禁戒と因果律の仏 金剛法菩薩⑭
リーディングマスター・まさみちです。物事を覚えるには、「やっていいことと、やっては良くないこと」を教わるものです。しかし、「叩いてはダメ」と禁止されていながら、「叩かれて気づきました」という出来事が起きると、禁止事例が無効の時があると、「戒律」の絶対性が揺らぎます。世の中はそんな事ばかりで、何を支えにして物事を考えていけばいいのか本当に解らなくなるものです。その時「真理」というものが存在し、それに導かれることが出来れば様々なことがわかり、戒律に取って変わり、とても有効なものとして人生を生きられるようになったので、それを紹介する記事を書いています。(31/88)
東寺・講堂に奉られる立体曼荼羅が21体あり、その数に意味があるとして、リーディングで降ろされるナンバリングに従って、記事を書いています。真言宗の中では別の数字が知らされているかも知れません。実は何年か前にもナンバリングしたことがありましたが、その当時と現時点ではナンバリングが違います。当時は大日如来のなんたるかが解っていない段階だと、リーディングミスというものを引き起こします。ここで紹介する内容も、私以上に覚醒している方からしたら、間違っているかも知れません。
心は主観性の世界ですから、より意識を高く、幅広く、深く読み解き、過去も未来も全てを見透すことが出来る人を、それと同じ事が出来ない人が理解出来る筈もありません。その為、上に立つ人ほど孤立して同じ世界観を共有出来ない感覚を持つようになります。
これは、会社の社長など組織のトップは孤高だという表現と似ているものです。
上に立つほど責任を負わされ、下に従う協力者たちの生活などを支える必要がある為、自分の事よりも協力する人たちを大事にするものです。この時、トップが自己犠牲で下を支えると、下も自己犠牲で会社を支えることを強要されてしまうため、どこかで破綻してしまいます。
どうしても禁戒など、規則を設けると違反する者への処罰が伴います。法を設けながら、それを実行しなければ腐敗を生み、誰も法を守ろうとはしなくなります。
仏教における「法」は、法律のことではなく「真理」という、目に見えない空間にある無限の叡智(えいち)から降ろされた普遍的な「智慧(ちえ)」のことを示します。これは、問いに対して、答えるものは「その瞬間ごと」に変わるものであるものの、時代を越えて同じことを告げる普遍性を持つものでもある為、「書物」に残されることがあります。しかし、「書」に残された時点で、それは偏りのある教えとなる為、教えは口伝でなければ与えられないとも教えているものです。
物事は常に二つでない一つの側面が在るため、胎蔵界曼荼羅と金剛界曼荼羅という二つの世界が一つに成って現れていることを教えてくれます。本来の学びや、意識の使い分けや、行間や文脈の中に本音が含まれていることを嗅ぎ分ける力などは、教えつつ、教えずに見出せるものとなります。
胎蔵界曼荼羅
金剛界曼荼羅
教育など教えが無ければ学べません。しかし、教えに固執すると事実を見落としたり、見誤ってしまうことが起きる為、教えを持ち歩かぬよう手放しておく必要があります。
真理という法を学ぶことは、何が真実で、どれが虚偽かを見抜くことが出来るか? 出来ないか? それに尽きます。寺には仁王像が立ち、阿吽の像として全てを明らかにする気持ちのある者だけ通ることを許されているニュアンスが込められています。
この阿吽は、身体的反射反応で「阿(わかるけど、わからない)=No」ことを示し、「吽(わかるから、わかる)=Yes」ことを告げているニュアンスのものです。全ては身体が答えを知っており、「この身に尋ねれば全て導かれる」ことを知らせているものです。故に、「即身成仏」という教えがあり、「この身が仏のそのものだとするなら、身体の喜ぶことに進み、喜ばぬことを課さぬようにし、心が喜んでも身体が拒絶することがあるなら、身体の仏は何を告げているのか聞き、師や友が親身になってくれている事実は理解出来ても、この身体が拒絶するのは異常だと認識するなら、この身体の仏はどんなサインをもたらしてくれるものなのか聴かなければならないもの」なのです。
否定した方がいいこともあれば、否定したままではいけないこともあります。
