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はじまりの愛 如意輪観音

リーディングマスター・まさみちです。お遍路歩きを再開して二日目です。仏の繋がり方と、寺からのメッセージ(地球“テラ”からのメッセージというダジャレを思いついたのはナイショです)を伝えております。やり方が山のようにあるのが簡単に想像出来るかと思います。心の対話の方法はいくらでもあり、普段のやり方とは違った思考法をするだけでも、見落としてた愛を見つけられるので、是非とも取り組んで見て欲しいと記事にしています。(83/88)

六道輪廻という転生を繰り返して学ぶ、無限ループの罠みたいな世界観があります。

六道輪廻という仕組みがあるから、六観音を頼ると抜け出せるから、自分の中に輝く仏性を掴んでください。

六観音の仏性を解り易くいうと、こんな仏像みたいな格好の自分が、自分の心の奥底にある真心の領域に在るので、その真なる“わたし”ともいうべきものに従って考えてみようとする方法があるから、やってみて。という感じなのです。

といった具合に問いかけているのが仏教ではないかとリーディングすると出てくるので、「こういう解釈で自力を育てろ」って言っているみたいだよ? と扱うわけです。

仏教を学ばれると、色んな行法や、知識がたくさん得られるので、道徳的には「もっとも」なことが解るようになります。しかし、中々仏というものがどういうものか、今ひとつ掴みきれないところがあり、掴んでいてもおいそれと披露できない問題もあります。

尋ねて聞く相手が、話を聞き入れ受け取る姿勢があるのかどうか、それも重要な点になるのです。どうしても人は相手の言っていることが「正しい」ことかどうかを測ろうとしてしまいますし、「そうなんですね」と肯定的に聞き入れようとした姿勢でいても、100%受容した「愛」の眼差しで見ているか? というと、そうでもないので判別そのものが困難なものです。

悟るほど、人との関わり合いが必要とは思わなくなる傾向が確かに存在し、悟っても人との関わりを保とうというのは、それはそれで因果のメカニズムがそのように働いているからそうなっているというしかない部分もあります。

私たちの人生は独立しているようで、互いに繋がり合い、その相互作用で意識が動いているものなのです。それでも「自我の確立」というように、他者からの影響がない方が好ましく感じてしまう為、「嘘や虚偽」の理屈で価値観を全否定することで他者との境界線を引き心を閉ざすことで思考の自由を得られるものです。

今回は如意輪観音(にょいりんかんのん)について伝えるもので、天界という六道輪廻から抜け出せなくなっている人への仏性のお話しです。

地獄道 - 聖観音 
餓鬼道 - 千手観音
畜生道 - 馬頭観音
修羅道 - 十一面観音
人道 - 准胝観音(じゅうていかんのん)
天道 - 如意輪観音(にょいりんかんのん)

地獄界や餓鬼界と連なる先に、天界が存在している為、学ぶと「ここも地獄と変わらない」ことを告げられてしまうものです。互いに支え合い、転生単位だったり、精神的自立や、経済的独立を境にして、住まう世界が変わることがあります。

生きていてもグルグル巡るのです。

天界においても地獄と表現するのは、「金はあるけれど、人望は薄い」というものや、「優しく慕われて人気があるけど、権力が手に出来ない」など、「惜しい」というイメージの世界です。(親は出来が良いが、子がね、台無しにするなどのことなど。手の及ばぬところに問題が発生するが、あくまで他者なので、自分のことと思えないのが天界の苦しみです)

本人は、それが普通であり自然体であるので、「気にも留めない」という部分に入るので、「問題を問題としなければ、問題にならないから苦しくない」という理屈がまさに適応される価値観の世界です。

現世の問題の根源は、「自由になる金があるか? ないか?」という物欲的な価値観に集約出来てしまう事実が多くあります。

心の問題以外の幸福度は、お金があれば解決出来る錯覚を得ます。

その錯覚を具現化した世界観が「天界」である為、他人から見られて「羨ましい」と感じられる世界観です。

他人から見られての世界観である為、当人自身は悩み多きものとなります。

しかし、悩みを他人に打ち明けなければ「問題がある」と他者に認知もされないので、好印象を抱かせることが可能です。そして親身になって話を聞き入れることに徹して、とりわけアドバイスも改善提案も何も伝えずにいると、相手は勝手に信頼してくれるようになり、もっと何でも話してくれるようになるのです。

