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導きの仏 阿閦如来⑲

リーディングマスター・まさみちです。普段は心理カウンセラーをしております。『見えないもの』までも扱い、霊的な気づきや課題も伝え、転生の中で抜け出せなくなっている輪廻の問題までも紐解いて、人生を豊かにするお手伝いをしております。心の中のことでも「行動する」と、現実が変わることを実証しており、内面のアプローチであっても現実創造は変えていけることを教えています。(36/88)

東寺・立体曼荼羅について仏像に秘められた情報を、リーディングで読み解くと何が閃き降ろされるか実証中です。独自研究を重ねていたら、十識をマスターしており、眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識、末那識(まなしき)、阿頼耶識(あらやしき)、阿摩羅識(あまなしき)、乾栗陀耶識(けんりつだやしき)までも使いこなしており、その複合的な使い方も合わせると、人の心が執着から離れられない理由や、理解出来ても納得に至らないメカニズムなどを紐解けるようになりました。最も、研究している内容が仏教の中にあると気づいたのは後々のことで、独自に心を観察する方法の方が、色々と調べられて突き止めることが出来たと感じています。最初から知識から入っては、十識も到達しないのではないかと思うものでした。何事も習うより馴れる方が大事なことがあり、心を確実に治せる方法を模索することが、とても良い結果をもたらしたのではないかと思います。

現代の仏教を見ていても、道徳的観念は知らされても、本質的な超常的な能力や如来としたレベルの存在が何をしてくれるのか未知数のままです。仏=人というのは、勉強すれば見えてくる話であり、寺に行き、本尊に手を合わせるのも、本尊に投影する自分との対話であることを初心者にでもわかるように書いて置くべきものだと個人的に感じています。

その仏と同化するほど、自分そのもの、私そのものとして捉えたとき、仏の化身となる自身が自分に何を告げてくれるのか、手を合わせて拝んでいる最中に閃き降りてくれば、寺の役割も随分と違ってくるものではないかと思うものですが、私が知らないだけかも知れません。

お経というのも、「読経するといい」と教わることがありますし、写経ということもして、精神統一に至ることも解らなくもないですが、お経はマニュアルであり、取扱説明書という認識以上のものを持てません。故に、パソコンのマニュアルや、車の取扱説明書を、繰り返し読むことで車の使い方が上達するとは思えないものです。パソコンや車を使用して上達するものです。お経を読んでも悟りません。人の心を使い動かし、悟るものです。

「般若波羅蜜多心経」というマニュアルがあります。真言を唱えれば良いと説かれている解説があるようです。「即説呪曰羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶」の部分を唱えれば、いいとするものでみんな信じて唱えているようです。
これも、どの意識帯に繋いで唱えるかによっても変わるものです。
「0白(しらけ)、1雑(ざつ)、2運(うん)、3筋(め)、4忙(わや)、5弁(べん)、6卍(まんじ)、7妙(みょう)、8真(しん)、9宗(そ)、10現(うつつ)、10実(じつ)、11道(みち)」という領域帯があり、十一面観音が見守る領域帯のことです。柔和相(3面・卍妙真)、左側(向かって右)に憤怒相(3面・現実雑運)、右側(向かって左)に白牙上出相(3面・筋忙弁)、背面に大笑相(1面・道)、頭頂に仏相(1面・宗)といった配置であります。0白(しらけ)は、正面の相です。
この領域帯全部の部分を同時に真言を唱えることは教えているようには見つけられないのです。

「即説呪曰羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶」だけを翻訳すると。

11道(みち)・「即説呪曰」=何かを変えたいに理由は必要ない。「羯諦」=今すぐ変わる。「羯諦」=既に変わっている。「波羅羯諦」=新しい自分に生まれ変わっている。「波羅僧羯諦」=より良い私がここに現れました。「菩提薩婆訶」=学びを終え、悟りを開いた真の私に成りました。

10現(うつつ)・「即説呪曰」=今日で全てが終わりました。「羯諦」=無駄なことだと気づき止めました。「羯諦」=止めるで止められました。「波羅羯諦」=勧められても続けたくありません。「波羅僧羯諦」=自分同士で争う輪廻の苦しみは無くなりました。「菩提薩婆訶」=嘘を信じたことが間違いの始まりで、二度と嘘を尽きません。

