心眼の力 薩遮摩和羅像㉗
リーディングマスター・まさみちです。物事をよくよく観察してみると解らなかったものでも、解るようになります。しかし、観察している眼が幻覚作用に陥っているとしたら? どうやったらそれから覚めることが出来るかを日夜研究して、心理カウンセリングの技術を磨いています。(67/88)
第六チャクラに相当するパートですから、心眼や第三の目と呼ばれる能力が秘められているところです。
五蘊(ごうん)は、「色・受想行識」に表されているものの、その行動規範の多くは「識(記憶)」に縛られるものです。
この記憶をどのように意識するかの「識」の使い方が、密教ではより詳しく伝えられているものの筈です。独自研究で「十識」の使い方が解るようになり、観察し洞察することで、自分が何かに錯覚していて幻覚作用の中に埋没しているのを見抜いては解き明かすことの繰り返しをしてきました。
現代において、霊的資質について言及しようとすると「怪しさ」が先に立つこともあり、何かあれば「宗教? 詐欺?」と煙たがられるものです。
第六チャクラにおいての心眼が哀しみに曇っているとするなら、「⑥怠惰(行)」や「⑬自失(想)」や「⑳誤解(受)」となり、それを支える記憶においては「㉗監禁(識)」があると認められるものです。
人の霊性や感性の鋭さや勘の良さが消失している理由は、転生の果てにそれらの力が「幽閉され(受)なければならない理由」があり、「争いの火種となり不遇の身に追い詰められた(想)感情的な背景」があり、「封印され(行)てきた意図」があり、「何があっても世の中に出してはならないと監禁(識)し続けた記憶」の数々が、今世の力の喪失に繋がっているのです。
「霊感ないな」
と、諦めなければならないのは、「それがあった為に、辛く哀しい目に遭い、どうすることも出来ない空白の状態」に思えてならず、何も書き込めないし、気力を湧き上がらないような現実しか感じられないこともあるのです。
阿吽の呼吸で捉えるにしても「⑬自失(想)」となる、喪失した感情に支配されている状態で能動的な呼びかけは難しいものです。それに呼応するにも「⑳誤解(受)」して応じてしまうため、言うに云えない側と、どうしても地雷を踏んでしまう側とのやり取りが成立する筈もありません。
それの二人を見ている側からしても「⑥怠惰(行)」として、喪失感に暮れた側と、誤解して地雷ばかり踏む側を見て、「何をどうすればいい? どう動き出す可能性があるの?」とばかりに、意欲が消え去り無気力に流されるものです。
どれも「㉗監禁(識)」の中に閉じ込められている記憶があり、何をするにもデーターベースとなる記憶にアクセスしても、情報がもたらされないので「動けない現実」を生み出して、周りの人たちに怒られたり、嫌われたりするのです。
「暗いねぇ」
と、見たまま表現され、「明るくなろうよ」と呼びかけられても「⑳誤解(受)」する能力しか育てられていない状態において「(笑いものにされている気がする)・・・(無言)」と、返事も出来ないと最後には諦められてしまうのです。
「自ら、行動を移すしかない!!」
そのように呼びかけられても、「⑥怠惰(行)」に苦しむ人にとって、一切の力を「⑬自身喪失を重ねる(想)」ことをしてしまい、「⑳誤解して自縛する(受)」といった解釈を持ってしまうのです。
「私なんかがいたら迷惑だよね」などと、マイナス発想から抜け出せないし、少しだけ抜け出しても、根源的な記憶が治らない限り改善出来ない問題もあります。
⑥伊鉢羅「怠惰(行)」
⑬金比羅「自失(想)」
⑳毘沙門「誤解(受)」
仏の対話において、「識」にアプローチ出来るか、出来ないかが分かれ目であります。
意識なども記憶の一つであり、「壁の向こう側を意識して気配を感じてみる」などの「意識」は、日常でも使われているもので、特別に珍しいものでもありません。
これが「眼識(げんしき)」「耳識(じしき)」「鼻識(びしき)」「舌識(ぜっしき)」「身識(みしき)」「意識(いしき)」「末那識(まなしき)」「阿頼耶識(あらやしき)」「阿摩羅識(あまらしき)」「乾栗陀耶識(けんりつだやしき)」という十通りの「識」の使い方があり、総称して全部「意識」に分類されているのが世間の解釈です。
意識を細分化すると十通りに分けられるというだけです。
「身体を動かして!」
という指示がある場合、「手の指を動かす」ことも「身体を動かした」ことになるほど、「意識」とは全体像を指して使われているものです。
過去世が解る人は「末那識(まなしき)」や「阿頼耶識(あらやしき)」などを意識出来るもので、誰でも持っているものであり使えるものですが、使ったことが無い人にとっては使い方も解らないのは当然のことです。
