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神道・田心姫神、湍津姫神、市杵島姫神

リーディングマスター・まさみちです。物事の本質を読み取り、読み解くには主体と客体を同時に体感しつつ観察している状態に入ることであり、緊張と弛緩、交感神経と副交感神経を同時に体感しているようなことを実践することで得られる「気づき」を閃きと称して提供しております。

宗像三女神(田心姫神(たごりひめのかみ)、湍津姫神(たぎつひめのかみ)、市杵島姫神(いちきしまひめのかみ))は素戔嗚尊(すさのおのみこと)から生まれたと宗像大社のサイトに書いてあります。由緒を参照ください。

素戔嗚尊(すさのおのみこと)を通して五男三女神が生まれたとされる領域に意識を一体化させて何を神格化させているかを読み取ってみます。その上で宗像三女神が一括りにされて奉られているいきさつを見てみます。

神道は全てが自然の摂理の中で采配が執り行われていることを知らせてくれるものです。簡単に言えば物理学要素で全てが運行していることを告げるシステムのようなもののことです。

人と人、人と自然との関わりにおいて素戔嗚尊(すさのおのみこと)というシステムが機能不全に陥ると誰が見ても(天照大神(あまてらすおおみかみ))というシステムに問題を起こす人(荒ぶる者=荒む(すさむ))と認識されるものです。
※天照というシステムをイメージするには、太陽のように万人が見ていることを指し、時に証拠に基づくことだけが本当のことだと誤解されやすいことを伝えています。

この世界は物理現象を引き起こした本人が責任を取らなければならない世界です。勉強が出来なければ、勉強をしようとしない人、出来ない人の問題にさせられてしまう世界です。
先生たちはより良く育って欲しいと教育を施そうと懸命に努力していても、大勢の生徒の中には「その甲斐虚しく身につかない人たち」が出てきます。

この先生たちはは100%努力している。何故ならそれだけの資格と実績があると証明されているから。それを前提に考えるなら身につかない人が問題があると先生以外の人たちが状況証拠から判断を下してしまうと、身につけられない人の問題になります。

この「教えても身につけられない人」の問題は「先生にあるの?」「生徒にあるの?」と考えてしまい、「学ぼうとする生徒に問題があるの?」「学ぼうとしない生徒に問題があるの?」とされます。
当然「学ぼうとしない生徒に問題がある」とされやすいです。「どうして覚えようとしないのだ?」と問われてもうまく答えられないし、前向きに至らないのです。
では、「学ぼうとする生徒に問題がある」とするなら、「さっきの返事は口だけか? 教えたばかりだろう?」というような言葉が出て来てしまい、姿勢は見せつつも結果が伴わない生徒がいる場合、原因は生徒にあるように扱われるものです。
そして「努力しているのに報われない」という体験が重なり、周りからは形だけは整い、教育があたかも成立しているかのように関わると、結果が伴わない身についていない人は荒れる(引きこもる)のです。

学ぶ人が精一杯学ぼうとしながら学べない時に、周りの人が結果に対して学ぶ人のせいにされると荒れる気質を「素戔嗚(すさのお)」と扱うシステムがあると考えていただけると良いです。

素盞鳴尊は天照大神にいくら話しても疑いが解けないため、自分が男神を生めば潔白だとして、誓約(うけい)を申し出ます。
先ず、天照大神が素盞鳴尊の剣を噛み砕き、息を吹きかけると三柱の女神が生まれます。
これが宗像三女神の誕生となります。

HP宗像大社の由来より

「いくら話しても疑いが解けない」

ここに荒ぶる者と化している人が、どれだけ言葉を尽くしても物理証拠は覆せないものを指すものです。量子力学を少し学ぶと「見る人の影響を受ける現実」があるのが証明されています通り、疑いを解くには「見る人の影響を取り除く力」が必要なのです。