10実(じつ)・「即説呪曰」=捉えるべくものはありません。「羯諦」=積み上げてもいません。「羯諦」=消し去るものもありません。「波羅羯諦」=時などありません。「波羅僧羯諦」=全てわかっていることです。「菩提薩婆訶」=これ以上の喜びはないものだと気づきました。

0白(しらけ)・「即説呪曰」=唱える意味も知らず、ただ唱えれば「ご利益が得られる」という我欲に従うことに真っ直ぐ向き合うことの形を整えることの大切さを知りました。「羯諦」=結果を手放します。「羯諦」=望みを持ちません。「波羅羯諦」=巡り巡って手の内の中にあります。「波羅僧羯諦」=想像を超えた結果を手にしています。「菩提薩婆訶」=今、全知である私は、みなの望まれるままに従います。

1雑(ざつ)・「即説呪曰」=何の価値も解らず、促されて唱えれば「良いことがある」という師の教えに従うことの大切さを知りました。「羯諦」=欲しいという気持ちを無くしました。「羯諦」=求めたりしません。「波羅羯諦」=必要なものであるなら必ず手にすると信じました。「波羅僧羯諦」=今ある道具のままで尽くして生きます。「菩提薩婆訶」=一心不乱に一つのことに打ち込めば、必ず見てくれている人がいると信じ、世界が変わるその時まで今のままで良いと無心で努めます。

2運(うん)・「即説呪曰」=巡り合わせが必ずあり、「与えられるもの」があるという運がある知りました。「羯諦」=礼節を尽くします。「羯諦」=逆らいません。「波羅羯諦」=無欲のまま働き、素直に従います。「波羅僧羯諦」=新しい仕事は早く覚え役に立ち、下の者に教えます。「菩提薩婆訶」=自分で考え、工夫し、喜ばれることをすれば、喜べることが必ずもたらされると信じます。

3筋(め)・「即説呪曰」=飛躍したいと願ったその時、「束縛から抜け出す」ことが出来るとわかりました。「羯諦」=自傷を止めます。「羯諦」=自縛を止めます。「波羅羯諦」=誰も自分を閉じ込めてなどいませんでした。「波羅僧羯諦」=全ての人たちは飛躍していけと応援していたとわかりました。「菩提薩婆訶」=人の教えに従う必要などないとわかり、叶ったままの私で生きます。

4忙(わや)・「即説呪曰」=全てが上手く行っていて、「楽しくてたまらないもの」ばかりだとわかりました。「羯諦」=制限などどこにもありません。「羯諦」=可能性しかありません。「波羅羯諦」=失敗するメカニズムに呑み込まれなくなりました。「波羅僧羯諦」=成功する流れしか無い中を楽しんでいきます。「菩提薩婆訶」=何も考えずとも全てが最善に至るものだとわかり、笑いかければいいとわかりました。世界よ、ありがとう。

5弁(べん)・「即説呪曰」=こんな日が来て良いと受け入れました。「羯諦」=感激しかない。「羯諦」=感謝せずにはいられません。「波羅羯諦」=至福しかないとわかりました。「波羅僧羯諦」=歓喜と共に踊り歌います。「菩提薩婆訶」=生きている素晴らしさを体現する為にここにいたとわかりました。みんな、ありがとう。

6卍(まんじ)・「即説呪曰」=愛の日々の中にいます。「羯諦」=愛されています。「羯諦」=愛しています。「波羅羯諦」=人との関わりの全てが温もりでしかありませんでした。「波羅僧羯諦」=何もわからない私を育てる過程であるとわかりました。「菩提薩婆訶」=営みの中に溶け込み、自然と一つだと気づきました。

7妙(みょう)・「即説呪曰」=ここが終着点であり、始まりの日です。「羯諦」=これまでの全てが終わりを迎えました。「羯諦」=真っ新な姿となり、始まりを迎えました。「波羅羯諦」=変わらないような日々などないとわかりました。「波羅僧羯諦」=変えて行こうとしなくても自然が全ての方向を教えてくれるものでした。「菩提薩婆訶」=自然という師から学ぶ生徒となり、「そのようにします」と答えていくだけで全ては上手く行きました。