足があっても拘束されて、動かしたことがない人に、足の拘束を解いたから「歩けるだろう?」と言われても、無理なことがイメージ出来るなら、過去世を見るとか読み解くなども、「まずはリハビリから」という感覚になるものです。
オーラなども同じようなものです。大体は「耳識(じしき)」や「舌識(ぜっしき)」で捉えるものであり、「鼻識(びしき)」で嗅ぎ分ける人もいます。色々と総合の力で紐解く人もいますので、どれを使って見ているのか? というのも「全部使っている」というイメージです。
ただ、それを細分化するような意識の使い分けが出来た方が、「器用」というものです。
ただ、こうした力は、「隠蔽している人(受)」「嘘をつく人(想)」「想いと行動が一致しない人(行)」「バレなければ何してもいいと開き直る人(識)」にとっては、とても邪魔な存在である為、力づくで排除されることが多いものです。
それ故に、排除され、「幽閉」「拘束」「封印」「監禁」されてしまっては、社会から抹殺されて来た経緯も多いものです。
何でも見抜いてしまう目は「鬼や悪魔を飼い慣らす心にとって恐れられ」てしまうのです。平和や芸術を好む人には無害でも、策略や権力など利益に絡むことなど我欲を重視している人には忌々しい存在になるのです。
霊的資質など関係なく、「自然を破壊するな(受)」「自然は刻一刻と変化するから自然の摂理に従おう(想)」「自然と共に生きなければならず我欲で穢してはならない(行)」「自然から離れて暮らしてはいけない(識)」と訴えるだけで、都市開発や、農作物の為に開墾することだけでも、人の心を封じ込めて閉ざすに充分な体験であるのです。
当たり前に受けている文明の利器の恩恵は、自然の破壊と、人が持つ霊性の喪失によって支えられているとしたら? 何をどうすればいいのか見えなくなってしまうものです。
文明の利器の恩恵を授かりながら、霊性を取り戻すには矛盾を乗り越えて行く必要があります。
この我欲と、自然との調和が矛盾しながら、矛盾してよいものだと理解出来ると、霊性の回復がもたらされることがあるかも知れません。
薩遮摩和羅像(さしゃまわらぞう)㉗
「人は正しいことには従わず、気持ちいいことに従うもの」です。
それを別の表現にするなら、「人は不快から離れようとし、快適に近づこうとするもの」です。
胸の気持ちにおいて「気持ちいい(想)」と、思い立つものであるなら、動き出す可能性があります。
よく、「ワクワクを選ぼう!」と、呼びかけるスローガンを見かけるものですが、この心には「⑬自身喪失感(想)」で満たされているため、「ビクビクするしかない」という感覚です。
「ビクビクさがあれば充分、それをワクワクに変えられる世界があるから、ビクビクから動き出していこう!」と、呼びかけるスローガンに変えれば、どんなに引きこもっていても可能性を感じられるように変わります。
心は今の時点で既に「㉗監禁(識)」されていて、「見ようとしない(想)」し、「見せられたくもない(受)」し、「見たとしても見なかったこと(行)」にしてでも、目に飛び込んでくる情報を全てシャットアウトしている場合があります。
可能であるなら初めから「見ない(識)」という人生を歩いて行きたいのが「㉗監禁(識)」である為、アプローチする方法が存在していないくらいに思ってよいものです。
見えないものや、霊的資質の開眼を望み、修練に励む人でも無意識に「本物や神髄」を避ける力が働いている事実は見つけ出せないのです。
「木を隠すには森の中」というように、「霊的資質の開眼を防ぐには、霊的資質の開眼塾の中で学ばせる(真言密教徒になるなど)」ことがあるのです。
自分を欺く無意識は恐ろしいものです。
対決しなければならないのはいつも自分となります。
目標は「無」や「空」である「無を行為してしまう」という問題をクリアするのは至難の業であり、地位や立場が上下関係性が出来てしまうと、歪みを正せないまま成長してしまい、妥協したり、諦めたりしてしまう世界に墜ちていきます。
薩遮摩和羅像(さしゃまわらぞう)は、「自分に言い訳する姿を見守る仏」です。
問題に対して、後ろ向きの発想や解釈に明け暮れている自分を、自分で叱責したり、励ましたりしている姿を見ている存在が薩遮摩和羅像(さしゃまわらぞう)です。
自分で自分を叱責する心や、励ましている心や、慎重論を捉えて吟味しろとアドバイスしている心や、注意喚起して騙されないように様子を見なさいと指示する心のどれもが「邪鬼」であったり、「悪魔」であったりと、現実に置かれた状況と内心でのやり取りに対して冷静さを失わずにツッコミを入れられる存在が薩遮摩和羅(さしゃまわら)なのです。
邪鬼は、慎重論が好きです。