素戔嗚の「剣」としての意味合いは、様々あります。
1,「根源の生命そのものと繋がっている状態」
 ├2,陰,「全てを見透す千里眼の力そのもの」
 └2,陽,「問題に対を成す回答をもたらす叡智そのもの」
  ├3,天,「美しく清められる道を指し示す力」
  ├3,空,「何もなければ何も映さず、何かがあるから何かが映ることを暴き上げる力」
  └3,光,「物事の1辺(1片)が万象に関わるものだと繋がりを辿る力」
   └4,12通りの意味(省略します)。
    └5,60通りの意味(省略します)。
     └6,4通りの意味(省略します)。
      └7,8通りの意味(省略します)。
これらが「剣」が示す意味合いとして内包していると考え、これを砕いて現れたものが三女神です。単純に素戔嗚の言葉が伝わらない原因は、この剣として「根源の生命そのものから言葉が発せられなくなっており、繋がりが断たれている状態」を治せれば、言葉が通じるように戻り潔白が示されることを表現しているものです。

●田心姫神(たごりひめのかみ)
根源と繋がりが断たれた心の働きと、繋がっている心の働きとの差を見る力を象徴するものです。
疎遠になり敵対する者に不快を与えないように計らう心と、親身になり味方の中でも心を許せる者だけに自身の胸の内を明かす心の状態をつぶさに見て理解する力の象徴です。

●湍津姫神(たぎつひめのかみ)
物事を話して人に聞かせる時に、伝わる内容と伝わらない内容を区別して捉えることが出来、どのようにして認識が歪んでしまっているのか? なぜ間違った解釈を支えにしてしまっているかの真因を辿り見つけることが出来る解析力の象徴です。
明確に信頼していることを誓約していたとしても、対立や衝突が発生する場合や、片方だけが理解を示しつつも、もう片方が合点に至らない場合などが何を持って引き起こされているかの原因から真因を見つけ出し、双方に向けて各々が持つ神性の神意に問いただして啓示としての解答そのものを閃き降ろして場を鎮める力の象徴です。

●市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)
多くの話を知り経験し、たくさんの知識を学ぶ者が、学ぼうとする者に知恵をもたらせられないことや、問題の重要性を感じさせられなかったり、真剣味を覚えさせられない時になど、その現実を創り出しているのは自身に他ないと囁いてくれる統括管理者のような力の象徴です。
知らないから間違えることもある事例と、知り過ぎているから間違えることもある事例など、多数の教えが衝突し合い心の中で混乱している状態を解決する能力を秘めた力の象徴です。

こうした「根源と繋がりが断たれている」状態から回復する為の道のりを与えてくださるのが宗像三女神なのです。

●田心姫神(たごりひめのかみ)
時を出現させ、時を無くさせる力を有するもの。

 ●湍津姫神(たぎつひめのかみ)
どこにでも存在して全てを知りわかっているものの無知として振る舞うもの。

● 市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)
人のせいや自身のせいにしてはいないかと問いかけ、錯覚から目覚め指すよう関わるもの。

端的に表現すると、このような深淵な言葉で解説するものとなりますが宗像大社に奉られている神さまを通して、自身の荒ぶる心が鎮まり、話が通じない相手に話が通じる道へと変えられる力を授けてくれる場であると感じ取っていただけると、神社への参り方も変わるのではないでしょうか?

クリエティヴとする創造する力は、根源の生命そのものと繋がっていなければ「よい閃き」は降りてきません。

学業においても、本来その人が持っている隠された力を引き出すには、心が根源と繋がっている状態でなければ不可能です。押しつけることなく学問の魅力を感じさせ、自身の力で学ぼうとし、知的好奇心が自分自身を未知なる世界に連れ出してくれて、歓喜する毎日を生きられるように至ることが人生です。

人生のどこかで、根源の繋がりが断たれている場合など、ある側面だけ苦手が出てしまったり、黙り込んで話してくれなくなったり、時間切れとなりわからぬまま大人に成っていくことが多いものです。

親やそのまた親や家族の誰かが根源と繋がりが断たれていても、断たれていない人が不出来な子として育つこともあります。その子だけ家族の色に染まれないなど、理由は様々ですがいくら話しても誤解が解けないのです。