言い聞かせで、教えに従ってもどこかで限界が来て、心が壊れたり、身体が病に倒れては教えに従う意味そのものがなくなります。盲目的に教えを信じて、強制させることが法(真理)であるはずがありません。
けれどもどこにでも拙さはあるものです。
未熟な教えや、制度は存在し、それに気づいては修正していくものです。
主体性を重視するなら、「嫌がることはしない」教えがあるなら、「嫌がる限り、自分の主導権を失わずに済む」ものですから、嫌がる力が強いほど我が物に出来る自我(エゴエゴ)の解釈があります。
相対性を重視するなら、「嫌がるなら好む道を知っているから相談して進もう」となる為、主従の関係は常に入れ替わり、上下であり、対等であり、一方的に支えることも、一方的に救い上げることもあり、親友という仏が、自分という私を見捨てることもなければ、諦めることもない関係であることを示してくれるものです。その仏が親であり子であり、上司であり、部下であり、通り過ぎの他人であることもあり、自分が仏として関わることもあります。
こうした法(真理)について話すことでの重要な点は、「願い通りに生きている」ことであり、「働きかけに世界が従ってくれるものであるかどうか」に寄ります。
困っていることを人に告げたら、それを最良な方法で改善されることです。
法(真理)に従う場合と、自我に従う場合、法(真理)の方が強くなくてはなりませんが、歴史を見ても寺院が焼かれたり、破壊される事例があるように、自我が徒党を組めば、平等と慈悲を説く者たちも武力で対立することも多くあります。
坊さんが修行の果てに、自身の寂静の境地を獲得したとしても、相談する相手の苛立ちを寂静へと導けないなら、苛立つ人は坊さんに失望し、仏教に落胆し、宗教を敵視するようになるものです。
関わる相手の鎮まらぬ心を穏やかに変えられる力があるなら、人は見えないものを信じるものです。法(真理)とはそういうものなので、それを実践してみせる僧が居なければ、仏も居るはずが無いと呆れられてしまうのが、心情というものです。
ですから、仏教など宗教に携わる者は、悩み多き人を救い上げる力を持ち合わせていなければ呆れられて当然であり、役立たずだけど価値がありそうな骨董品として喜ばれるものでしかないものです。
利益がなければ見向きもされなくなるのは、物理的に自然なことです。
不要なものを「必要だ!」と嘘つくことはないけれど、自分は不要でも、誰かには「必要なもの!!」であることもあり、それを「捨てられた」と解釈するのか、「預けられた」と見るか、「託された」と受け取るか、「拾った」と見るかによっても価値観は大きく変わるものです。
自分で自分を傷つけるような解釈を持つこともあれば、自分を喜ばせるように見ることもあります。傷ついた自分も、あなたのことも、みんなのことであっても、誰のことでも、みんな私自身だとするなら笑い合えるように見てあげる方が嬉しいものです。そんなみんなが誰に対しても笑いかけられるような歓喜してしまうことを法といい、真理として扱うのが仏教なのです。
金剛法菩薩⑭
物事は人の数だけ真実があり、その人にしか解らない思いがたくさんあります。相手から話を聞かなければ、相手のことは解らず、自分から打ち明けなければ届かぬ思いもたくさんあります。話してくれていても聞けていないこともあれば、話していても伝わらないこともあり、意思疎通の難しさはどの時代でも課題となるものです。“不快さ”を示したからといって、実際は嫌っていないのに「嫌われた」と自然消滅のように物言わずに立ち去る人も居れば、“不快さ”を露わにしても、「嫌っている事実」がまるで伝わらずに付きまとって来る人も居ます。「本当のこと言って」と、言われたから“感じたまま”を告げて泣かれ、縁が切れてしまうこともあれば、「本当のこと言って」と、言っても改善に向けての努力が始まることもあり、縁が深まることもあります。人付き合いが悪くならぬよう、相手を気遣うことが「よそよそしい」と悲しまれ、フレンドリーにすれば「馴れ馴れしい」と嫌がられるなど、誰とどのように距離を取ればよいか深刻に解らなくなるものです。客観的に状況を分析して、困っている人は助けるように努め、悩みは嫌がらず傾聴に努め、難題があるなら協力して解決まで付き合うように努め、利己的にならぬよう嫌なことでも我慢して解放されるその時まで努め、一生懸命に生きるように努めあげればいつか幸せになれる日が訪れると信じて頑張り抜いているものです。