悪魔は、注意喚起が好きです。
悪鬼は、擁護し援護するのが好きです。
邪悪は、仕返しや企てが好きです。
これらに乗っ取られると、「相手の腹黒さを霊視したつもり」になり、被害妄想に明け暮れ、自分の理論に埋没してしまい、誤解による身勝手な行動をしては自滅することがあります。
この霊視したつもりで、自分は開眼したと思い込んでいる場合、表現に悪意や、敵意などが含まれたり、批判や中傷する内容が込められていることに、表現している自身が気づかないままでいると、信用を失うものです。
もっとも、霊視などせずとも他者に対する批判や、攻撃的な内容など、否定理論を支えに肯定理論を展開する場合、「愛が不在」である事実は、どのジャンルにおいても同じ事が言える問題です。
みんながみんな盲目になっているのです。
心眼が開眼した力を持つならば、アドバイスではなく解決して救い出してしまいます。
開眼しているならば、脳内の雑念など、騒がしい言葉の数々を放置せずに「止滅させる」ものです。
諭すものではなく、救い上げてしまうものだとわかるようになると、自身の関わりが霊的資質において、どの程度なのか測り、自己研鑽が出来るようになるものです。
心の意識が「㉗監禁の雑念がある」なら、閉じ込められた経緯があり「今を生きている」事実があるのですから、その雑念を辿ると監禁された記憶にアプローチすることが可能であると信じられる人は「薩遮摩和羅(さしゃまわら)」を通じて、原因となった体験を思い返すことが出来ます。
傷ついた体験により自我の雑念が生じるならば、その雑念を辿れば傷ついた体験に戻り、何があったかを全て説明してくれるものです。それを信頼すれば「薩遮摩和羅(さしゃまわら)」との問答の最中で答えに辿り着けるものです。
気づきを得られれば、「⑳誤解(受)」が解かれ、「⑬自失(想)」する必要が無いとわかり立ち直り、「⑥怠惰(行)」と意欲が湧き上がるようになり動き出せるものです。
「㉗監禁(識)」は、あらゆる可能性や目的意欲を消し去るほど強烈なものです。
思考そのものが欠落するような問題です。
もっとも大変な事態は「気づかないこと」です。
そもそもが始まらないことには、何も終わらせられないのです。
「変だな?」という感覚が得られるかどうかにあります。
それには、自分に向ける「愛情」や「大切にしよう」という感覚が必要です。これは裏を返せば、他人に向ける攻撃的な不信感や、投げやりとなっている感覚などが感じられるなら「充分に自分を大事にする感覚がある」と認識していただいてもよいものです。
「不信感」や「あいつ終わったな」などの「批判感」や「軽蔑感」などは、「大切な人から大切に扱われなかった希望の喪失」などが想像出来てしまうため、元々は大事にする感覚があったのです。これが「自分を大事にしよう」とする定義であるなら、「悪口」でも「文句」でも「憤慨」であっても「誹謗中傷」しかしない人でも、「思いやり溢れる愛の人と認定出来る」理屈がわかるでしょうか?
何度でも読み返してください。
人を批難している事実は、その裏に「批難するしかなかった哀しみ」が隠れており、その「哀しみの前には愛おしさを知っている」故に「哀しみに到った経緯がある」だけですから、その哀しみを取り除けば批判もなくなるし愛の人だと思い出せることになる為、「思いやり溢れる愛の人と認定出来てしまう」のです。
傷ついている人は、元々愛の人なのです。
全ての人が愛の人として認識出来る解釈は「無条件の愛」さえ心得ていれば現実の酷い姿は、「愛を見失っている誤解まみれの怠惰な人で、哀しみの中に監禁されている気の毒な人でもある」と表現出来てしまうのです。
こうした事実が判明するなら、世界中の誰もが「哀しみに監禁された孤独の人」でしかなくなってしまいます。
監禁されているのですから、真心から訴える『愛して欲しい叫び』は誰にも届きません。
見失ってしまった喪失感で溺れている自分を見失っている自分も哀しみに監禁されているのですから、真心から謝罪している『ごめんなさい』が愛する人に届きません。
愛する力を振り絞って精一杯に立ち直ろうとしても、「哀しみの世界に監禁されていて、全ての愛の力が哀しみの中に吸収されてしまう」為に、力が抜けて抜けて、「怠惰」になるしか無く、真心から奮起しようとしても『なんだその態度は』と、認めてもらえないのです。
普通は約束されている父や母の愛が、ここにだけ不在になるのです。
家族の愛があるはずなのに、自分にだけはそれが向けられないのです。
どれだけ精一杯に意識しても『真心が監禁』されたままでは、全てが『誤解』される現実しかなく、言葉が届かないのです。想いが伝わらないのです。精一杯やっていても、形にならないのです。
