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与えればいい〜始まりと終わりは一つ〜

 真空のまさみちです。心理カウンセラーをしています。
 真理に基づいた心理カウンセリングをしており、因果の事の始まりである「縁起」を見つけて、転生人生の魂の課題と照らし合わせて「気づき」をもたらすセッションを提供しています。
 今回は、私の真理への道に繋がる切っ掛けの気づきと、それに伴う誤解や落とし穴について書きたいと思います。

与えればいい

 私の目覚めの体験で得られた気づきは「与えればいい」という見返り不要の一方的な奉仕精神への到達だった。

 それこそ太陽のように燦々と輝く光のように届けていくものである。

 見返り要求を手放すことで、自分が自分でいられる安定感のようなものが得られた。

 気づくと、自分の中に4つのパターンが感じられるようになった。

「ずっと与えて続けられる」
「その時々で与えられる」
「求められたとき与える」
「与えられない」

 そんな与える側の気持ちとは反対に、
 受け取る側が

「期待以上」
「期待通り」
「期待以下」
「存在しない」

と感じるようなものである。

 与える側より受け取る側が「期待以上」でないと意味がないもの。

 「感動」が得られる時に人の心は動き出すから「与えればいい」は難しいことが解る。

 だから実際に気づき目覚めたとしても、「与えればいい」スローガンを掲げて活動したものの効果は薄かった。

 結局、自分の持っているニッチなクオリティーをひたすら上げていくしかなかった。

 心のメカニズムも真理まで到達して、仏教の神髄たる「三毒」という煩悩を取り除くレベルまで至り、六道輪廻も四聖も自在に見られるようになることで自身の道を開き続けた。

 その中で「与えすぎ」というブレーキも踏むようになったし、それも中庸ではなくなるということで、意識レベル500の「愛」という境地に立つには、意識レベル1000という「無」の領域を知らなければならなかった。

 最初に、意識レベル1000の領域に立った時、その先が見えてしまい心の広大無限さを知ったときの途方も無さ感を皆さんにも実感してもらいたい。

 「パワーかフォースか」の著書で、イエスや釈迦が意識レベル1000以上で計測されるのは真実です!

 転生体の自分が云うのですから間違いないです。←真実の主観性

 意識レベル1万とか5万とかの世界が本当に存在する。

 ただ、そのような計測に意味がなく、どれも1000で計測する方が解りやすいので、1000までにしておくのがよいと答えるしかない。

 この辺のことを知りたい人は、セッションなどで教えるので聴いて欲しい。


 今回、話したいのは「与えればいい」という価値観の闇の部分だ。

 六道輪廻を網羅できる釈迦目線からすると、危険危険!


 この世界は栄枯盛衰、必ずうまく行くと、うまく行かなくなる因果律の中にある。

 それを回避するには真理に繋がり、因果を無に還して領域を変えていく道に入ること。


 それこそが「道(タオ)」なのだけれど、知ってますか?
 真理に繋がり因果を常々無に還して生きる道のことを「道(タオ)」と名付けられているのですよ。二度伝えます!


 仏教と意識レベルを合わせて表現すると、「道(タオ)」とは以下のような世界を全て意識レベルを1000レベルにして行くことを指す。

 図① 小世界001を千個集めたものが小千世界となる。これが意識レベル001~1000に相当する。

図① 小世界を千個集める

 図② 小千世界を1つにまとめて中世界とする。中世界001を千個集めたものが中千世界となる。これが意識レベル001~1000に相当する。


図② 小千世界を1つに集めて中世界とする。それを千個集めて中千世界

 図③ 中千世界を1つにまとめて大世界とする。大世界001を千個集めたものが大千世界となる。これが意識レベル001~1000に相当する。


図③ 中千世界を一つにまとめて大世界。大世界を千個集めて大千世界

 図④ 大千世界を1つにまとめて三千世界とする。三千世界001を千個集めたものが三千大千世界となる。これが意識レベル001~1000に相当する。意識レベルを計測するなら、この三千大千世界の1000レベルから計測するのがいい。

