愛を蘇らせよう 帝釈天王像㉘-1
心と言葉の研究者 リーディングマスター・まさみちです。真理を解き明かし、深層心理から前世療法まで、何でもこなしてしまう心理カウンセラーです。空に到り、無の境地に辿り着いて「愛を語る人」でもありますが、とても論理的で具体的な解説能力を持ち合わせているのが、まさみちという人です。(68/88)
圧倒的な分量で、読み手を阻むような今の時代における情報提供の記事において、「読めなくてもいい」という雰囲気をバリバリに醸し出しつつ、自己流を展開して二十八部衆という仏像たちについて記事にしています。
二十八部衆の最終回(その1)は「帝釈天王像(たいしゃくてんおうぞう)」であります。
東寺・立体曼荼羅において、「帝釈天」は二番目に紹介し、一番目の「梵天」と対を為す存在です。
今読み返すと、二十八部衆と違い、短い!!
それだけ、千手観音について輪郭やイメージの総合的な部分を伝えようとすると、膨大な情報量となるものです。
「手を合わせて拝む」
そんなことで、病に伏せる家族や、腰痛で苦しんだり、対人関係の悩みの答えが授かるなら良いものですが、そうは行きません。
仏像への扱い方は、ググって検索すればどこにでも溢れるような当たり前の「参拝方法」にはなっていないようです。仏とどう対話するか、自分の内なる心と対話する方法が案内板にさらりと書いてあって欲しいものです。
人の救済を「あらゆる手立てを駆使して行う」ものが千手観音の働きとして知られるものですが、人が人を救済する方法論を28パターンに展開して紹介すると、これまでの情報になります。(過去記事参照)
人とのトラブルや心の問題の全てが法(真理)においては「㉘冤罪(識)」でしかないと断言して構わないものです。
ただ、この法(真理)を自在に使いこなせる神仏がかった人の身がこの世界に常駐させて居られないため(仏教界からポンポン聖者を量産出来ない)、何かを問いただすには法(真理)は不便すぎるものになりました。それ故に、誰もが納得出来る「正しい行い」などを制定して、治安維持に努めるようになるものです。
それでいても人の心は救済されることなく、現代に到り、「㉘冤罪(識)」と告げられて、「はい、そうですか」と納得出来るものでもありません。
五蘊(ごうん)における、「色・受想行識」を改めて考えてみます。
「色・物理現象であり、誰もが客観的事実として確認出来る形状であり、情報伝達する上で、伝えられるもの」であります。人であるなら「人の形」が色と呼ぶものとなり、身体のことを指します。
この物体(身体)に対して、内容中身とするものに「受想行識」があり、物事は「何かが起きて、それを受け止めるもの」とした受動から始まることを告げているものです。
受け止めたものは、知恵や経験と照らし合わされて即座に反応して「気持ちが想い立ち感情が働くもの」として、様々な情感によって思考や行動の動機を生み出すものです。
想いの力は、「行動する機動力として伝達され、自分がどのようにしたいか意図する思いに突き動かされていく」ものです。
それらは、「無意識の内に一瞬で処理されることもあれば、意識して慎重に考え、行動に直結することもあるもの」です。「識・記憶を司るもので、様々な意識の種類と方向性があり、記憶の解釈(受)、記憶の恩恵(想)、記憶の意図(行)、記憶の定着(識)が為されるもの」です。
二十八部衆は、この記憶にアプローチする手がかりを与えてくれるものです。
仏像に込められている意識の在り方は、仏像の形が意識への誘導体となり、立体曼荼羅の帝釈天とは違う姿の帝釈天王像として、働きかけてくれるものがあります。
ここは第七チャクラの領域を司るものであり、第一チャクラ〜第六チャクラまで総合的に管理する仏性の中枢のようなものです。
㉒大梵天王がたたずむ㉘帝釈天王像
