死と再生の仏 降三世明王⑬
リーディングマスター・まさみちです。物事をひたすら追及し続けてることで、一つの境涯に踏み入れることが出来、問いと答えが一対を成すものだとわかっていれば、誰もが同じ答えに辿り着くものでもある為、“見えないものがわかること”は、自然なことです。普段は心理カウンセリングをしており、自問自答では紐解けないものを、代行して解決するお手伝いをさせていただいております。「悟りを開いた境涯から紐解ける世界」はこんな物だと紹介する意味を込めて、仏像についての記事を書いています。(30/88)
仏像についての知識は乏しく、ググる程度しか知らないものの、リーディングという手法は、時を超えて創作者空海が伝承使用としてきた言葉にならぬ思いのメカニズムが込められているのが読み解けるので、それを紹介し、知識が無くても解説出来ることを「智慧」と呼び、知識と経験で培う「知恵」とは違うことを解説でもって、触れていただけたらと思い書いております。
いつの世の中でも、人と人との争いが問題になっており、宗教そのものでも互いに争うような事が起こされているため、現代においては「信仰」そのものが喪失していると言っても過言では無い世界に到っているのが私が感じるところです。
職場でも学校でも、悩みの種は人とのコミュニケーションです。
言いたいことが言えず、伝えたいことが伝わらず、解って欲しい人に解ってもらえず、受け取ってもらえないやり取りが続くと、諦めてはいけないと知りながらも、諦めてしまうしかない現実の壁を感じてしまいます。
解り合えない人との関わりを諦めないで追及するよりも、解り合える人とだけ切磋琢磨している方が自己成長が促され、良質なコミュニケーションを維持、発展させられると感じられるようになると、その人たちだけで関わっても生きていけるならそれで良いことになります。
幼年を天、一方的な要求が強く、短期的な快楽に偏り、排他的な迎合主義になり易く、我がままの全てを聞き入れてくれる懐深い人を好むものです。
青年を明王、一般的な常識があることを前提とし、好意的な接し方を求め、礼節をわきまえさせ、偉大さや優秀な姿を示し、その知恵や技術を与えてくれる人を好むものです。
壮年を菩薩、見識豊かであり、正当性を好み、友好的であり広がりがあることを求め、助け合いや分かち合いを好み、卑怯者や差別を嫌っては善行を為すものです。
老年を如来、経験や知恵に基づく解釈を捨て、不自由さを喜び、自然の中に溶け込んで生き、幼年も青年も壮年をも持ち合わせる快活さのまま遊び笑い、誰からも慕われ、慈愛と共に在るものです。
立体曼荼羅は、人が育つ過程を示している側面があり、それぞれ単体でも意味を成し、グループ単位でも意味があり、相対的に関係性も含まれて意味がある為、色々かな解釈や表現を伴うものが組み込まれているものです。その為、「これだ」と言及するのは愚かしいものと一喝してしまえるものでもあり、一人ひとりが解釈を見出すものが立体曼荼羅の醍醐味だという理屈もあります。
ただ、そうした解釈を添えるのは大いにして構わず、自身の解釈がどれだけ多くの人の心を動かし、悟りに至らせられるかがポイントになるものです。
良いことを伝えつつも、善悪に偏る天の教え。
礼節を伝えつつも、肩書きや権力に偏る明王の教え。
知恵を与えつつも、法律やしきたりに偏る菩薩の教え。
捉えどころがなさ過ぎて、ただ偉大な存在に偏る如来の教え。
と、本来は「良い話」や「心の支えとなる知恵の灯火」となるものが、時間の経過と共に衰退し、形骸化し、見た目にこだわる余り中身が欠落し、それを補おうと本質を追究しようにも、枠組みから反れることを許さない全体の流れがあるとどうにもならなくなる問題があります。
降三世は、過去、現在、未来の三世を隅々まで従えていることを示しており、単純に「今」しか無く、「時間の概念そのものが嘘」だと見抜いていることを告げているものです。けれども、人は過去、現在、未来に時間が流れていると感じられてしまうため、時間の流れに降参してしまい、征服されていて、在るべき貴重な「今」という無限の創造性を忘れ去っていることを戒める言葉でもあります。
時間の概念があるリスクは、始まりと共に終わりに向かう過程の中で、「過ぎ去ること」を望まなくなる魔に囚われてしまうのです。仮に「老いたくない」という否定するイメージを想像し、「老化を防ぐこと」が可能か、不可能かを考えると“不可能”だと解ります。けれども、「老化を誤魔化す化粧品が開発され、売れるか? 売れないか?」というと、“売れる”と解ります。元気で若々しく在りたいなら、老化や時間の経過に気づかぬほど好きなことに集中して生きる方が、楽に若さを維持出来るものの、その“楽しさ”を見ずに、不愉快な“老いたくない”を見てしまい、そのように至る現実を創造したがるのです。
大日如来は、時間を消失した「今」そのものに至っている「無」そのもののことを表現しているものですが「金剛界曼荼羅における無」は誰でも到達可能な簡単なものであるものの、それを言い聞かせで信じるのではなく、根拠無く信じることが出来ない為に、時間の幻想から抜け出す気づきが得られないものです。