8真(しん)・「即説呪曰」=どんな悲劇でも苦痛に満ちた日も楽になる時が来ます。「羯諦」=二度と起きて欲しくないと思うのを止めました。「羯諦」=『こうすればいいのに』と願うことを止めました。「波羅羯諦」=一番楽に動き出せる方向に進みます。「波羅僧羯諦」=より良い方法は身体が教えてくれています。「菩提薩婆訶」=執着を捨て、自然体に成れば全てのことがわかります。

9宗(そ)・「即説呪曰」=言葉は閃き降りて、その時「話す」ものだとわかりました。「羯諦」=私とみんなの思いは一つです。「羯諦」=私の思いはあなたと笑うことです。「波羅羯諦」=どんな時でも笑い合える世界にします。「波羅僧羯諦」=みんなの思いを一つにすれば出来ないものなど何もなくなります。「菩提薩婆訶」=みんなも、みんなの大切な人と笑い合いたいと願っているから叶います。

この12パターンの「即説呪曰羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶(そくせつしゅわっ げゃてい げゃてい はらげゃてい はらそうげゃてい ぼじそわか)」重ね合わせてイメージし、唱えることです。

言霊は、言葉がたくさん重なり合い、意味深く刻まれていることを一言で宣言することを「真言」と扱うものです。ただ取って付けた読み方を唱えれば良いものではありません。般若心経も、この12通りの読み解き方を閃き降ろせるように分解する能力を鍛え上げる為のものです。それを「観自在菩薩」と表現しているのです。

今回の阿閦如来(あしゅくにょらい)は、「大円鏡智(だいえんきょうち)」と呼ばれる智があり、全てを映し出す鏡のことですが、この鏡に映し出すことであらゆる事を読み解くことを告げているものです。

仏との対話の形にも様々な手法があり、文字通り大きな鏡をイメージし、そこに映し出されるものを読み解くことで見つけられるものです。上記の十一面観音における構造を解明するのも、この阿閦如来の力を借りたものです。

阿閦如来(あしゅくにょらい)⑲
心には階層というものが存在しており、問いかけや、拠り所、何かしらを見出す箇所によって、映し出される姿も変わるものです。十識という問いかけでみれば、十通りに識別出来る意識の層が確認出来ます。七仏という問いかけで見れば、チャクラと同じに七色の構造で心身的特徴が確認出来ます。

仏像や仏の名前は、意識の使い方を具現化した抽象的なものであり、名付けた人、作り上げた人の思いがそこに留められます。その想念を読み解けば、名付けた人の思いや、作り上げた人の意図に触れることが出来るので、情報の伝達は時を超えて受け継がれる力があります。

仏像が人の手に触れ、様々な思いを吸収してしまうと、仏像に込められた思いが穢れてしまい感じ取れなくなることもある為、触れることを禁じたりしてしまうものです。正しくは祓い清めればよく、作り手の意図が消え去ることはないものです。

思いを受け継がせたい時、形は見よう見真似で引き継がれるものですが、内容中身なる思いを文字に表したりしてしまっては、結局その文字しか受け継がれず言葉に出来ない行間や言霊を拾い上げてもらえない為、文字にしない継承があるものです。形骸化を避ける為の工夫である先人の思いやりが具現化するものであるが、文字にすることや口伝で伝承されなければ、結果、形骸化の部分しか残されなくなるものです。

それでも意識の使い方や、繋がり方としてのイメージを残す為に、様々な仏像に形とするものですが、作り手と同化する方法論が一般化しなければもったいないものです。

心の階層も立体曼荼羅のように21分解することも出来ます。今回の一連の記事もこの如来の力で紐解いている部分が多分にあるもので、何でもわかってしまうものだと伝えるものです。けれども、未来を見透せるものではありませんし、未知なる挑戦の助けにはなりませんが、今を信頼することが出来ない時、その出来ない理由を探るには力を貸してくれる存在です。

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仏像で気になる方もいられるのでないかという「カールをした髪、螺髪(らほつ)」について、このグルグルっと巻き毛になっているパーマみたいな髪型は、頭脳内部の思考するイメージを具現化しているものです。同時複数の思考ルーチンが脳内全体で行われているというニュアンスです。

複合的な意識を同時に動かしているというのは想像出来ないものです。それを少しでも解るようにしたイメージが螺髪(らほつ)なのです。般若心経を12パターンを同時に意識して唱えるとしたら、この螺髪(らほつ)的要素を求められているのが解るでしょうか?