上手な聞き役に自然体でなっている人が「天界」の住人くらいにイメージしてください。

それでも、辛く苦しいものがあるので、どこかしらにヘルプを求めるのです。

ただ、心から改善してくれる人に出会えるならいいですが、六道輪廻からの脱出させるような如意輪観音(にょいりんかんのん)の化身となってアドバイスしてくれる存在は少ないものです。

如意輪観音(にょいりんかんのん)とは、「事実を告げ、認知の歪みを正し、未確認情報にも関わらず憶測にて結論づけた思考状態であることに気づかせ、言葉と接触によるコミュニケーションを大切にし、解き明かせないときには互いに干渉し合わないことを告げ、未熟な者同士でも繋がり合っていけることを諭すもの」のことです。「先に行き、先んじて知り、体験から得られる事実と、体験しない先入観と、体験しても誤解する価値観があると知っており、歪んだ解釈の中からでも正しいものの見方が得られることを導くことをし、普遍的な反応を大切にするように促し、人が持つ無垢な心が美しく具現化したもの」のこととする仏性です。

如意輪観音(にょいりんかんのん)は、未経験の心では現れないものであり、失敗や挫折の苦しみにもがいた後に顕現する仏性です。

それ故に、知識や経験が大切になり、若い段階は「大いに遊べ」というものにも繋がり、自身の内在する「好きなことを存分に果たす」ことを推奨するものだと解るようになります。

この「好きなこと」一人の特別な親友や、愛する異性に告げられるかどうか? 十人の家族のように付き合える友に告げられるかどうか? 百人の仲間に告げられるかどうか? 千人の関係者たちに告げられるかどうか? 万人の無関心の人たちの前で告げられ、関心を抱いて応援して貰えるかどうか? それが一つの基準とした解釈があります。

特定の仲間内だけで「好きなこと」は邁進出来ても、それ以外では臆病になる人がいます。

「好きなこと」はたくさん手を広げて、体験して持っておくと良く、「どれが寝ても覚めても好きかもしれない」というものを見つけ出す為に経験を重ねていく最中も楽しいものです。

それを応援してくれる環境である「家族」かどうかというのもあります。

その「家族」真剣に胸の内を見せる力も必要なのです。

それが仕事などに繋がるには、より多くの関係者や、無関心の人たちの前でも恐れることなく「好きなこと」「したい!」「やります!」宣言していく力が、生きて行く上ではとても重要な力になり、挫折した後で如意輪観音(にょいりんかんのん)がサポートに入り、底力を鍛え直してくれるものだとイメージしておいてください。

如意輪観音(にょいりんかんのん)のサポートの在り方。

一、前提の姿勢の心を、マイナス感情・ネガティブ発想をゼロにするように促します。
二、ポジティブと、よりポジティブを自分自身で決めさせる訓練を繰り返しさせます。
三、力で捻じ伏せられる世界であることを承知させるように促していきます。
 三の一、主体性があること。ないと潰されます。
 三の二、利用価値があること。ないと捨てられます。
 三の三、家族を他人として礼節をわきまえて接すること。ないと壊されます。
 三の四、犠牲や我慢で動かぬこと。やると破綻します。
 三の五、自活能力があること。ないと思考が歪みます。
 三の六、誹謗中傷に挫けぬこと。愛する力がないと閉ざされます。
 三の七、邪魔される心を育てぬこと。面倒見がないと眠り続けます。
四、自分の喜びが何であるかを気づかせること。
 四の一、小さい達成感を積み重ね、大きな挑戦を果たし大きな達成感を得ること。
 四の二、達成する未来から逆算して、今何をすればいいかを考え、それを実践すると出来るようになるとわかること。
 四の三、一人で取り組む時、二人で取り組む時、みんなで取り組む時では、応援の多さや少なさで結果が変わることを学び、協力体制を築き上げることが達成への道だとわかること。
 四の四、過去の失敗や挫折を直視し、どんな気持ちが達成には邪魔になるのかを知り尽くし、それらを否定せずに受け入れることで達成しやすくなる事実を見つけること。
 四の五、物事に取り組む時に湧き上がる不安や心配事を無視せずに取り組み、達成したい気持ちとは真逆の思いを吐き出して、不安や心配の正体を突き止めた後、その不安や心配が現実の物になるのかどうか考え、ならないとわかると達成の道へ入れること。
五、解っていることに気づかせること。「解らない」という表現は「どこかの仏性であるわたしは解っているけれど、小さい自分は、解らない」というように分解して解説出来るものです。「解っている」のも「仏性のわたしは解っていると、照らし合わせて遜色がないと解るから、“解っている”と表現するもの」と気づいていることに気づかせるもののこと。