人は人から「㉘冤罪(識)」により、不当に扱われる体験があり、そこから人間関係のトラブルが発生し、悩みに到ります。
例えば、「㉒落第(識)」とする扱いも、試験の合否があり、不合格であるなら不合格であり、「落第」ではないものの、「不合格(落第)」という扱いをする人がいます。それは、人間失格である訳でもなく、不当に見下されなければならない自案でもないのですが、軽蔑の対象に括られてしまう事があります。それを「冤罪」と表現しているのです。
冤罪の意味や定義を示すと、「真理に基づかない価値基準で、憶測と経験の集積において妥当性のある範囲に収まらないもののことを指し、見えない因果関係は“無い”ものと扱い、状況証拠だけで判別し、多数意見が採用され易く、許しを与えることよりも、罰則などを適応する為に裁くことを主流に価値基準を置くもののこと」であり、「人生の学びや、価値基準が“悟らないこと”を前提とした、傲慢で横暴な法律という名の愛が不在なものを前提にした認識下で、人が人を罪を測り、刑罰を下した際に誤解を適応すること」を示すもののことです。
日本語は奥ゆかしいものであり、「不合格だったの残念ね」という言葉も「不合格だったの残念だったな(気落ちせずに再チャレンジして頑張って欲しい)」と、「不合格だったの残念だったな(ざまあ見ろ、これに懲りて生意気な面を見せるな)」とでは、括弧の中身が伝わるかも知れないことを考えると、恐ろしい価値観を生み出すものとなります。
阿吽の呼吸のように、想う側が「不合格だったの残念だったな(気落ちせずに再チャレンジして頑張って欲しい)」と伝えても、受け取る側が「うん(残念だって想っていないくせに、いい気味だとでも想っているんでしょう?)」と想う側の励ましが伝わっているようなやり取りに見えても、内心は穏やかではない心境が隠れていることもあるのです。
文脈や行間をどのように読むかは、伝える側が悪いのか、読み取る側が悪いのか? どちらも悪くないのか? どちらとも悪いのか? 考えるととても難しい問題になります。誤解して解釈されて、不当に扱われたと誰かが訴え、それが意図するものと違うなら「冤罪」は生まれます。
それは、日常茶飯事であり、その応酬によってコミュニケーションは続くものです。
想う側が「⑭遺棄(想)」されたと感じて「見捨てているくせに!」となじれば「㉑迫害(受)」を受けたとして、カチンと反射的に応じてしまい「そんな風に想うなんて最低! どんなに心配したと思っているの!!」と言ってしまうと、手がつけられない大喧嘩に発展するものです。
それを傍目で見るなら、言う方も「⑦傲慢(行)」だし、言われて言い返す方も「⑦傲慢(行)」だよね。といつも大喧嘩しては巻き込まれる側として「うるさいなぁ! 喧嘩なんてしないでよ!!」と、行動に移す側もまた「⑦傲慢(行)」な態度であり、互いが誤解し合って責め合う「㉘冤罪(識)」合戦が行われていることになります。
不毛だと解っていても止められないのは「㉒落第してしまう記憶がある(識)」からです。
想う側は「⑧自己犠牲(想)」になって支えてあげているという傲慢な発想がやめられないものですし、受け取る側は「⑮破壊(受)」された解釈や価値基準があり、関わりにおいて欲しっして止まない「①強欲(行)」がある為、それを得たいにも関わらず、「㉒落第(識)」する意識に縛られている為、どうにも大喧嘩を止められる要素がどこにも見当たらず、何十回も繰り返して日々を過ごすのです。
互いを思いやっているのに、互いを傷つけ合う現実を作り上げているのは、互いに誤解している「冤罪」が潜んでいるだけです。発想の閃きや、気づきそのものが間違いであるとして、学んだ「教え」や「法律」さえ幸せにするものではなく、不幸に陥れるものだとする仮説を立てられるなら、「大事にしなければならないのは、家族が笑い合うこと」の一点のみです。