図④ 大千世界を一つにまとめて三千大千世界

 って扱いなんだ。

 意識レベルが計測できるからといってそれが小千世界レベルなら危険信号。
 せめて中千世界レベルで計測できていないと足下を掬われることになる。


「与えればいい」
 という言葉も、どのレベルで表現しているかで全く意味合いが変わってくるからだ。

与えればいいの定義
・わたしが、あなたから「求められている」ものを「与える」ことに「見返り」は不要である。
・あなたが「お返し」をしたいと願う心が「自発的な発想(アクション)」でなければ、受け取らないことである。

定義


 言葉には文脈とか、行間とか、背景とかがあると聞いたことないだろうか?
 言葉と言葉の間に、言うに云えない思いが込められているもののこと。
 これを読めなかったりすると、情報の伝達誤差が起きる。

 「与える」ことで「見返り」が自然発生する上での危険性は、「アクション」『リ・アクション』で返すことによる問題が見えないことにある。



 文字や文章にするほど危険になるのは、文字伝達するほどに、伝言ゲームの危うさがあるのだ。リ・アクションの応酬となり、疲弊が始まり、知識の伝承が劣化するのだ。

 釈迦が直接文字に残そうとしなかった理由は、誤解が確実に発生すると見切っていたからだ。弟子たちがどうしても文章にしてしまうから、その間違いを未来のどこかで修正する為に、自分は書き残さないようにして自分が再度登場した時の証明(私が釈迦でありレベル仏陀に到達した)に使おうと考えていた。

 自分で種明かしするのもなんだけど。

 弟子たちが陥る「文章に残すしかない世界」の補完に備えていた釈迦…………。
 イエスも似たようなものだけど…………。


「与えればいい」
 という思いも意識レベルと並べて表現すると、

①:122,「与えればいい」……これが私の全力です。棚ぼた来ないかな!
②:147,「与えればいい」……一生懸命頑張りました。なんか頂戴!
③:168,「与えればいい」……利害の一致に見合う見返りがある筈だ!
④:196,「与えればいい」……気持ちだけでいいので。でも多いと嬉しい!
⑤:384,「与えればいい」……何か悪いね。こんなにもらっても良いのかな。
⑥:453,「与えればいい」……絶好調! あれ、なんで事故が? 出費がかさむ。
⑦:529,「与えればいい」……うまく行っている! みんな頑張れ!

 この7つに分類できる。

 同じ言葉も意識レベルが変われば文脈や背景が丸々変わってくるけれど、伝える側の思いと受け取る側の読解力の差が埋められないと、「勘違いしてました」という人たちが後を絶たなくなるから危険なのだ。

 ここで合格と敢えて云えるのは⑦:529,「与えればいい」だけ(それでも欠点がある)。

 私の気づきの「与えればいい」は意識レベル933である。

 この933のレベルは、自分の人生を人々の為だけに丸ごと「与える」ようなもので、奉仕精神の過剰で壊れるものとなる。

 オススメできない。

 人生を与えるほどに、「067,身を売り渡さなくてはならない」人生に墜ちていき、這い上がれなくなるほど与えてしまうことになるからだ。

 本当にボロボロになり、命も落としかけた。意識レベルが高い気づきはそれはそれで精神がついていかなくなり、自分の身に何がどうしてこのようなことが起きているのか理解不能のまま、体験して行くことになる。

 ①~⑥までの「与えればいい」は意識レベル500の「愛」不在であるので、「与えるほどに疲弊して行き詰まる体験」に陥ることは必然になります。

 私があなたに「与えればいい」とアクションしても、
 あなたが私に「お返しを与える」がリ・アクションだ。

 お返しする側も「自由意思の範囲」であるから、誰にも迷惑をかけていないものとなる、双方の同意になる。


 しかし、他人の「お返しを与える」というリ・アクションの中に「虚栄心」が隠れていると、寄付(ドネーション)に無理が含まれていたり、無価値とした評価を下せない感覚に襲われると、適切な「アクション」を生み出せなくなり、歪んだ「リ・アクション」をしてしまうのだ。