このように、未熟な自分に論理的な視点を与え、固執している感情は、「損だとわかっているのに、やってしまう」というものは、「得に違いないから、決して止めたくない」とした発想で切り込むのが如意輪観音(にょいりんかんのん)です。

如意輪観音(にょいりんかんのん)は、「持ち合わせている経験では、改善出来ないから、今の現実に到っているのですから、経験値はゼロ、もしくはマイナスなので、無知であることを認めなさい!」断罪するような仏性です。

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如意輪観音(にょいりんかんのん)の仏像は、片膝ついて「その言い分も解るけどね〜、愛がそこにあるのか、愛がそこにないのか、見定められる力がないってことは、理屈や感情論を肯定してあげても、一時的な満足感で終わるだけで、何も変わらない六道輪廻のままでしょ? それは良くないと思いませんか? 良くないと思ってくれる? 愛があるのが馬、愛がないのが鹿だとすると、あなたのパートナーは、馬に見える? 鹿に見える? 見極められないなら、愛を知らないお馬鹿さんになっちゃうけれど、それくらいもうろくしている事実を受け止められるくらいの正気はありそうなの?」というようなメッセージを送りつけてくる、絶望感しか与えてくれない仏性です。

絶望は、他に希望がない状態でしか成立しない感情なのですし、自分の価値観に頑固にしがみつき、執着してしまっている状態の中ですから、基本、何言っても聞かない状態から始めるしかないものです。

その絶望的な状況下で、この文章が読めるなら、如意輪観音(にょいりんかんのん)の声は届き始めているということになります。

この論理的解釈を自分で想像し、その仏性に従える行動力を持てると、天界という地獄から抜け出せる道が開かれます。

こうして、六観音に導かれるようになると、地獄界は、地獄道に変わり、餓鬼界は餓鬼道に変わり、畜生界は畜生道に変わり、修羅界は修羅道に変わり、人界は人道に変わり、天界は天道に変わるのです。

仏が優しいだけではなく、厳しいのも仏です。

邪鬼や、悪鬼や、邪魔や、悪魔など、それらを知り尽くしている存在であるから、救済も可能なのです。

邪鬼や悪魔の囁きを自分の自我であり、真っ当な判断力だと信じて疑わない状態では、これら記事も読めない状態になるのです。

それ故、世の中の仏教の解説や、要約された著書などは、これら邪鬼や悪魔でも読めるように書いているのです。邪鬼や悪魔でも読めるということは、それらを払う力が備わっていないことです。

力がある経典などになると、読んだら最後、邪鬼も悪魔も消し飛ぶことになるので、「読む覚悟」の方が必要になるのです。しかし、今時「覚悟を持たせて読む」という発想より、「読んでやっても良いから、読みやすいようにしろ」とした姿勢で要求してしまい、「どうやったら、みんなに解り易く伝えられるのだろう?」と感覚的に共感が得られるようにするには、邪鬼、悪魔と敵対しないような文章に留めるものです。

結果、覚悟のない者が読む書物や、経典がどれだけ優れていても掴むことが出来なかったり、邪鬼や悪魔にいいように眠らされたり、気が逸らされたりして、「読んだこと」にされてしまうものもあります。

天界の問題は、「わざわざ事を荒立てる必要などない」という理屈に封じられてしまうことです。「あなたがする必要があるの?」「どうして人の迷惑を考えようとしないの?」「嫌われていることしているの解っているの?」という、マイナス感情・ネガティブ発想を伝えてあげることが相手の為だと信じて疑わない身内がいるものです。

このような解釈は四方の全てが封じられて、出口がないので天界から抜け出せません。抜け出すには、自滅覚悟で、地獄界や、餓鬼界や、畜生界に墜ちることです。

天界からすれば、「ほら言ったじゃない」「自業自得だよ」「今更、謝っても遅いよ」と、羨ましがられる世界があるのに、それを自分でぶち壊して起きながら、助けを求めてくるのは「虫が良い」と感じてしまうので、助けてくれないものです(助けても、出ていく前の苦しみが再燃するだけで、何も変革していないのです)

元より六道輪廻での話題とリンクする繋がりで、六観音を紹介しているものですから、輪廻転生の無限ループのジレンマですから、そんじょそこらの解釈では脱出できる代物ではありません。

仏性に気づいて、それに導かれていくようにでもしないと抜け出せない事を示しているのです。

あなたの周りにもありませんか?