それに到らせられないモラルやルールなど意味は無くなります。
「冤罪」を支えるのは「法律や処罰」ですが、人が人を裁く上で「否定すること」そのものが冤罪を生み出す恐れがあるものです。「否定すること」が出来るなら同時に「肯定へと導くこと」が出来なければ、その「否定」はただの意地悪や悪意に直結してしまうものになります。
「否定する」なら「肯定できるレベルまで引き上げてやる」ことまでセットで関わるなら「㉒落第(識)」した取り残された思いをする人は一人も居なくなり、心の傷はなくなります。
「悪魔」や「邪鬼」を心に宿している人は「否定した後、『自分で考えろ』と救済すること」をしません。突き落とすだけして、その場から居なくなるのです。しかも、否定した側は、「助けてやった」と『⑦傲慢(行)』に、のさばるのです。
帝釈天王は、全てを同時に見てくれています。人が物事における動機が、「①強欲で⑦傲慢(行)」となる行為や、動機に到る主張したい心の声も受け入れてみてくれます。「⑧犠牲で⑭遺棄(想)」されて苦しむ心の声も、「⑮破壊で迫害(受)」されたどうすることも出来なくなった心の声も、「㉒落第で㉘冤罪(識)」に扱われて、立ち直る切っ掛けの全てを失っている心の声も、全部聴いてくれるのです。
帝釈天王となる仏性は、最後まで話を全部聞いてくれているのです。
心はバラバラに聞き及んでいても、救いにはなりません。一つの心が全ての心をまとめ上げて聞き結んでやることで、気持ちが一つに繋がるのです。
ずっと寂しかった。ずっと辛かった。ずっと哀しかった。ずっと解らないままだった。
誰も助けてくれないし、誰もが同じように見放すし、誰だって関わりたくないと離れていくし、誰もが本当のことを教えてくれずに、ただ叩きのめすばかりで立ち直れない姿をまた叩いてくるばかりなのです。
「全員、知らなかったと理解出来ました。」このように宣言するように、気づきを声に出して言葉にすることで、力を得られます。
みんな、解っていなかったのです。
知ったかぶりで、真理も見透せていない未熟な者同士で、より落第者を作り、吊し上げて「ああならないように」と見せしめで、秩序という名の幻想の夢を見させているだけなのです。
救いのない世界を彷徨っているのは、一人だけではなかったのです。
落第を作った側も、また落第なのです。
冤罪を与えられて、その後の人生が真っ当になる筈もなく、冤罪をさらに引き起こし、みんながみんな傷だらけの世界を作るだけなのです。
もう止めましょう。
元より根拠のない世界なのですから。
幸せに気づくには、不幸を生み出さないことです。
ただ、小さい幸せと、小さい幸せを集めた大きい幸せがあるだけで、どちらが優れているものでも劣っているものでもないだけです。
使いどころが適宜当てはまれば、問題にしていたものさえも、問題にならなくなるものです。
人を平和に、人と関わらせたいのであれば、人の数だけ法(真理)をもたらせたら良いものです。
一つの法律や秩序に従わせようとするので、相対的に「従えない者」を生み出し、それが「落第」を生じさせ、同時に「冤罪(落第と扱わなくて良いものを法律という真理でないものを基準にした為に発生する歪みのこと)」になる為、「みんなを幸福にしようとする法律が、一人の犠牲者を生み出すもの」に定義されている為、時間の経過と共に犠牲者を増やし、社会全体が「落第世界」に埋没し、全ての人が「冤罪」で苦しむ現実に到るのです。
「馬鹿みたい」
その通りです。
人は、愛を見失うと、「愛」と「哀」の区別が見分けられなくなるほど「馬鹿」になるのです。「馬」と「鹿」くらい明確に違うにも関わらず、「愛」と「哀」が判別不可能な程に我を見失うのが法律がもたらした人類の結末なのです。
