森羅万象を映す仏 金剛波羅蜜多菩薩⑰
リーディングマスター・まさみちです。普段は心理カウンセラーをしており、見えないものを読み取るリーディングなども教える講師もしています。人が持つ知覚能力を磨けばオーラや、空間に漂う雰囲気を言葉に直すことなどが出来、交友関係における繰り返してしまうトラブルの原因を見つけ、直すことも出来ます。(34/88)
東寺・立体曼荼羅について紐解いております。悟りの段階において、天、明王、菩薩、如来といったものがあり、中央に座する「大日如来」が悟りの姿であり、他の二十体が大日如来の化身だと言われております。
無や空などの真理を開眼すれば、二十体の化身の意味合いもわかる為、その観点(大日如来の視点)から捉えれば、梵天も大日如来、帝釈天も大日如来であり、不動明王も大日如来であり、この金剛波羅蜜多菩薩も大日如来の化身なので、その姿形に表した、言葉に出来ないものを言葉にする無茶な作業を試みております。
波羅蜜多(はらみった)という、仏教は文字を見て意味がわからないことが多く、一文字当たりに込められた情報量が多く、その意味や解釈を詰め込まないと理解が追いつけない部分が多分にあります。この波羅蜜多をざっくりと要約すると、「1つの物事を近くに寄って見る場合と、遠くから離れて見る場合とでは解釈が異なるように見えつつも、それは互いに連動し、繋がり合い、ある法則において結びついているもの」となります。近づいて見ると「温厚な人」に見える個人として好ましい感じがするものの、遠くに離れて見ると「過激な人」に見える群衆の中の人として動き出すことを指します。他にも近くで見ると「とても大きな悩み」と感じることも、遠くから見ると「取るに足らない悩み」と感じることも同じです。物事は一つの言葉の中に全てのものが含まれていることを示しており、「一つの出来事を見れば、全ての事が解る」ことを言い表しているものです。その為、「一事が万事」ということわざのように、一つの物事は万事に通じることを示します。この時、万事に共有されることが一つの物事として解説出来るならば「万象を捉えた」ことになり、それを波羅蜜多として表すものです。
つまり、波羅蜜多は、「わたしが伝えると、みんなが納得してくれた(一事が万事)」が成り立つもので、「みんなが言っているから、あなたも納得して従いなよ(万事が一事たり得ない)」という理屈で通じることはないことを示します。
他にも意味があり、言葉を分解します。
波羅(はら)とは、「物事には相対的に関係し合う力の高低や強弱の働きがあり、一方だけでは成立せず、また突き詰めれば全ての事象は繋がり合う一つのもののこと」として説明出来ます。これは「海の波が起きると、波の高低があり、それには風の強弱が影響しています。風の強弱は気圧の高低差に関係します。気圧の高低差は気温の上昇と低下に従います。気温の上昇と低下は海流と海面温度と相関するもの」であり、森羅万象と呼ばれるもの心の働きを抽出したものです。波羅(はら)は、風が吹き続ければ風車が継続的に回るのは道理であるように、心が「憂い続ける」のは、どこかで「責め続ける想念がある」為で、「憂う心に働きかけても変わらず、責めるのを止めさせると憂いが止まる」関係にあることを「羅(無限ループのようなもの)」を止めなければ「波(と風)は静まらない」ことで、相関する全てのものを同時に収めなれば無くなることはないものです。
蜜多(みった)とは、「物事に働く流れを集めると強くなり、広めると弱くなるもので、小さい力も集めれば大きな力を覆せるもののこと」です。単体で大きな力は動かすまでに多大な力が必要で、動いたら中々止まることが出来ない問題があります。小さい力が結集して大きな力として集まり働き、用事が済めば解散してそれぞれに散り、それぞれの小さい力の作業に戻れることを指します。「怒り」など大きな力を見つけた時は、中々それを止めることも難しいものです。これが単体の力の例えです。小さい力が結集するのは耐えに耐え抜いて、耐えきれなくなって放出する力は「怒り」を凌駕するものとなります。この時、「怒り」に対して「強大な怒り」で潰すこともあれば、「怒り」に対して「強大な信愛」による抱擁で癒やすこともあります。多くの人たちの気持ちを伝達した上で、一人に凝縮することが出来れば、その一人は絶大なる力を放てるものという意味があり、一人が信愛で伝達する思いの力は多くの人を突き動かするものだとする意味もあります。真実でも虚偽でも、そのどちらかが込められるほど伝達する力も人の心を動かす力も増します。しかし、真実と虚偽が対立すると、より強い方が勝つ為、扱いやすい虚偽(エゴ)の力を集中させ、欲望に任せて動く働きに呑まれるものでもあることを示します。全ての流れを掌握して、流れを動かせる力のことです。
波羅蜜多は、全ての事象(万象)を同時に把握しており、力の掛け方や、働きかけ方の作用点を抑えることで、集まった力を解放させたり、滞る力を流動させて巡らせるなど意気することで、変容をもたらせる総合判断力のようなものです。
