平等性智の観点 宝生如来⑨
リーディングマスター・まさみちです。普段は心理カウンセリングを仕事にしております。目に捉えられないオーラを読み解いたり、縁の繋がりや結びつきを見つけたり、身体的気の乱れから肩凝りや腰痛を治すなど、リーディングならではの施術により、満足いただけるサービスを提供しております。そんな“見えないものを見る力”で、東寺・立体曼荼羅を紐解いたら何がわかるか? として、記事にしております。(26/88)
天、明王、菩薩、如来という階層のように気づきや学びの段階を示しているものの、全ては大日如来の化身が姿を変えて現れているのだ、中心に座している大日如来がわかれば、全ての仏の本質を掴み取ることが出来るものです。
人……物欲や利己的であり、教えがないと堕落してしまうもの。
天……何かしら人を手助けし、行動で役立つことを為せば、同じように助けられるもの。
明王……何においても「ありがとう」と感謝を表し、どんな行為にも苦労が隠れているものと扱い、礼節を示すもの。
菩薩……よく考え、相手の身になって感じ、望まれていることを与え、より喜ばれるにはどうしたらいいのか協力し合って、人に尽くすもの。
如来……全てが必然であると知り、自身の心が曇っていれば現実も思わしくない結果になり、心が晴れていれば現実も晴れやかになるものだと知り、雨が降れば傘を差し上げ、北風が吹けば部屋を暖めて帰宅を迎え入れ、人の苦しみを取り除けるのは人だとわかり、全ての人が支え合って関わるものとわかり、自然にそうするもの。
①〜㉑まで番号を振り、学びの段階ではないものの(学びの段階は天、明王、菩薩、如来の4段階)21体の仏像が持つ、秘められた数字を読み解くと浮かび上がるものがあり、それに従って解説しております。
宝生如来⑨
全ての物事は等しく人々に届いており、その価値の持ち方、感覚の捉え方、解釈の仕方、行動への移し方が違うだけで、本質的に同じである物理現象を示すものです。化学反応として考えれば、混ざり合うように化合させると、形態が変化するものがあるように、心身は、体験する中で神経伝達物質など発生させるなど化学反応を体内で起こしているものです。それが状況や環境など関係性において、変わる為、客観的計測ではどうにも出来ない「観測者の影響」を受けてしまう主観性の問題から逃れられないものがあります。全ての事柄が人それぞれの持つ「主観性」の認識から逃れられない為、『見ている人にしかわからない感覚』というものがあり、「受・見られる人」「想・見る人」「行・見ている人」「識・見ない人」という「色・物事」をどこからどう認知するかで、様々に現実は捉えられることを知らしてくれるものです。関わる相手を「宝物のように見られる人」になり、「宝物のように見る人」であり、「宝物のように見ている人」となり、「宝物以外のものとして見ない人」として立ち振る舞えれば、関わる誰もが「生きていてよかった」と感じられる関わりを与えられるものとなります。相手に自身が「宝物」として扱われるには、自分自身が「他に代わりなどいない人」であり、「あなたしかいない人」と思われ、「真っ先に思い出す人」であり、「この人以外に頼める人はいない」と窮地に陥ったときに思い起こさせる人となれば良いのです。それには「生きている間」という時間の中で、誠心誠意込めた生き方をする程にその価値が高まり、感覚が研ぎ澄まされ、解釈を幅広く持てるように育ち、思い立つと共に行動に移して迷うことなく結果へと辿り着ける人と成るものです。心と体は二つでない一つのものであり、心が体験してきた様々な思いの全てを、体も同時に全てを感じているものです。心を楽にさせようとすれば、体に負担がかかり、体が無理しすぎると、どれだけ心がけをしても動けなくなるものです。心が体の負担を請け負う気持ちに変われば、体は楽になるように軽くなります。心身共に、感じて一つであるように振る舞えたとき、「今」に留まることが出来るようになり、「生きること」「命であること」との二つが一つのように働き、人生となります。今を生きること、全てがここに在ることを感じさせてくれる存在です。
菩薩の紹介を前に、如来を紹介しています。天部の観点は一つ、明王の観点は二つ、菩薩の観点は三つ、如来の観点は四つというイメージでざっくりと感じ取れるかと思います。