如来とはそういった脳内がとんでもない回転をしている人のことを指すのです。

繋がり方
阿閦如来の下に直径12kmほどの巨大な鏡をイメージして、自分はそれを俯瞰して見ています。問いかけを阿閦如来に話しかけると、その問いは下の巨大な鏡に放たれて、解答が映し出されます。それを見て答えを知ります。

参考事例を紹介します。

自分「自分って一体何ですか?」
阿閦如来「11道(みち)、客観的に見ている自分と見られている自分のことです」

自分「自分って一体何ですか?」
阿閦如来「10現(うつつ)、存在しないものに敬称をつけて、自己認識出来るようにしているもののことです」

自分「自分って一体何ですか?」
阿閦如来「10実(じつ)、この肉体を統括管理している存在に名付けている呼称のことです」

自分「自分って一体何ですか?」
阿閦如来「0白(しらけ)、我欲に従うものです」

自分「自分って一体何ですか?」
阿閦如来「1雑(ざつ)、無知に流されるものです」

自分「自分って一体何ですか?」
阿閦如来「2運(うん)、快楽に溺れるものです」

自分「自分って一体何ですか?」
阿閦如来「3筋(め)、嘘に夢中になるものです」

自分「自分って一体何ですか?」
阿閦如来「4忙(わや)、無駄に終わるものにこだわるものです」

自分「自分って一体何ですか?」
阿閦如来「5弁(べん)、愛を知らず,愛を探し、愛されたくない我がままなものです」

自分「自分って一体何ですか?」
阿閦如来「6卍(まんじ)、真実から目を背け、幻想を好み、不満を燃料にして惰性で生きるものです」

自分「自分って一体何ですか?」
阿閦如来「7妙(みょう)、嫌い続けることで成立する『私』だった欠片のことです」

自分「自分って一体何ですか?」
阿閦如来「8真(しん)、自らと自らを分けた存在で、全部で4つ存在し、一つにすると『私』に統合されるものです」

自分「自分って一体何ですか?」
阿閦如来「9宗(そ)、愛されている私などいないと誤解することで心が傷つき、傷ついたことで4つに分割した一つのことを“自分”と表現しているもので、1傷つけた自分、2傷ついている自分、3傷ついたと見ている自分、4傷など見たくない自分があります。他にも「嫌う自分パターン」「死ねばいい自分パターン」「いらない自分パターン」「うるさい自分パターン」「面倒な自分パターン」「恐がる自分パターン」「許されない自分パターン」など類似系が膨大に存在し、総称して「エゴ」と呼ぶこともあり、「忘れること」を強要して、真実と向き合わせないように愛されない工夫に余念のない存在のことです」

自分「自分を許して愛されている私に還ります」
阿閦如来(微笑んでいる)

といったやり取りが浮かびました。

ハイレベルなやり取りですので、普通に取り組んでこうした質疑応答が得られるものではありませんが、この阿閦如来と繋がり、心の構造を観察する気概がある人は、もの凄く研究熱心に違いありません。

常に構造を意識しており、俯瞰しながら主体性を失わず、体感覚で実験しながら、現実の変化で確認することをしなければ、心の実態は見つけ出せるものではありません。心はとてもデジタルです。

難しいと感じた方は、鏡に自分を映して、質疑応答することも阿閦如来に繋がる道です。

いかがでしたでしょうか?

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悟りを開いている人として、何もないところから情報を引っ張り出し、知らないことでも解明していける力があることを今回の記事からでも少し感じ取っていただけたかと思います。

現代において、釈迦が必要とされるのかどうか、「嘘」を極力排除した情報での取り組みはどんな結果に至るかを実験中です。

世界平和を目的に活動しております。

応援してください。


では、また。

リーディングマスター・まさみち。


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