仏との対話は、つまるところ内に隠れてしまった真心を持つ自分との対話であり、真心がなんとなく解ってくると、今度は自我(エゴ)の掌握が難題として立ちはだかります。仏教では夜叉(自我でありエゴ)と呼ぶように、「人を信じず、暴力やお金の力しか信じず、快楽や生き残る為なら何をしてもいいと、扱われてきた環境での体験による信念のこと」で、不遇な身の上や、劣悪な環境下で、真っ当な扱いを受けてこなかった人が辿り着く境地です。「悪意を隠しもせず、捕まらなければ何してもよく、人を傷つけることの感覚さえ麻痺してしまう程、当人も傷ついており、救いも助けもなく、荒れ狂うしか手立てが無い状態のこと」です。
この夜叉(自我でありエゴ)が、波羅蜜多(固定された因果関係)という何かしらの力の働きによって、結果的に夜叉(エゴ)に至るしかないとしたら、夜叉(エゴ)の立場にある人は本人の意思に関わらずそのような解釈や判断から抜け出せないのです。発達障害や適応障害の人が、本人の自由意思でそうなるのではなく、周りの人たちの想念の相関関係で引き起こされる問題であると伝えるものです。
金剛波羅蜜多菩薩⑰
「人と仲良くしよう」とする教えが作用すると、相対して反作用に「人と関わりたくない」とする想いが出ます。これが10人に「人に仲良くしよう」と教えると、1人の人だけが「人と関わりたくない」と感じてしまい疎遠な態度に出ます。この疎遠な態度に気づくと、改めて「仲良くしよう」と呼びかけます。断れない場合、自分の心に浮かぶ「人と関わりたくない」を正直に言えず、自分に嘘をつき「仲良くしよう」と返事をすると、心が歪み我慢します。「嘘の仲良くしよう」と作用すると、反作用に「自由になりたい」が9人のうち1人に浮かぶようになり、「人と仲良くしよう」としながら、「自由になりたい」と感じるようになる人が出ます。このように、教えは伝達されるほど、歪みや誤解を生み出すようになるもので、継続的に伝わり続くことはないことを表しています。これに「人と仲良くしなくてもいい」という教えを作用させると、相対的に反作用に「人と関わりたい」とする想いが出て来て、自発的に仲良くする創意工夫が生まれることが起きます。教えという力の掛け方を間違えると、窮屈となり、やる気が削がれることがあり、教えはあるものの強制させずに自由にさせると、自分たちで自然な関わりで仲間を形成するに至ります。その自然な流れで生まれたものを大事にし、情報の交流や、感じ方などをシェア出来ればまた違った流れを生み出すことが出来ます。自然に創り、意図的に壊し、考えさせ、また自然に創り、意図的に壊し、考えさせることで人の心の内に何が芽生え、どう感じ、どのようにして行きたいかが生じるようになります。ルールを与えるのではなく、実践させ体験させ、自分の肌身で感じて、直接の言葉や逃げ出せない環境下でコミュニケーションを取ることでしか得られない気づきがあるものです。嘘をつかせて、本音と建て前とを使い分けた関わりを継続させると、人がどのように病むかも話し合えると、自分には絶対に思い到らない感情も、他人には感じるものであり、その辛さやしんどさは相対的に測りにくいものである為、親身になるコミュニケーションがないと解り合えないものでもあります。特に心が病み、夜叉(エゴ)化してしまうと、聞く耳を持たず、暴走してしまうこともあり、助けたくても助けようがない程心を閉ざしてしまうことがあります。夜叉(エゴ)化してしまった相対的な全体の繋がりを捉え、封じ込められている心を受け入れ、理解し、全体の働きかけを緩ませ、解釈の変革を行わせることです。
「絶望しないように希望を持とう」という表現は好ましいとは言えず、意欲的に「希望があるから、希望を持とう」とするだけとは行かない現実があります。人は何かを否定しながらでなければ、自身を肯定することが出来なくなる部分があり、作用が自己肯定でありながら、反作用が自己否定である構図があります。
夜叉、「不信、無視、非難、嘘つき」=「物・金(プレゼント)が全て」
天、 「得する、嫌い、否定、誤魔化す」=「便利が良い物がいい」
明王、「感謝する、自由、懐疑、敵視する」=「役立ち、楽になる物がいい」
菩薩、「尊重する、唯一、信頼、犠牲にする」=「特別な物、空間、時間がいい」
如来、「素直、純粋、清らか、美しい」=「かけがえのない人が全て」
上記は、心の作用と反作用をシンプルに表現したもので、肯定的と否定的が入り交じっています。段階において、人の好意は高まり、広まり、その力は増すものです。
夜叉は、「No,No,No,No」=「誰からもらってもいい」
天は、 「Yes,No,No,No」=「関係者からもらいたい」
明王は、「Yes,Yes,No,No」=「友人からもらいたい」
菩薩は、「Yes,Yes,Yes,No」=「親密な人からもらいたい」
如来は、「Yes,Yes,Yes,Yes」=「かけがえのない好きな人からもらいたい」
