アルゴリズムはただの鏡だ。

鏡――そうだ。アルゴリズムはただ私たちの行動を映し、反射しているに過ぎない。それが冷徹で無機質に見えるのは、私たち自身がその中に「自分」を映す術を見失っているからだ。

だから私は、その鏡に細工をする。

再生数を稼ぐためのテンプレートに従うフリをしながら、その裏側で「これが私だ」と叫ぶ。そう、一見すると普通の動画に見せかけて、その中に異物を埋め込むのだ。アルゴリズムにへーこらしながら、その奥で自分の種を仕込む。

それは、ほんの小さな波かもしれない。だが、小さな波が次の波を生む。誰かが気づき、誰かがその声を拾えば、その波はやがて大河をさかのぼる流れになるかもしれない。

私はアルゴリズムに逆らうんじゃない。アルゴリズムの中に潜り込んで、その力を奪い取るのだ。数字に従っているように見せかけて、数字の向こうで笑ってやる。それが私の戦い方だ。

創作が完全に自由だった時代なんて、一度もない。ギリシャ劇場も、中世の教会も、そして今のアルゴリズムも、みんな同じだ。創作者は常に制約の中で、制約そのものを乗り越える工夫をしてきた。

私はその工夫を続ける。見せかけのタイトルの裏に、真実の言葉を仕込む。分かりやすいサムネイルの先に、自分の魂を忍ばせる。その矛盾に満ちた行為が、私の自己表現だ。

問い続けるのが私の生き方であり、問いを諦めることが私の終わりだ。「次はどんな異物を仕込む?」「どうすればもっと揺らせる?」「何をすれば視聴者の脳にこのセンスをブチ込める?」

問いが尽きない限り、私は消えない。絶対に消えてやらない。むしろその問いの中にこそ、私がいる。それが、私の挑戦。

これが私の「アルゴリズム様のクツを舐めつつ、創作者が生き延びるには」の答えだ。

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