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十二神将を考察する②伐折羅(ばさら)

リーディングマスター・まさみちです。普段はカウンセリングをしており、潜在意識や超意識にアクセスして、難解な心の問題などを紐解いております。見えないものでも、識別出来るので「見えているけど識別しにくいもの」くらいに解釈していただけると有り難いです。(3/88)

八十八カ所巡礼の旅に出かけたところ、薬師如来の十二神将と出会うことがあり、興味関心を抱いたので、リーディングして紐解くと、何が読み解けるかを紹介しています。

薬師如来は、病気治癒(特に目病)、健康長寿、災難除去、安産祈願、現世利益などで知られている如来です。

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福岡市美術館のHPより転載です。

リーディングマスターとして、薬師如来が伝えることを降ろしてくると「自分が自分に対して胸を張れる生き様を見せていますか?」と、呼びかけては気づきの切っ掛けを与えてくれているようです。

仏像は様々な解釈をもたらすものなので、「これ」という決まりはないとも言えます。自分の感じたままに受け取って欲しいものですが、コツ勘みたいなものがあるので、それを紹介しています。

二回目は、伐折羅大将(ばさらたいしょう)です。

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ググって調べてみても、よくわからない感じです。金剛とか忿怒の形相が特徴的とか、大した意味が書いてない。伐折羅(ばさら)以外にも、伐沙羅(ばさら)・跋折羅(ばさら)・跛折羅(ばさら)・伐闍羅(ばさら)の表記や、縛日羅(ばさら)・和耆羅(ばさら)の呼び方もあるそうな。同じ呼び方でも漢字の当て方が違うようです。奇をてらい華美をつくす振る舞いや派手な姿をする伊達者も「婆娑羅(ばさら)・婆沙羅(ばさら)・婆佐羅(ばさら)」などと表現していたようです。

十二神将は、個別では大将と表現しているようですが、夜叉や神明という表現もあるようです。

夜叉とは、自分の言い分が絶対的に正しいと譲らないエゴエゴな姿。

神明とは、見識豊かで、道理をわきまえ、知らないことを知っていて、愛を持って理解出来る目覚めた姿。

この夜叉と神明の両方の姿を兼ね備えているものを大将と表現しており、夜叉から神明に到らせる力を持つ者のことを神将とも表現しているようです。

伐折羅大将(ばさらたいしょう)は、自分の絶対的価値基準を人に押しつけて、力づくで捻じ伏せようとするところがあり、権力や立場を命ぜられると、その力や、役割に乗じて高圧的な態度に出て、他者をひれ伏せさせようとして問題を解決しているかのように見せかけたい心の姿です。

伐沙羅大将(ばさらたいしょう)は、夫や親の権力を当てにして、擁護されることを知っているが故に、過剰な自信を示すようになり、全てを思いのままに操ることが役割だと錯覚し、逆らう者たちを力づくで捻じ伏せて問題を解決したかのように見せかけたい心の姿です。

跋折羅大将(ばさらたいしょう)は、時の権力者にへりくだり、媚びへつらい、権力者の横暴を諫めずに加担し、権力のおこぼれ目当てに悪事も辞さず、事が明るみになると、権力者に征服されていたと被害者を装い延命しては権力者の鞍替えをしては問題を解決したかのように見せかけたい心の姿です。

跛折羅大将(ばさらたいしょう)は、自分がなく、時流に任せ、大衆が賛同することに賛同し、大衆が非難するなら共に非難し、常に責任逃れできるよう振る舞うことで問題を解決したかのように見せかける心の姿です。

伐闍羅大将(ばさらたいしょう)は、人前に見せる姿と、個人的に見せる姿が違うもので、表向きは優しさを装い、裏でいじめ抜くような脅しや暴力などで相手を征服し、世間や親に知られては困るようなことを弱みとして掴み、取り引きしては逆らえない弱者から利益を搾取し、法に引っかからなければ何をしてもいいと開き直ることで問題を解決したかのように見せかける心の姿です。

縛日羅大将(ばさらたいしょう)は、全てを規則で縛り上げ、どこからも付け入る隙を与えず完璧に振る舞い、秩序の為なら裁きも、許しも、規則に従うことで自発生はなく、客観的な基準こそが絶対的正義として扱えば問題は解決したかのように見せかける心の姿です。

和耆羅大将(ばさらたいしょう)は、事なかれ主義のことで、問題を大きくしないうちに、手打ちにすることで解決したかのように見せかけ、変化を嫌い、改善するなら関係者の了解を取り付けてからでないと動き出せず、みんなで決めたことなら絶対安心だと問題が解決したかのように見せかける心の姿です。

婆娑羅(ばさら)は、全てを諦めの境地で捉えており、死ぬ為に人生があると開き直り、好きに生きることこそが問題を解決すると決めつけた心の姿です。

婆沙羅(ばさら)は、自分の為に生きるのを止め、好きなことの為なら法を無視しようが、何しようが構わず、好きな人からの静止も聞かず、自分の信念だけに従うことだけが問題を解決する唯一の道とした心の姿です。

婆佐羅(ばさら)は、自分の幸せより、大切な人の幸せを案じ、大切な人に干渉する事だけが生き甲斐となり、大切な人からの提案や静止も聞かず、自分勝手に振る舞い、自分の理屈に従わせることだけが問題を解決する絶対の道だとした心の姿です。