こちらのリストは、端的にNoとYesで識別し易くしたもので、物をもらうなど、その対象者が誰のものでも気にしない人から、かけがえのない人まで信愛を感じる度合いがそれぞれにおいて違うことを表すものです。
ここで、Noを示すことで打ちのめされる対象となる人が世界のどこかに存在しており、誰かの拳を振り上げ暴力させる原動力になることを伝えるものです。自分の否定的概念が、他人の否定的行動を支えて力を貸す事実があります。
夜叉同士の世界は、奪い合い殺し合うような殺伐とした社会です。
天同士の世界は、だまし合い、罵り合いとした利己的な社会です。
明王同士の世界は、敵味方に分かれて戦う正義感溢れる社会です。
菩薩同士の世界は、知性的で、計画的で、共存を求めつつ、足の引っ張り合いの社会です。
如来同士の世界は、慈愛に満ち、提供的で、協力的で、芸術性の富んだ笑い合う社会です。
問題は全体像を掌握して始めて解決へと取りかかることが出来るものです。波羅蜜多は、森羅万象全体を掌握するような意識からの取り組みです。自分が見る世界が狭ければ、観察する主観の高さも低く済みます。より広き世界を見ているなら観察する主観も高くなり、途方もない人の心を同時に捉える眼差しを持ちます。それは初めから全てを知っている眼差しがあり、梵の心として捉える力を有しています。それを眺め見ている存在のことです。
菩薩レベルでは、否定を支えにしている心が残る為、自分の方は肯定しても、相手の方から否定されるという面倒くささに悩まされる事があります。
何かプロジェクトを挑むと、どうしても反対勢力など否定する存在は消えることがありません。それも全体を掌握し、仏との対話で解き明かせば如来のように敵を生み出さないよう高められます。夜叉(エゴ)のままの存在は、全てを否定する心で成立している為、如来さえ否定し、打ち倒す存在です。
人の心はどこまでも安定することのない自然そのままです。
それでも、全ての人が如来に到る気づきがもたらされれば、世界平和は可能なことです。一人でも多くの人が、自分の相対する否定的概念で、誰かが傷ついている事実を知っていただけると幸いです。
繋がり方
金剛波羅蜜多菩薩が銀河系ほどのサイズをイメージし、自分と自分と関わる縁のある人たちを含んでイメージし、それを金剛波羅蜜多菩薩の中心に重ねてイメージします。その状態で質疑応答します。
参考事例として紹介します。
自分「家族の中に居場所がありません」
金剛波羅蜜多菩薩「自己犠牲で人助けをするのをやめなさい」
自分「家族の中に居場所がありません」
金剛波羅蜜多菩薩「独り立ちすることだけを考えて生きなさい」
自分「家族の中に居場所がありません」
金剛波羅蜜多菩薩「嘘をついて元気を装うことをやめなさい」
自分「家族の中に居場所がありません」
金剛波羅蜜多菩薩「周りを幸せにしようとして、嫌な思いをさせまいと自分の気持ちに嘘をついて、家族に奉仕するのをやめなさい」
自分「家族の中に居場所がありません」
金剛波羅蜜多菩薩「自分を殺して生きなくていいから、逃げて生き直しなさい」
自分「家族の中に居場所がありません」
金剛波羅蜜多菩薩「他人に“助けて”と告げなさい。力になる人に出会えるから」
自分「家族の中に居場所がありません」
金剛波羅蜜多菩薩「ここでこれまでの心を死なせ、生まれ変わり始めなさい」
自分「家族の中に居場所がありません」
金剛波羅蜜多菩薩「もう大丈夫です。救われていますから。『助かりました』と言ってご覧なさい」
自分「助かりました」
金剛波羅蜜多菩薩(微笑んでいる)
といったやり取りが浮かぶかも知れません。
居場所や、生きる気力が持てない人の感覚はとてもしんどく辛いものです。守られるべき家族との相性が噛み合わないと否定(No)に閉ざされてしまい、正常な判断さえ持てなくなることがあります。
家族に囲まれることで自殺に追い込まれてしまう場合もあります。この波羅蜜多は、無意識によることが多く夜叉(エゴ)で生きる感覚の人には、如来で生きる人の感覚が互いに理解出来ない問題があります。全てを否定で見る人と、全てを肯定で見る人では、肯定する方が力尽きるものです。如来は、如来の素質があるだけで、天、明王、菩薩の解釈も備え合わせなければならず、ただ天然的に人がいい人というのも如来要素として持つ人がいます。
環境が悲惨だと、その不遇さから抜け出す道が見えてて選べないというのも、この波羅蜜多の問題にあります。
自分の家族がおかしいかもと感じられるようでしたら、コメント欄でもいいので相談してみてください。
いかがでしたでしょうか?
どうにもならない、人と人との隔たりの謎を解くべく生きています。
解決出来るのかどうか? 今生は、見えない世界のカラクリを誤解を生み出すことになるとしても、伝え広め、世界を変える一助で在りたいと願っています。
心理的には様々なことが解っても、現実的なアプローチは未熟なところが多々在ります。それでも、問題は一つ一つ解決して工夫して取り組んで行きたいと思っております。
応援してください。
では、また。
リーディングマスター・まさみち。