自分に負けぬように、社会に倒されぬように、批判に屈しないように、人生を諦めぬように歯を食いしばっていても、「安らぎ」というものから遠く離れてしまっている気がするものです。ルールに従い、モラルに従い、家族に従い、禁戒に従えという自我(エゴエゴ)に従ってしまう事実が見えなくなるのが心情です。こうした常識に従い、善悪のものの判断に則り、裁き、罰し、刑に処する真似を繰り返してしまうと、転生の中で逃れられない無限ループを形成してしまうことがあります。多くは「一度もミスは許されない」という脅迫観に悩まされるか、「全力で挑めないヘタレ」になるなどの意気地なしの問題があります。その優れた緊迫感の中でも頑張り通すどこかの自分から、軟弱さを集めたヘタレの自分まで、丸ごと全部を掌握した上で時間を超越した世界から見下ろすことで、関わりを持つことが出来る観点があります。法(真理)に導かれ、法(真理)と照らし合わせ、梵(純粋さ)から導き出される未知なる結果を望む自身の答えを知っていると扱い、今を超越することで生まれ変わらせることが出来るものです。全てを「無」の境地から見てやることで「全てを紐解くことが出来る」と実践して解き明かせる存在のことを金剛法菩薩といいます。
仏像の右手が手の平をこちらに向けて「待った」をかけているように見えます。これは、人とのコミュニケーションにおいて、「間を取る」必要がある時などは、「考え込む時間」を要する必要があり、言葉を選んだり、解答を探す間のことであったりします。法(真理)に照らし合わす時間でもあり、どのようなものでも、初めて体験する出来事は、理解が出来ない為、「待った」をかけるものです。
時間をもらっている間に、問いに対する答えを導き出せるなら、話し出したとき答えが授かり与えられるようになります。
これが自我の思考時間であることもあれば、真我に繋がり閃き降ろす真(間)でもあります。
繋がり方
金剛法菩薩を∞(無限のマーク)に18体並べます。片方の円に9体ずつ相対性であるように配置する感覚で、1体が他の17体によって束縛を請け合っているとします。自分は除外されている世界に閉ざされているイメージを持ち、その両方を同時に捉えています。
参考事例を紹介します。
閉ざされた自分①「同じ事を繰り返してしまうのを止めたい」
金剛法菩薩「自己犠牲で生きるのを止めるといいです。止めるで止められます」
閉ざされた自分②「止めます。同じ事を繰り返してしまうのを止めたい」
金剛法菩薩「人のせいにして生きるのを止めるといいです。止めるで止められます」
閉ざされた自分③「止めます。同じ事を繰り返してしまうのを止めたい」
金剛法菩薩「悲しみを怒りで表すのを止めるといいです。怒らずに素直に話すで話せます」
閉ざされた自分④「素直に話します。同じ事を繰り返してしまうのを止めたい」
金剛法菩薩「弱い人を永続的に守るのを止めるといいです。弱さを認める人が強いと教えるといいです」
閉ざされた自分⑤「私は弱く、情けなく、無知で、卑怯です。私は強くなりました。同じ事を繰り返してしまうのを止めたい」
金剛法菩薩「自虐思考を止めるといいです。自己評価は満点だとすれば、満点の判断力で生きられるようになります」
閉ざされた自分⑥「私の自己評価は満点です。同じ事を繰り返してしまうのを止めたい」
金剛法菩薩「意気地なしを止めるといいです。全て間違っていたと認めることです」
閉ざされた自分⑦「全て間違っていました。同じ事を繰り返してしまうのを止めたい」
金剛法菩薩「悪意を持たなくて良いです。純粋無垢で生きると決めることです」
閉ざされた自分⑧「純粋無垢です。同じ事を繰り返してしまうのを止めたい」
金剛法菩薩「人より優れたいと願わないことです。自分が優れた仏そのものだったら、何を為すかを想像することです」
閉ざされた自分⑩「優れた仏そのもので想像して生きます。同じ事を繰り返してしまうのを止めたい」
金剛法菩薩「全ての人を素晴らしく、素敵で、格好良く、美しい心の持ち主だと見つめることです」
閉ざされた自分⑪「全ての人は素晴らしく、素敵で、格好良く、美しい心の持ち主だと見ました。同じ事を繰り返してしまうのを止めたい」