天部の解説も明王の解説も、最終的には四つの観点という大日如来に繋がる解釈を込めています。
観点とは、「受(見られる)・想(見る)・行(見ている)・識(見ない)」ということを示しており、どこから見ているかによって、心の働き方、動き方がその組み合わせによって大きく変革することを示すものです。
平等性智(びょうどうしょうち)とは、宝生如来(ほうせいにょらい)をググると出てくる解説ですが、これが告げていることは、虫であれ、動物であれ、石であれ、川であったとしても、それを絶対的に必要とする基準の観点として見ようとすれば、見落としていた世界の見え方がわかることを教えてくれるものです。
雑念が多い場合は、石から世界を見ようとも何も感じられないし、「この石から何がわかるのか?」と疑念などで覆い尽くされて、静観したものの見方が出来ない為、「わからん」と投げ捨てて、精神集中が出来ずに挫折してしまうことが多くあります。故に、滝行や苦行のようなものを敢えて行い、そこで湧き上がる雑念を絶え間なく聞き入れ続けることで、精神集中を養い、静観する力を磨くものでもあります。
繋がり方
宝生如来が自分の体とします。宝生如来の「受・見られる体」「想・見る体」「行・見ている体」「識・見ない体」という四つの観点を持ちつつイメージします。体のイメージを宝生如来に移すので、残る自分の方には、「受・見られる心」「想・見る心」「行・見ている心」「識・見ない心」があり、四つの観点の体(宝生如来)と、四つの観点の心(自分)とを分けたイメージで、質疑応答します。
参考事例を紹介します。
自分(心)「何もしたくない」
宝生如来(体)「考えようとしてこなかったから」
自分(心)「何もしたくない」
宝生如来(体)「自分に嘘をつき続けてきたから」
自分(心)「何もしたくない」
宝生如来(体)「みんなに合わせて自分をないがしろにしたから」
自分(心)「何もしたくない」
宝生如来(体)「親の言う通りにしてきたから」
自分(心)「何もしたくない」
宝生如来(体)「先生の言うことに反発してきたから」
自分(心)「何もしたくない」
宝生如来(体)「家族を守ってきたから」
自分(心)「何もしたくない」
宝生如来(体)「嫌われないよう努力してきたから」
自分(心)「何もしたくない」
宝生如来(体)「迷惑がかかるようなことは絶対しなかったから」
自分(心)「何もしたくない」
宝生如来(体)「“これでいい”と不満をかき消してきたから」
自分(心)「何もしたくない」
宝生如来(体)「“叶わない夢を追い求める”ことの方が、みんなに喜ばれると信じたから」
自分(心)「何もしたくない」
宝生如来(体)「“可哀想だ”と想ってもらえる方が、優しくされて嬉しいと錯覚したから」
自分(心)「何もしたくない」
宝生如来(体)「“我慢強い”ことを“偉いこと”だと勘違いして挑戦しないように気持ちを封じ込めてきたから」
自分(心)「何もしたくない」
宝生如来(体)「“心が壊れないように”と大事にして、弱いままにして来たから」
自分(心)「何もしたくない」
宝生如来(体)「“好き”だけに囲まれ、正義感を振りかざして“不快な想い”を周りに撒き散らしていたから」
自分(心)「何もしたくない」
宝生如来(体)「自分の悪いところを自分が嫌ってきたからだよ」
自分(心)「何をしたらいいの?」
宝生如来(体)「弱さを好きになるといいよ」
自分(心)「何をしたらいいの?」
宝生如来(体)「弱さの味方になり、話を聞いてやるといいよ」
自分(心)「何をしたらいいの?」
宝生如来(体)「弱い自分にやらせたらいいよ」
自分(心)「何をしたらいいの?」
宝生如来(体)「弱いままでも、「助けて欲しい」と周りに頼ればいいよ」
自分(心)「弱いままでもいいの?」
宝生如来(体)「弱さを集めると強くなるよ」
自分(心)「弱いままでもいいの?」
宝生如来(体)「無知を集めると真理がわかるよ」
自分(心)「このままでもいいの?」
宝生如来(体)「いいよ(微笑んでいる)」
といったやり取りが浮かぶかも知れません。
宝生如来との繋がり方、対話の仕方はとても有効であり、どんなテーマにも使えるものでする自分の体に溜め込んだ負の想いを拾い出すことも可能です。試みてください。
いかがでしたでしょうか?
では、また。
リーディングマスター・まさみち。