宗像三女神で心の繋がりを治す道を開き、心を治した場合と、治さない場合とで五柱の男神とした姿で現れることを解説してみせることで素戔嗚は理解を得るのです。

それには天照大神(あまてらすおおみかみ)が誓約(うけい)を承諾した事実があることを忘れてはなりません。剣や勾玉を砕いた場合における様々な事象を天照と素戔嗚はつぶさに見て行くことが出来たことが良いことなのです。
文中には出ていませんが、この誓約(うけい)というものは、月夜見尊(つきよみのみこと)の働きもあるものとして想像しておいてください。

つまりは素戔嗚尊(すさのおのみこと)を一人にはしなかった事実があるとイメージして欲しいのです。天照大神(あまてらすおおみかみ)も月夜見尊(つきよみのみこと)も力になり、助けているシステムが流れていることを想像して欲しいと願うものです。

神社に行ったらどうしたらいいの?
率直な疑問であると思います。
本来の三女神の力など手を合わせて祈っても、物事を神意があると想像する力が不可欠ですし、天照大神(あまてらすおおみかみ)、素戔嗚尊(すさのおのみこと)、月夜見尊(つきよみのみこと)が機能しつつ、三女神の解説によって、五柱男神のパターンによって人の姿は変わるものだと解説力を持っていれば良いのです。ですが、それは難解なことです。

以下に参拝の参考事例を挙げました。

●田心姫神(たごりひめのかみ)に参拝する場合。
自身の最低や最悪と感じる心と田心姫神と結ぶイメージを持ち、「ありがとうございます」と気が済むまで祈りを捧げることです。

 ●湍津姫神(たぎつひめのかみ)に参拝する場合。
悩んでいる事象に対して、湍津姫神さまならどのように関わるのだろう? と想像し、閃きには全部承諾して聞き入れる平身低頭の面持ちで祈ることです。

● 市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)に参拝する場合。
問題と感じられる事象に関わる登場人物が全て理解されることのない自分の分身だとするなら、それを眺め見ている市杵島姫神がいて、神さまならこの事態を何という感想を洩らしつつ導いてくださるのだろうか? と想像しながら祈ることです。

本来、神さまへの参拝に方法論は説かないものです。二礼二拍手一拝で充分だからです。何故ならば、心から解決策を欲すれば叶えて与えてくれる世界だからです。けれども素戔嗚尊のように、話しを聞いてくれない事態に陥っている場合は願い方、祈り方そのものを参拝する場所で間違えてしまうものです。

手や口を洗い清めても、心が祓われず、清められずに祈ることがあるからです。
そうした自身が穢れていることに気づきもしないまま礼拝を行うことさえも、神の道へ続くには学びとして課せられているものとして「教えない」ものなのです。

神道の世界で教えなくても、様々な科学的な見地や歴史的な事例の分析による統計学からもたくさんのことが身につけられるからです。その采配も神道の世界では心得られているので、「自身で道を歩きなさい」と促すだけで正そうとはしないのです。

望まなければ与えられないものです。

ただ、その望みが小さくても叶う場合もあれば、望みが大きくなければ叶わない場合もあるだけです。荒ぶる心でも対話が成立する世界もあれば、荒ぶる限りは対話にならない世界もあるものです。

祓い清めることが何より先決であることに気づけると、それだけが全てでもあると感じられる世界が神道にはあります。

「祓え給い、清め給え、神(かむ)ながら守り給い、幸(さきわ)え給え」
「祓える姿と一つに成り従事することを喜びの気持ちで取り組みたいとし、心身を清めるには浄めの力を天から降らせて洗い流していただけるよう心身を差し出し、様々な自然の摂理に従うことで自動的にこの身は守られるように日々を隠し立てしなければならないことなどしていないとして信じ、どんな苦難に陥る場面があってもそこからでも幸せが花開く時が来るとわかっているとしていかなる瞬間も幸せの種を蒔いていて、幸せの花が咲いている最中にあると祈ります」としたニュアンスであるとわかっていただけると、この一文に込められた深淵の思いが全てを感謝に導くものであると感じてくれると幸いです。


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