①「地獄・動けない」「天・人並みに自立して生きて、役に立つ人でいなさい、人を信じては駄目、騙されるから」=「地獄・絶対に天のようになってやる→←天・ああなりたくないを心から無くす」と動けるようになります。

②「餓鬼・いらない」「天・好きに生きたら良い、我慢しなくて良い、責任と義務は果たして」=「餓鬼・天の生き方に染まってやる→←天・絶対あなたの為に号泣してみせる」ことが出来たとき、「ありがとう」が言えるようになります。

③「畜生・終わりだ」「天・自由にしたらいい、何にでもなったらいい、プラス発想で生きて行こう」=「畜生・あらゆる悪事を天に(イメージの中で)復讐してやる→←天・あらゆる苦しみを一手に引き受けたイメージに陥り、恐怖の悲鳴をあげてやる」としたことが出来ると、「ごめんなさい」が言えるようになります。

④「修羅・知らない」「天・悪いことさえしなければ何してもいい、人を傷つけるようなことさえしなければ好きにしたらいい、(身内に)迷惑をかけなければいい」=「修羅・一切天と関わらず、良質な環境を捨てでも自分の力で生きてやる→←天・嘘をつかせないこと、双方同時に思考すること、未熟なのは自分だと認め許しを請うこと」が出来れば、「わかり合える」体験が得られます。

⑤「人・無視する」「天・力になる、味方だよ、安心してね」=「人・天の前から消えていなくなり、連絡さえつかないようにする→←天・力が無いことを認め、心の中から敵対する存在たちを味方に変え、自分の中にある不安を無くす」ことが出来たら、「信じ合える」体験が得られます。

このように、①地獄界〜⑤人界を、①地獄道〜⑤人道の世界に変えるかどうかは、如意輪観音(にょいりんかんのん)の始め、六観音の仏性と対話する気持ちがあるのかどうかです。

これまでの時代は、自我である夜叉の心を大切にしてきた側面があり、夜叉が大将に学びを深めて認識が改まっている人もいますが、基本の世界観が「不信感」が強く、「犠牲精神」を要求したり、自ら尊いものだと言い聞かせて生きることになっています。

元から悟れるような心の健康な状態に至れないように仕向けられているのです。

過去世など忘れることなど、本質的には存在しないとするなら?

忘れることを基準にした生き方と、全部覚えているのが普通だとする生き方だと、脳の発想や解釈がどのように機能するかを考えてみることです。

思考を制限がかけられた状態で、思案しても、何も閃かないものです。

前提が間違っていると、何一つ気づけないのです。

特に「生まれてから,この方、得た情報が全部間違って、すっかりエゴに騙されて眠りこけている状態なら? 本当に真実ってあるの? 人の数だけ真実があるってことが答えではないの? 人の数だけ現実があり、共通していると思い込んでいるだけで、意思疎通が寸断されて会話が成立していると思い込んでいるだけの、コントのような世界を生きているってこと?」と、ここまでは考えついても、ここから目覚められるかどうかは、使う脳の働かせ方が違うのです。

故に、仏性に気づかせる仏像があり、その仏像へのアクセスする為の仏教がある筈なのですが……、なんとも見つけ出せない事態に陥っているのでどうしようもありません。

こうして、気づいた者から「伝えてみる」というアプローチをするだけです。

愛はいつも側に居て、真実を告げてくれているものです。

先達の人たちが間違っているなら、自分で自力で目覚めていくしかありません。

みんな、人の夢の世界で生きているのです。

この悪夢の共通の概念は「お金」です。

お金の幻想から目覚められると、真実の世界への扉が開かれます。

新しい世界へ、ようこそ。

全ては、ここからはじまります。


いかがでしたでしょうか?

では、また。バイバイ!

リーディングマスター・まさみち。


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