金剛法菩薩「嫌いな人をイメージして、好きですとイメージすることです」
閉ざされた自分⑫「嫌いな人に“好きです”とイメージ出来ました。同じ事を繰り返してしまうのを止めたい」
金剛法菩薩「怖くて動けない理由を知り、何も問題ないと気づくことです」
閉ざされた自分⑬「“愛されている”と知るのが怖いとわかり、何も問題なくなりました。同じ事を繰り返してしまうのを止めたい」
金剛法菩薩「幸せを感じたくないと拒むのを止めるとよいです」
閉ざされた自分⑭「幸せを感じます。同じ事を繰り返してしまうのを止めたい」
金剛法菩薩「嘘をつくのを止めるといいです。“ちょっとした嘘”の怖さを思い知ったなら止められます」
閉ざされた自分⑮「“ちょっとした嘘”がどんなものか思い知りました。同じ事を繰り返してしまうのを止めたい」
金剛法菩薩「“死んだら終わる”と決めてかかったままにするのを止め、「生きる」に変えると良いです」
閉ざされた自分⑯「死んだら終わる”を無くして『生きる』にしました。同じ事を繰り返してしまうのを止めたい」
金剛法菩薩「“全否定”を止めて“全肯定”にしてみることです」
閉ざされた自分⑰「“全否定”を止め“全肯定”にしました。同じ事を繰り返してしまうのを止めたい」
金剛法菩薩「“少しの望み”を捨て、“何一つ望みは無かった”と事実を受け入れることです」
閉ざされた自分⑱「“少しの望み”を捨て、“何一つ望みは無かった”と受け入れました。同じ事を繰り返してしまうのを止めたい」
金剛法菩薩「“神仏が存在し、それは人の美しい心のことであり、純粋な思いやりのことだと解らなくても『その通りです』と“はい”と肯定することです」
閉ざされた自分⑲「“神仏は存在します”『その通りです』と同意します」
金剛法菩薩「自分以外が神仏だと受け入れることです」
閉ざされた自分⑳「はい」
金剛法菩薩「自分だけが神仏で、みんなが自分の欠点を映し出す自分だと受け入れることです」
自分という私㉑「はい」
金剛法菩薩(微笑んでいる)
といったやり取りが浮かぶかも知れません。
金剛法菩薩と繋がり、無限ループのカルマからの抜け出す問答が出来るなら、間違いなく悟りの42位の段階に入ります。真理に繋がり、複雑に絡み合う複数の無限ループを同時に捉える力が必要になるからです。
この問題の難しさは、問いかける相手の無限ループの課題が、自分にも同じ無限ループの課題がある為、退けようとしたところで回避出来るものではありません。
魔羅(マーラー)とも呼ばれ、薬師如来における十二神将が取り組む課題はこの領域の問題があります。この無限に繋がり合う観念は、互いに信頼していても外すことが出来ない苦悩となるだけの問題です。
素質を得るヒントとしては、転生を共にし、来世でも地獄に墜ちようとも「付き合うよ」と笑って窮地に陥ることが出来る人か、どうかが悟りを開く可能性の有無に繋がります。言うだけでなく、実践する思いも必要となり、地獄に付き合ったところで、そこから回復する道筋を作れなければ意味が無いものです。付き合うだけでなく、助け上げるところまでやる意思を、愛する人の為、家族の為、友の為、見知らぬ苦しんでいる人の為に尽くし、貫き通すことが大事になります。
この金剛法菩薩のやり方を身につける前に、他の菩薩や明王や天のやり方を習得する方が先です。
西の広目天④、西の軍荼利明王⑧、西の阿弥陀如来⑪、西の金剛法菩薩⑭が連動していることからも、広目天④や軍荼利明王⑧を繰り返し修得できるよう努めることです。
いかがでしたでしょうか?
転生の学びは混乱からどうやったら抜け出せるかの抜き差しならないものです。
文章でいくら表現出来ても、自分自身の方が悟っていなければ意味はありません。
過去世も読み解けるリーディング能力は、自分が偉人の生まれ変わりという現実さえ突きつけてくることがあります。
仏教徒でもなく、自分のリーディングを宗教だとも思っていないものの、偉人の生まれ変わりや、偉人のカルマによる地獄落ちなども体感すると、これだけのことを紐解けるものだと理解していただければ幸いです。
有料記事です。
応援していただけると嬉しく思います。
現代社会の問題を少しでも改善に向けて、天命に従って活動しております。
いかがでしたでしょうか?
では、また。
リーディングマスター・まさみち。