 当事者の心に潜む観察者の眼差しが「うまく行かない」と知っている為に、陥ってしまうのが「与える」ことをしても「寄付(ドネーション)」が思うように集まらなくなる自身のイメージの限界がある。

 宗教の崩壊は、寄付制度の本質を理解していないからにある。
 「信者」とした枠組みで囲ったことが崩壊への道である。

 結果的にそれは無神論者を生み出し、「現実をどう楽しむか」としたエンターテインメント性の重要性を求め、「自我こそ大切だと気づき、自我という人生の君主制に従う」生き方をすることで「無我」などに価値はないと割り切る道を作ったのだ。他者からの干渉を拒み、哀しみの共生関係を求めるのだ。

 それでもここに書き上げるように「与えればいい」の文脈や背景を知らないと、墜落しかねないものが隠れている。

 

解説

①:122,「与えればいい」は、欲レベルである為、「見返りの期待感が深い哀しみレベル078」で反動が起きるので寝込んで起きられなくなる危険がある。

②:147,「与えればいい」は、雑レベルである為、「関わってる時はいいけれど、後々段々と重くなり関われなくなり、レベル153の怒りを買う」ような、とばっちりをもらうようなことになる危険がある。

③:168,「与えればいい」は、囲い込みレベルである為、「凄くいいことだと思って続けてけるのだけれど、レベル132の貧相さや、いたいけの無さでお恵みを頂戴する」ような情けのない姿をさらすようになり、見るに耐えなくなる危険がある。

④:196,「与えればいい」は、有能さや資質の良さを感じられるもっともらしいレベルである為、「順調に行くように見えるが、レベル104という目に見えない不安感が蓄積して段々と失速していく流れを止められなくなる」こととなり、手がつけられない大やけどを負うことにもなりかねないので危険である。

⑤:384,「与えればいい」は、優しさのレベルであるので、もの凄く好調で気前もよく、他の収益などで盤石な体制の余力でやっているので問題ないように見えるが、レベル116の力が徐々に大きくなって負荷と変わり、ある日突然に不幸や事故などが引き起こされ、とても良いことをしているにも関わらず問題が何故か発生する因果関係不明の問題が生じるので危険である。

⑥:453,「与えればいい」は、尊厳のレベルである為、力強く提供するものもよいので、好意が好意を呼び集める状態になる。ただ、見ているだけで関わってこない人や、何も言い出せない不明瞭な眼差しがレベル047であり、全く違う分野で足を引っ張られたり、問題が生じるなどして「これ」と「それ」が関係していることなど理解できない範囲で問題が生じる危険がある。

⑦:529,「与えればいい」だけが、愛のレベルを越えている為、非常に良好で順調なものとなる。人にこの方法論を伝えて、この喜びの輪を広げようと思うものである。レベル471の自分の最良のものを無償で提供すると、循環する世界が創り出せるとした発想に囚われるものの、これが片手落ちであることには気づかない危険は隠れている。片手落ちというものは後に説明するが、意識レベルは「陰」と「陽」の関係だけでなく「陰の中の陽」「陽の中の陰」も捉えられるといい。それがここには含まれていないからだ。「075,人を哀しませることはしない」ことと「025,自力で立ち上がれなくなっている人がいる」ことを抱え込んでいる人たちの「044,悲鳴さえ挙げられない絶望の中にある」人や「056,劣等感に悩まされて動けなくなる」人の自発性の喪失については見落とされているからだ。

 そもそも意識レベルはどこを基準にして見るかで測定値は変わる。

 「パワーかフォースか」のディビッド・フォーキング博士の意識レベルの計測も中千世界の997のレベルから計測しているもので1000ではないのだ。

 大千世界や三千大千世界の存在を博士は計測できていない。

 医学博士号も持っていない私が言うのもなんだが、カルトやネガティヴの領域をポジティヴで読み分ける認識力がないと大千世界を理解するのは困難である。

 太極図を見ると、「陰」「陽」があり、「陰の中の陽」「陽の中の陰」という4箇所が解る。



太極図

 意識レベルも、「陰」と「陽」で読み取るものであるが、「陰と陰の中の陽」と「陽と陽の中の陰」という2つの勾玉の関わりとなる。

左・「陰と陰の中の陽」 右・「陽と陽の中の陰」

 これらそれぞれに「陰,500」と「陽,500」と「陰の中の陽,500」と「陽の中の陰,500」が存在し、全部で2000である。それを2000で1000という2つでない1つ、不二という概念を取り入れて成り立つものが意識レベルある。

