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善かれの想い 満善車鉢像①

心と言葉の研究者 リーディングマスター・まさみちです。心理カウンセラーをしております。リーディングという読み解く力を使い、無意識領域に隠された心の微細なヘルプサインを拾い出し、根本原因を突き止め、ストレスを消失させる気づきをもたらし、「愛されていた歓喜に包まれたい体験」相談を請け負っております。(41/88)

風神雷神の働きが自然の中に流れる「想いの気」について解説しました。

この流れがわかると、様々なことが読み解ける切っ掛けに繋がるものです。

勘の良い方は、流行を生み出したり、話題を仕掛けて流れを生み出すことなどもしていますが、その作用の気の流れに対して、反作用の気の流れもあることを知っておくと良いものです。

この作用、反作用の物理法則は、人の想念にも起こされていて、相対性理論や質量保存の法則などもあるので無理に頑張れば、その反動を受けるのは当然のことだと解るものです。

これが解ると、身も蓋もないことがわかり、「知りたくなかった」こととなり、見たくない現実を引き寄せることはないため、知りたくない情報には近寄らない無意識さえ、働いているものです。身も蓋もないとは、全ての原因は自分にあり、「他人のせい」に出来ない真実があり、自分が変わるしかないことに気づき、嫌い合うことが無意味な苦痛しか生まない事実に気づいてしまうからです。

風神雷神は、三十三間堂で知られる蓮華王院(れんげおういん)に納められています。1001体もの千手観音立像と1体の千手観音坐像が並ぶ壮観なお堂です。後白河天皇が作られたものですから、天皇の意向を読み解くことで二十八部衆がどのような意味が込められているか調べていきたいと思います。

満善車鉢像(まんぜんしゃはつぞう)①

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人の想いは、「善いことをしてあげよう」という気持ちがはじめにあります。

その始まりの動機が、踏みにじられたり、許されない体験に繋がるなどすると、「善かれ」の行動で「悪い目に遭う」と、人の心は「荒む」ものです。

幼き頃、無邪気さ故にした行いを「邪鬼」と扱われる体験が、無垢なる心を歪めさせ、邪悪な心に育て上げてしまう残酷さが、人の目には映らないものです。

「悪党」に向けて「悪いことをするな」と咎めると、「善人だと信じ込んでいる者にとって、『悪党』と呼びかけてくる相手こそ『悪党』に違いないと怒りを覚える」ものです。

悪い人にとって、悪い人は「善い人だと正義面する人」です。善い人にとって、悪い人は「悪くないと言い張る嘘つきの人」ですから、喧嘩をすれば、「どちらかの善い心が強い方」が手加減をしてしまうため、「善い人」が倒されてしまうものです。悲しいことです。

しかし、悪い人も元々は善い人です。「無邪気さ」「邪鬼」だと見間違えられなければ、悪党の道に落ちることもありません。「無邪気さ」「邪鬼」だと見間違える人も、きっと元々は「無邪気さ」を持つ人だったはずなのです。

何かの見間違い、どこかで捉え違いをして、許していいことを許していけないことだと信じてしまった故に引き起こされてしまう誤解の連鎖が想像出来るでしょうか?

全ての人が、最初から最後まで、どこを見ても『善』しかない人です。

『善』で、人生の全て、人々の心の全てが『満たされた』ことを想像して欲しいと強く願うものです。善が巡り、隅々まで行き渡り、互いに与え合い、車のようにコロコロと軽々しく「満善」として滞ることなく届けば、世界は救われるものです。

どうか、わたし(仏)の心よ。

邪鬼に陥ってしまった「無邪気さ」を押し殺されてしまった私の心や、人々の邪鬼で曇りに曇った心の涙を拭って欲しい。

皆が皆、善き心で満たされ、それが悲しみに埋もれている人たちの元にも遠慮することなく行き渡るように、整理してやって欲しい。「こうしなさい」「ああしなさい」と身振り手振り、手取り足取り、親身になって教えて欲しい。

「邪鬼」自分の心ではないと気づかせて欲しい。

目の前にいる、「苛立ちを隠せなくなっている大切な人」の心が、邪鬼に乗っ取られて、その裏で「無邪気さ」が激しく泣き続けて助けを求めていることに、『仏(満善車鉢像)よ』、私やあの者たちに教えてやってくれないか。

私の目も邪鬼に曇らせられているに違いない。

私の心も、泣きじゃくっているに違いないのだから。

どうか、全ての者たちに『善き心で満ち満ちて幸せに包まれている無邪気さを取り戻し、笑い合って遊んでいたあの頃を思い出させる導き』をしておくれ。

無邪気さは、その行いにより人が「笑えない事実」を知らないだけなのだから、怒らずに、悲しそうな表情で「お願いして教えること」をすれば、聞き入れて無垢さに戻るものです。

一つ一つの行いが無明(知恵がない姿)から始まるのですから、知恵を授けてやれば良いものです。幾つになっても、知らないから貪り、怒り、愚かさを退けることが出来ないのです。幾つになっていても、邪鬼さを無偈(むげ・邪鬼を本質の心ではないと見抜き、無力化し、大人しく手懐け、救済してやり、和やかな気持ちで満たしてやり、役目の終わりを教えてやること)にして、泣きじゃくる無邪気さの心を抱きしめて愛してやり、教えてやれば笑えるようになるものです。

育つ環境、周りの大人たちに至るまで、誰も導くことが出来ない事実がある為、邪鬼(嘘をついて建前や見せかけでコミュニケーションを取ること)がはびこる世の中になってしまうのです。

誰もが失敗した姿を許し合い、失敗した姿で立ち直り、そのまま再度喜びの為に動き出せる力を与えてやってください。

あなたが善き心で満たされていることをわたしは知っています。


以上が、満善車鉢像(まんぜんしゃはつぞう)の解説となるようです。

心の番人というか、監視役というか交通(邪鬼)整理のようなイメージですね。

人との触れ合い、関わり合いにおける、「その一言」「邪鬼」に陥らないように諫(いさ)める千手観音菩薩の眷属であるようです。


眷属(けんぞく)とは、「細分化した仏の側面を表したもののこと」であり、「慈しみの意味や解釈をどのようにすれば持てるか分解して届けるもののこと」です。


リーディングしてみて、改めて仏像が呼びかけてくる思いに触れることが出来、後白河天皇の人々を思う姿が今でも息づいていることがわかり、焼失しても尚健在であることが普遍性を感じ、空海とは違う優しさが感じられます。

時代を越えて受け継がれる人が人を思う心が、仏像ではなく世界に映し出され、仏像を必要としない世界を望まれていることが、この千手観音立像の1001体と千手観音坐像から伝わります。

人は本来仏なのですから、仏のような純粋無垢で清らかで美しい心に育てば、仏教もその他の宗教と呼ぶようなものも無くなるものだと閃き降ろされてきます。


いかがでしたでしょうか?

では、また。

リーディングマスター・まさみち。


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