降三世明王⑬
時の概念がなく、あるように見せかけていると知り、過去の悲しみも今感じており、未来の焦りも今感じるものだと解っていることを示します。現在における言い表せぬ束縛や、しんどい思いなども今作り出している錯覚に従っているからであり、真実ではないにも関わらず幻覚によって腹痛を起こさせ、偏頭痛に悩まされ、肩凝りに疲れ、関節痛に堪えながら生きることこそが「人生」だと、嘘を教え込む世界に浸る方が、常識だとしてしまい、多人数が間違えていれば平気にする世界にしているものです。その歪んだ常識を打ち破り、自我こそ自分の本質だとし、不快にする相手を非難し、マイナスの力で破壊しようとする者や、関係性を断絶しては利己的な価値観によって世界を創造する者には、「死という幻想に苦しむ」ことになるものです。人は物事を推し進める時、「継続していこう」と感じてしまい、それが一定のレベルまでは上手く行くものの、流れは極まると反転して行くと知らぬと、衰退を引き留めようとする無駄な力を使い、より悪化に拍車をかける方へと進んでしもうものです。その悪しき流れを寸断し、解体し、死を与えることで再生の道を促すものです。「今」というものは変化の連続性を示しており、変化する前も「今」に在り、変化した後も「今」に在るため、「破壊」は定められたときが訪れれば必ず至るものである為、「自ら壊して、創造へと結ぶ必然性は利己的である」と位置づけ、自然のサイクルに従って動けば、全てが循環の中で生きられることを告げるものです。創造して生み出されたものは、自動的に破壊され失われる定めが存在しており、その時が来れば抗ってもどうすることも出来ない圧倒的な力で在るため、シヴァ神(ヒンズー教の神だが、自我に偏る内容のもの)になどに頼ることもなく、死と再生を迎える力があることを示すものです。現実は常に今願い、今叶っていることを示す為、「破壊して創造しよう」や、「死なぬよう生きよう」など、解釈する必要もないことがここにあり、「今を見失うことなかれ」と知らせているものです。自動的に幸せに至る流れが続いている事実を信じるよりも、自分の手で自分の幸せを勝ち取ることを望み、幸せから遠ざかるようになります。過去の出来事を今感じることで、時間の経過や長さを測ることが出来、「遠い未来までやって来た」という感覚を無自覚にも持っています。又、「また同じ目に遭いそうだと感じる未来を見つけると回避出来ない焦りを覚える」ものです。自分で自分を騙して目標に到達させないために、現在にいる自分の思考を邪魔して、判断力を鈍らせ、戸惑わせることに終始させる意気地なしさもあります。人の心は、これまでの過程の積み重ねと、これからの計画が予想通りを願うものです。それが叶わない時、シヴァ神のせいだという理屈に待ったをかけ、在るべき自然の流れを過去、現在、未来と同時に見る「今」を見ていないから、叶わない願いを望み破滅することを指摘するものです。「今」を見てさえいれば、変革期や衰退期であることは感じ取れるものであり、適切に動けるものだと教えてくれる存在です。
足下には、シヴァ神と、その妻パールヴァティが踏まれているもので、要約すると「輪廻のサイクルが在る方が、次の展開が読み解けるから便利」といったニュアンスがあり、学びを完了させなくて良いという自我の働きを戒めるものの例えで踏みつけられています。
みんなが幸せで、一部がその犠牲となり人柱のような人生を歩まされても、その人柱を取り除く為の改革は、みんなの幸せを壊して不幸に見舞われるから、「何もせずにこのままサイクルの中で破壊し合うバランスを取る世界のままでいい」という判断では、最終的に全滅してしまうから止めましょうという解釈です。
三面八臂(さんめんはっぴ)と、顔が三つあるのは、左顔が「みんな」に向ける顔、右顔が「あなた」に向ける顔、正面の顔が「わたし」に向ける顔です。人は、親密に成ったときにしか見せない顔があり、建前で見せる顔など、顔を使い分けていることを示しており、心が働きかける領域も違うことを表しています。
八本の腕も、「頭で考える左右」「胸で感じる左右」「腹に据える知恵の左右」「背で語る経験の左右」があるものです。手前が交差するのは、右脳が左半身、左脳が右半身を司っていることを表しているように、男性は女性に従い、女性は男性に従う流れが本質として存在していることを伝えるものです(この従う意味は、全ての人が歓喜に到る流れであるなら承諾できるもののことで、奴隷のようなニュアンスではありません)。
繋がり方
降三世明王が見つめる「過去・現在・未来」に意識を合わせつつ、「みんな、あなた、わたし」と関わる心への働きかけにも意識を合わせつつ、外向きにも、内向きにも意識し、「頭の思考の左右」「胸の感情の左右」「腹の認識の左右」「背の記憶の左右」を同時に意識して、境界線が消え去るような溶け合うイメージを持ちます。そのイメージに同化するように自分も溶け込んでおり、どこからどこを観察しているかもよくわからない「ボヤ」とした全体であり個体であり、わたしでありあなたであり、あなたでありみんなであり、みんなでありわたしであるという漠然としたイメージを持って漂う感覚でいてください。
