智慧を授ける 文殊菩薩
リーディングマスター・まさみちです。人の心身は感知センサーそのもので、様々な想念を拾っては、雑念や思考に埋没するものです。それでもプラス思考や、ポジティブ状態を意識することで、状況や発想などは随分と変わるものです。つい陥りがちな、思考の罠にハマることなく、意識を高めて発想を変えていけるようにと、仏性への道のりを記事に書いております。(85/88)
智慧(ちえ)の仏として有名らしい文殊菩薩(もんじゅぼさつ)について、紐解いていきたいと思います。
「三人寄れば文殊の智慧」というものです。
この三人も、普通に三人集まるものではなく、①「何も根拠も示せなくても状況を打破する閃きをもたらす人」と、②「一切の譲るような妥協することのない極みを目指す道だけ“GOサイン”を出す人」と、③「持ちうる最高のレベルの人なら、この劣悪な状況を抜け出す妙案を思いつく人」とが、集まれば、それは『真理からもたらされた智慧』と表現して良いものです。
知恵ではなく、智慧(ちえ)です。
知恵とは、「経験と研究により積み重ねられた実績に裏付けられた最も正しい情報の集積のこと」を指します。
智慧とは、「自然状態に在りながら、物事の問題解決に向けての問いに対し、答えが与えられる反射反応があり、それを極めていくと到達できる世界観のこと」です。
ですから、三人を集めるにしても、自分の中の三つの仏性を三つ集める検証作業が思考力として必要なことを告げるものです。
三権分立ではないけれど、①立法、②司法、③行政というイメージです。
心の中にも、①立法、②司法、③行政のような働きがあるのです。
①立法として「どんな自分なら好きに生きられるか?」と想像することが大切です。
②司法として、「現実がうまく行っているのかどうか? 裁いてしまいたくなるものか? 自分同士で意見が対立するなら、①立法と関わり、ルール改正しないと現状が変わらないものとした判断が下せることです。
③行政は、「今が最高のパフォーマンスが発揮出来ているのか?」と、出来る限り質のよいサービスを提供し、仕組みを改善することです。①立法と合わせれば、改革も出来ますし、②司法と協力できれば、よりスピーディーに問題解決への取り組みが加速できるというものです。
①②③三権分立しつつも、癒着とかではない独立しながら、息の合う判断が下せるなら、それはとても良質な智慧(ちえ)をもたらしてくれるものということです。
三人集まれば、文殊の智慧も、三方向に向けての仏性が揃い踏みしている状態のことを指すので、この言葉は、坊主など修行する者が、文殊菩薩を機能させていないときに指摘する言葉だったのでは? と読み取れます。
平たい話、「梵天の発想が欠落しているよ」という指摘です。
文殊は略称であり、「文殊師利(もんじゅしり)」といいます。
文殊師利(もんじゅしり)とは、「解釈や価値観は、どれだけ同じ学び方をしても、人の数と、人と人との相対的に湧き上がる関係性において、幾らでも変容するものだと心得ているものであり、同じ状況下においても同じ立場にはなり得ないことを示し、真理を通した受け答え以外に道はないとわかるもの」とした仏性を指します。
写真から得られる文殊菩薩は剣を持ち格好良い姿であり、獅子に乗っています。
この獅子とは、「指示には絶対服従するもので、文殊菩薩の言うことを何でも「はい」と承諾してどこにでも連れて行ってくれる存在のこと」です。「劣悪な命令にも従い、俊敏に熟(こな)し、賞賛に値する活躍を見せてくれるものだけれども、唯一、文殊菩薩が文殊菩薩自身を見失ったときは、命令に背いて文殊菩薩の救済にひたむきに走り回る存在のこと」です。
この獅子は、自身の身体とも言えますし、霊的な仏性以外の自我で形成されている心のことでもあります。
状況が差し迫っていない通常の状態で、「他人の不始末を片付けさせられる」ことは、多くの人は「嫌だなぁ、可能であるなら避けたい」と願うものですが、この獅子は「喜んで片付けます」と、命令に従うのです。どこまでもテキパキと命じられれば、その通りに動くのです。それもいつも期待以上の結果をもたらしてくれる為にしてくれます。
これは、人間関係の上下関係にも相似するものです。
上司に服従、先輩に服従とした発想です。
しかし、現代では、服従という言葉を以下のように捉えている可能性が高く、仏性が示す智慧(ちえ)のそれとは違うのです。誤用と智慧を並べて紹介します。
服従の意味・定義(誤用)とは、「人を人だと思わず、隷属的に命じたことを「はい」と逆らうことなく受け入れ、虐待や暴力に耐え、不当に労働賃金など搾取され、健康が損なわれる作業だとしても働かされ、動けなくなるまでこき使われる状態のこと」を示します。
服従の意味・定義(智慧)とは、「人と人とは繋がり合う関係性にあると解っているもので、立場や関係性における優劣があるにしても互いに尊敬し合うもので、そこからもたらされる情報を重要なものとして信頼して扱い合う関係にあるもの。どちらを犠牲にしても互いが滅びることを知っており、個人も全員もどちらも欠くことの出来ない大切なものだと解り合っていて、知恵の共有が個と全を一つに繋ぐ重要なものとなる。相対的に繋がり合う関係性は不自由なものでありつつも、信頼し合える関係である以上、役割分担や作業分担が徹底され、双方の互いを思いやる気持ちのことを表しており、どこまででも相手に尽くせるとすると、それに呼応するように応えてくれる関係のことであり、掛け値無く“嬉しいこと”をする為に、“笑顔で溢れさせる”為に、あらゆる苦難や問題は、解決していけば済むことだと解っており、それは全員が相対的に命じられるままに動ける息が合った関係のこと」を示します。
このように智慧(ちえ)という、真理に基づいた情報を拾い出すと、誤用と比較しても、全く意味合いが変わります。
脚本などで、悪党や、悪人など,性根が歪んでいる人は「誤用の服従を使い」、聖者や、善人など、純粋な真心に従える人は「智慧の服従を示す」ものだとわかるでしょうか?