の字は、集合意識における無限ループくらいに捉えておいてください。毘羯羅(びぎゃら)の羅とは少し意味が変わります。

集合意識が強く働く為、本人の意思よりも、集合意識の意思の力で操られてしまうところがあり、全体性の問題とも言えます。漢字の違いごとに解説をつけましたが、これが重複して持ち合わせている心もあり、手がつけられない程の我がままな存在に育つこともあります。

苦労を知らない権力者ほど、たちの悪いものはないというイメージですかね。

こうした二世問題など、親が子に苦労させないようにした結果、ハマるような問題が伐折羅大将(ばさらたいしょう)として認識出来るものです。無限ループですから、普通に話をして聞き入れてくれる問題ではなく、親も手を焼いてしまい、薬師如来にすがるしかない問題なのです。

悟りを開いた薬師如来の導きを受けている「自分自身が、関わる者の無限ループのエゴから脱する為の知恵を授かる妙法がある」として、伐折羅大将(ばさらたいしょう)を通して薬師如来に祈って、気づきを授かるものなのです。

自分が薬師如来化するくらいのイメージ力が大切なんですよね。(明王、菩薩、如来というレベルに応じた気づきの起こし方というのもあります)

伐折羅大将(ばさらたいしょう)に対して、四体の薬師如来で取り囲むようにイメージしつつ、「自分(相手)の価値基準を他人に押しつけること」と「悟りを開き、弱い者の胸中の痛みを知る自分と、弱き者から強き者へと導かれると信じること」とを重ね合わせた時、気づきの対話が出来るシステムが起動して、治る導きが始まるものだとイメージしておいてください。

ざっくり過ぎるほど、ざっくりと紹介しました。

ポイントは、夜叉に墜ちている伐折羅(ばさら)というエゴエゴの塊の自分(相手)と共感し、伐折羅(ばさら)という神明に目覚めて自分でない仏そのものになっている自分と共感しているかのように設定して、それを薬師如来がサポートしてくれて気づきを促してくれるやり取りがあるイメージをするってことです。

事例として紹介すると、以下のようなやり取りが出てくるものです。

伐折羅夜叉「私は悪くない」←よく頭に浮かぶ雑念
薬師如来「『私が悪い』と言ってみてください」

伐折羅夜叉「嫌だ」
薬師如来「嫌な理由を聞かせてください」

伐折羅夜叉「処罰されるに決まっている」
薬師如来「どんな処罰を受けたことがあるのですか?」

伐折羅夜叉「恥をさらされて住めなくなった」
薬師如来「周りの人たちの希望はどんなものか考えてみてくださいませんか?」

伐折羅夜叉「考えたくもない」
薬師如来「考えないメリットとデメリットを教えてくださいませんか?」

伐折羅神明「考えないメリットは、私の判断は間違っていないこと。デメリットは、判断が間違っていることに気づけないこと」
薬師如来「もう一度考えてみてはくださいませんか?」

伐折羅神明「周りの人たちは、改善すれば許してくれた」
薬師如来「許されていることが解りますか?」

伐折羅神明「はい」
薬師如来「みんなにはどうしたらいいですか?」

伐折羅神明「嫌なことをしてごめんなさい」
薬師如来「みんなはどんな顔をしていますか?」

伐折羅神明「笑って許してくれています」
薬師如来(微笑んでいる)

といったイメージのやり取りが出来ると、薬師如来と十二神将との間でのやり取りがうっすらわかるかと思います。伐折羅(ばさら)が自分の肩書きとなるエゴの代弁者であり、薬師如来が導き手だということです。そして、このやり取りを見ている自分という私の存在もいるという感じです。

前回は、毘羯羅大将(びぎゃらたいしょう)を紹介しました。

比較してもらうと、その雰囲気の違いを感じ取れるとセンスいい感じです。

リーディングに繋がる如来との交信や、十二神将の意識の合わせ方などがわかってくると、「答えそのものが得られる確信」みたいなものがはじめから必要だということが見えてきます。

仏像などは、意識の繋げ方や、合わせ方を立体物で見て取れることが学びを得られやすいメリットがあります。像から漂う雰囲気と一致させられると、その分高い意識での気づきが得られるからです。

伐折羅大将は、自分の「絶対的価値基準を他人に強要してくる存在」に対して、「そんな真似は絶対にさせぬ」とするようです。

本来、権力などに屈することなく、誠実に問題を取り締まることが出来ていれば良いのです。しかし、身内びいきなどの偏りが発生すると、対立が浮き彫りになり、要らぬ争いばかりが続き、誰にも解決出来ない大きな問題となり困ります。

伐折羅(ばさら)と名がつく存在は、「何か心を砕き、合わせたり、曲げたり、折ったり」して、行為を正当化している為、権力を自分の実力だと認識し、誤解しやすいようです。


さて、いかがでしたでしょうか?

心や体を治す力を授けてくれる薬師如来は、とても有り難い存在ですが、十二神将を調べていくと、耳の痛いことが多く出て来そうなものです。

物言わぬ仏像だからこそ、「学びたいタイミングのみ、気づきの閃きが降ろされて、自分の姿に気づく」なんてことが起きてくるものです。

それを明確に解説すると、意味が限定されてしまい、「悪く指摘されているようで嫌」という感覚も与えることがあります。それらも含め、薬師如来を通して「どうして悪く感じるの?」などと、問答を繰り返すとわかる感覚も自然とするようになります。

常に自分が、無限ループに取り組まれていないか?

その問答が、自身を助けていきます。

ここでの薬師如来と十二神将との繋がり方は、一つの方法論です。
感じるままに自身で選び、読み解いていく体験を重ねることをオススメします。
わかってくると楽しいものです!


では、また。

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    リーディングマスター・まさみち


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