このような全てが抽象的な感覚に至ることで、乾栗陀耶識(けんりつだやしき)を会得することが出来ます。わからない方はHPから親和者講座をご予約してください。個別指導致します。
参考事例として紹介します。
降三世明王(自分)「失敗した人が再起してはいけない理由を教えて欲しい」
降三世明王「再起すると“失敗を恐れなくなる”事実が明らかになるから」
降三世明王(自分)「“失敗を恐れないといけない”理由を教えて欲しい」
降三世明王「厳しく正解だけを歩ませる教え方が、学習ではないことが明らかにされると、教え方の下手さが明確になり、年齢と共に賢くはならない事実が証明されてしまうから」
降三世明王(自分)「年齢と共に賢くならない理由を教えて欲しい」
降三世明王「創造と破壊のサイクルをイメージし、その通りに育つと、“あんな大人になりたくない大人に成る”から負の連鎖の世界が出来上がり、誰も止められないから」
降三世明王(自分)「どうして負の連鎖の世界が出来たか教えて欲しい」
降三世明王「賢い人たちの厳しい地道な教えより、賢そうな人たちの易しい楽な教えの方が魅力的に感じ、誰もがそれに賛同して難しさより、解りやすさを求めたから」
降三世明王(自分)「どうして難しさより簡単さを求めるように成ったのか教えて欲しい」
降三世明王「弱い者を守る世界を求める余り、強い者より弱い者の堕落する発想を取り入れ、歓喜するほど楽しい学習よりも、周りに認められることを重視する余り、義務感で学習するものにしてしまい、簡単なことしか判別出来ない人ばかりを育てることをみんなで望んだから」
降三世明王(自分)「どうして堕落する発想に至るのか教えて欲しい」
降三世明王「政治や、組織や、会社や、自身の成長は継続させることより、限界が訪れて衰退する流れがあることを知らぬと、政治は腐敗し、組織は弱体化し、会社は経営難に陥り、自身の成長は停滞するものが自然なことだから」
降三世明王(自分)「どうしたら腐敗しないように出来るのか教えて欲しい」
降三世明王「政治や、組織など関わる自身の問題の全てを受容し、構造の欠陥など理解し、関係者全員に心痛な状態に陥っている現実を共有させ、知恵を借り、協力を求め、各自が主体性で動ける仕組みに作り直すこと」
降三世明王(自分)「具体的に自分は何をしたらいいのか教えて欲しい」
降三世明王「人のせいにするのを止め、弱い自分を庇うのを止め、強い存在から声をかけられる流れを無視するのを止め、優れているものを素直に賞賛するよう心がけ、好奇心を持って関わり、自分を根拠無く満点評価して維持させ、改善の工夫を続け、失敗してしまった心と対話して落ち込み、嘆き、全力だと認め、立ち直らせて再挑戦させ、上手く行く流れの中にあると信じて委ね、嘘をつかず、自分の味方は自分から始め、みんなも味方だと決めつけて関わり続け、友でいられるように無条件の信頼を欠くこと無く持ち続けることをすればよいこと」
降三世明王(自分)「ありがとうございます。やり遂げます」
降三世明王(微笑んでいる)
といったやり取りが浮かぶかも知れません。この仏との対話はコツ勘の難易度が高い為、自身の純粋性(梵の意識)が解っていないと始まらないものです。指導を受けるなどして、研鑽を積むことで、磨かれる感性があります。
悟りを開くことの難しさは、指導者が悟っていないか、もしくは悟りのレベルが低いと、人を導くことが出来ない問題があります。未知なる世界に踏み出す勇気は、自分で掴むしか無い為、指導することも出来ませんが、心の繋がり方や、質問の仕方や、質問の思い付き方などまで、誘導することが可能であり、つまずいてる心の問題の全てを解き明かせば、繋がれるようになるものです。
悟りを開くことは、楽器が正常に音が鳴る程度の当たり前のことと解釈してください。
楽器が正常に音が鳴らないなら、まず直して鳴らせるようにするのが導きです。
心が治れば繋がり方などは造作もなく出来るようになるものです。
その修練や修得する手間が、人によって違うものですし、転生の歴史の中で研鑽を積んだ体験がある人か、無い人かでも意味合いは変わります。
問えば答えがわかる世界であることを信頼出来れば出来るほど、様々なことが「繋がること」でわかるものです。正しく繋がらなければわからないものです。
時間の経過と共に、転生の歴史と共に、同じ課題を何十回も繰り返してしまうと、学ぶ気力そのものが得られず、「不幸でいい」と開き直る人生に入らぬよう願いしたいところです。
どうか、一人でも多くの方が、自分と対話をし、自身の中にある純粋性に従って生きられ、豊かになって欲しいと願うものです。
いかがでしたでしょうか?
では、また。
リーディングマスター・まさみち。