何故なら、『監禁』しているのが、目の前に居る母や父や、家族であるとしたら、どうやったら、抜け出せるのかわかるでしょうか? 形だけは愛している姿を見せてくれていても、どれだけ関わっても「監禁されている心は哀しみしか感じない」ものです。何にもならないのです。
誰かを頼り、全面的にその人に、その仏に委ねてしまえたとき「監禁」から抜け出せる道が開かれます。
ワークを教えます。
4mほどある大きさの薩遮摩和羅(さしゃまわら)をイメージし、「行動出来ない言い訳(怠惰について)を公の場で発表するように訴えなさい」と突きつけられたら、何を思いつくか、吐き出してみてください。情けなくても、みっともなくても、最後まで言い訳を突き通させてください。同じ言葉を繰り返さないように注意して、絞り出すように言い訳させてください。この時感情が解放されることもあるので、「泣いてよい姿勢」でいることです。「泣きたくない姿勢」では、溜め込まれた感情が出にくい為です。それはとてもしんどいので、抑圧している感情は出せるようにしてください。
人はマイナスの感情を嫌がります。溜め込むほどに膨大になり、泣くに泣けなくなるものです。「哀しみを監禁する」ようになると、哀しみの分量が膨大に蓄積されると、その哀しみの多さに「誤解するような解釈をやり取りする」ようになり、その関係から失態を続けてしまうものです。結果的に何も出来ないと嘆き「自信喪失状態に陥る」為、何をしても駄目になります。それならば最初からやる気など持たないことの方がみんなの為、自分の為と「怠惰になり、することがないから哀しみを監禁する監視をする」ようになり、ゲームやマンガなど哀しみから目を逸らすことが出来ることに専念しては、本当にやらなければならない勉強などからは怠惰を貫き通すものでもあるのです。
助けてあげてください。
自分であることもあれば、家族であることもあります。
隣に居る自分が役に立つ薩遮摩和羅(さしゃまわら)と同じように働きかけてあげられるかです。
薩遮摩和羅(さしゃまわら)の意味は、薩(さ)とは、「哀しみに負けることなく、知恵に従い自分の弱さを許すこと」とした意味があります。
遮(しゃ)とは、「誰もが同じようにしているから、自分もして良いとは限らないと全ての解釈を改め直す意思をもつこと」とした意味があります。
摩(ま)とは、「経験が多い人ほど正しい解釈を持つものと認識するものの、相手の伝えようとしている思いまでも正しく受け取れているかは別物だと心得、誤解が生じないように、真意を確かめてコミュニケーションを図るもの」とした意味があります。
和(わ)とは、「温かな空間や、人々の関係性が良好であると感じるほどに、自己犠牲を自らに強いることで平和を保とうとする傲慢な考えがあること」とした意味があります。
羅(ら)とは、「平和の為なら、自分さえ黙っていれば、あの人さえ秘密を漏らさずに隠し通してくれていたらと願う心が、問題を引き起こし、輪廻を生み出し、二度と出られない無限ループに陥るもののこと」とした意味があります。
薩遮摩和羅(さしゃまわら)とは、「自分の心の声を真心に従うのか、エゴに従うのかを検証し、対話し、エゴがどんな考えを持っているのか現場の感覚を知る存在であり、どんな中からでも再起出来る道を共に探そうとしてくれる仏性のこと」とした意味があります。
物理的な行動は「怠惰」に呑まれてしまうとしても、「意識」における制限などかけられないものです。寝たきりでも「意識」は働かせられるものです。
自分の無意識を意識化することで、心の探究はどこまででも出来るものです。
自分の哀しみを見つめて、そっとしている自分という薩遮摩和羅(さしゃまわら)の存在に気づいてください。自分が突っ込めば全てが改善していくものです。
そして、改善されたとき、意識を行動することも、身体を行動させることもどちらも等しく重要であることがわかる筈です。
意識してみてください。
全ての事柄が解るようになります。
既に「孤独ではない」と、自らの中に寂しさが消失していることに気づけるでしょうか? 愛されていると解れば、認知しなくても認識されて心は解放されているものです。
人は解り合えるのです。
わかり合えた人は優しいのです。
それはあなたと等しく、優しいのです。
「愛して欲しい」が消え去り、既に「哀の中にいた」と感じてください。
愛のある世界には、哀しみは存続出来ないものでした。
自我に別れを告げました。
ありがとう。
ここからが愛の世界です。
いかがでしたでしょうか?
では、また。
リーディングマスター・まさみち。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?