同じ「服従」でも低品質のものと、高品質のものがあるという概念があると、考えて欲しいのです。質によって、単語の意味合いが変わるのです。これは、文章など前後にある文章によって、内容中身の意味合いが変わりますが、単語一つ一つの意味の全てを、低品質と高品質の両方を掌握していると、「とても賢い」となるのです。
この「とても賢い」という状態を「既に私は全てのことが解る筈なんだ!」と自己受容している仏性を文殊菩薩というのです。
文殊菩薩は、未知なる自分との対話になります。
普賢菩薩(ふげんぼさつ)は、過去の自分との対話ですが、こちらは「どうして解っている筈なのに、諦めているの?」とした、問いかけの向きが違うのです。
つまりは、普賢菩薩(ふげんぼさつ)は、誤用するに到った理由を探す仏性であり、文殊菩薩(もんじゅぼさつ)は、智慧を閃き降ろさせて、真理からの情報を得る仏性なのです。
文殊菩薩(もんじゅぼさつ)が、正しく智慧を閃き降ろしている状態なら、下の獅子もとても良く働き動くのです。
誰に対しても喜べる閃きを獅子にもたらす存在が、文殊菩薩なのです。
愛してくれる人に、尽くせる喜びをイメージしてみてください。
その愛してくれる人が瀕死の重傷など、身動きが取れないなら、身の回りのことや、頼まれごとなど、なんでもしてあげることで楽になって欲しいと願うものです。
ただの頭脳だけ動かせる存在になっても、その意識で対話出来るところがあるのです。人は自分の事を解ってもらえると、この上なく喜ぶものです。
文殊菩薩(もんじゅぼさつ)の小間使いとして、自分が自分の世話を焼くことに手間暇かけまくる発想があり、疑わしい疑問符については、徹底的に問いただしていくことです。疑問が人を成長させていきます。
ワークを教えます。
文殊菩薩(もんじゅぼさつ)の下の獅子に成りきります。背に乗る文殊観音から「100km先まで、徒歩で使いに行ってきなさい」と命令されます。その時、どのような「リアクション、感覚的情報、思慮深さ、真剣さ、抗議の内容」が示せるかが重要な部分になります。
「100km先まで、徒歩で使いに行ってきなさい」と命令されたとき、背に乗る文殊菩薩とも一緒になり、有無を言わさず歩き始めてください。命令を脳内で繰り返すほどに、「なんで〜」とか、「いやだ〜!」など、否定すれば問題が解決できると思い込む人たちが多く居ます。この命令を受けたとき自分なら、どんな抵抗感が浮上するのか、最後まで聞き入れてください(命令は文殊菩薩という智慧をもたらす存在なので100%自分の利になることしか示さず、否定する自分の自我こそ自分に100%不利になる人生を歩ませている張本人だとしてください)。
他にも「家事全部やりなさい、返事は「はい」だけで応えて」と問われると、自分の邪鬼や、悪鬼などはどのような暴言を脳内で思いつくのか、最後まで言わせてみることです。
「あなたのことを愛しています」と、文殊菩薩が獅子の自分に向けて、投げかけられると、どのようなリアクションが浮かぶか、見てみることです。
服従したくないような、内容を問いかけてみると、知らない自分の心と対話出来ると思います。
ワークは、獅子が自発的な服従であることが大切です。
特に、未知なる可能性をイメージする能力は、日本人は欠けまくっているものなので、文殊菩薩と繋がり、仏と対話出来るようになると、様々な分野で活用出来るものです。
使いこなしてください。
智慧は、いつでももたらされていると信じられた時、自身の仏性の何かがわかり、笑います。
いかがでしたでしょうか?
では、また。
リーディングマスター・まさみち。