愛してやまない我が子を、「何度言ったら解るの?」と「㉒落第(識)」扱いして、不当に傷つけている事実が見えず「㉘冤罪(識)」が引き起こされていて、「親は、私を愛していない……哀しい」と、哀しみを生み出してしまうのです。
我が子の未熟さを未熟と認めれば済むだけのことを、「未熟にならないで、成熟して!」と否定しながら、それを捻って希望を持たそうとしても、否定した時点で哀しみに突き落とされて再起出来ない心があることに気づいてください。
「⑦傲慢(行)」を止めるには、「親として未熟でいい」と「⑭迫害(受)」するような冷たく辛く当たる「⑮破壊(受)」的な関わりを受容し許すのです。叩いたり、冷たくすることで愛情を取り上げた方がより良くなると思い上がるのです。
傷ついた者同士が冤罪が普通だと信じている場合は、非道な関わりの方が恐怖に震えて立ち向かわなければならないと努力を重ねるものですが、そんなものは精神が「⑮破壊(受)」されて使い物にならなくなれば「⑭遺棄(想)」されて終わります。
人が人を育てるときに厳しさや冷たさは、それを乗り越えたい程の歓喜に繋がる仏性と繋がりがある時には、平気になるものですが、それが見えていない段階では、ただのいじめや逃げ出したくなるものにしかなりません。
それでも人は最初から正しさや心地よさを知って今を生きている訳ではないのです。間違えながら、動けなくなりながら生きているのです。
落第しようが、冤罪で閉じ込められようが、生きて行くしかありません。
不遇を現状を嘆いたところで、救済してくれる他人はいません。
面倒くさいと「⑭遺棄(想)」した自分が自分を「㉘冤罪(識)」の中から救い出さなければなりません。
「神仏などいるわけがない。いるならこの世界がこんな風にしておく筈がない」
と、信じている人の心を打ち砕くには充分な説得力を持つ理論は、人を容易く「惨め」な気分に墜落させ「⑮破壊(受)」に到らせ、神仏に見捨てられたと「⑭遺棄(想)」に支配され、もうどうでもいい「⑧犠牲(想)」に身を捧げ、「㉑迫害(受)」として「自分が信じたばかりにこんな目に遭っている、私なんかが、私なんかが、駄目で、ろくでなしだ」と追い詰めることが日課になり、「㉒落第(識)」するようなヘマや足手まといの愚図な姿を見せては「⑦傲慢(行)」な人たちの餌食になり、罵倒されるのです。「①強欲(行)」な人たちの見世物のような扱いをされ、「㉘冤罪(識)」となる言いがかりを更に付け足されて、苦しみがエンドレスに続くのです。
そしてまた心が「⑮破壊(受)」される体験をするのです。
こうして全てが明らかにされる日が訪れたことを喜んでください。
救済が始まったのだと理解してください。
解らなくても「そうなんだ」と信じてください。
帝釈天王が導いて千手観音の元へと意識を繋いでくれます。
千手観音の救済の手と結ばれました。
愛の力が行き交うようになりましたので安心してください。
「㉒落第〜㉘冤罪(識)」する人も、心が「⑮破壊〜㉑迫害(受)」されてしまった人でも「⑧犠牲〜⑭遺棄(想)」で身動きが取れなくなっていても、「①強欲〜⑦傲慢(行)」な欲望に染まり上がって、我を見失っていたとしても救われます。
神仏が今、心に宿りました。
嘘の心が消え去っていき、真実がわかるようになるものです。
辛く苦しい日々は終わりました。
頑張りましたね。
共に次の世界を作る担い手でいてください。
その前に、しばし休息を受け入れて、お眠りください。
安らかな眠りが全身を覆い、世界を愛で包み込み、清らかさと共にくつろぎを与えてくれるものです。
おやすみなさい。
愛が蘇りました。
帝釈天王のパートは長いので、第一チャクラと第七チャクラとの関わりのみで終わります。
いかがでしたでしょうか?
では、また。
リーディングマスター・まさみち。
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