 意識レベルは2000が解らないと1000を正しく認識できないのだ。
 だから片手落ちというのだ。


 そんなこと指摘されたって、知らんし。
 ってなものです。


 もっとも、それぞれに「与えればいい」という学びはあっていいので、それぞれがそれぞれの学びをすればいいものである。

 意識も見える意識と見えない意識が存在する。

 十識(眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識、末那(まな)識、阿頼耶(あらや)識、阿摩羅(あまら)識、乾栗陀耶(けんりつだや)識)という様々な領域で問題や変革が移り変わりながら存在しているので、「なんでそうなるの?」という純粋さや許容の広さが思い込みや執着を招いている時だってあるのだ。

 みんな自分の人生は自分のやり方で生きたいからだ。

 とはいえ、釈迦から言えば「無我」でなければ見出せない「与えればいい」がある。これは自然発生的に自動で実がなるように与えるものだ。
 自分でもこの「与えればいい」は「美しい」と感じる。

 この記事の投稿は、誰かの何かを見て感じて「それ、おかしくないか?」と思うから書くものだ。

 note記事での「イエスと釈迦の兄弟物語」なる記事も、「聖書っておかしくない?」と思い、その因果の全貌が解るから書くのものだ。

 ただの指摘ではない。

 ブロック外しという因果を無に還す内容を含んでいる。

 ただ、有料にしているのは私が身代わりになって「償い」を肩代わりしたからだ。だから結構しんどいし辛いし大変な肩代わりであるのだ。


 この記事は無料で見せている。
 つまり「無償」である。

 無料で償いを引き受ける行為だ。「償いを引き受けること」を知らないと、実はとんでもない目に遭う。「無料」ほど恐いものはない。

 なぜ栄枯盛衰となるか、日本神話でのニニギノミコトがイワナガヒメと結婚せずにコノハナサクヤヒメとだけ結婚したという話で「寿命が生まれた」などと表現するのは、転生をまたいで記憶を継承する力を失ったからだ。

 これはとんでもない知性(智慧)を失うことになる。

 坊さんが無償で施しを与えるのは、相手の負の想念を代わりに取り除く力があるから、托鉢などお米など食べ物をもらい、その分カルマや想念を肩代わりして因果を終わらす手伝いをして回るから、修行のために「無償奉仕」を願い出るのだ。

 因果を無に還さずに施しを受けていては負の想念をいっぱい引き受けることとなり、与えるよりもらう方が多くなれば、失速して首が回らなくなるのは道理というものだ。その辺りの因果関係の全貌も知らずに「与えればいい」などとして、寄付(ドネーション)すると、その寄付が「与えられたもの」以上の対価であると、負を貰い受けることになり、本当に人を路頭に迷わしかねないことにもなる。

 補足して説明をする。
 サービスを提供して、その対価が寄付である場合、「寄付が見栄を張って高く払い過ぎても」「不快な気持ちに触れて寄付が低すぎても」問題となる因果を生み出すことを伝えているのだ。
 対価を提供者が設定せずに、提供された側に決める主体性を委ねる行為は、相手と自身の相対のレベルに応じて認識のズレが生じやすく、坊さんで因果を無に還す力がないなら、普通にビジネスとして取り引きとした世界観で取り組む方が無難である。双方の同意としはて「ビジネスで関わる方が、良質である」からだ。

 私の「与えればいい」気づきと実践は優しくはない。
 「与えてはいけない」相手もあるからだ。

 ねだる感覚が無意識に隠れていると、「与えている筈なのに」機能しない現象となる。

 これら「与えればいい」もカルマからの逃避で行っていることがある。

①:122,「与えればいい」は、家族を失い一人になった哀しみを無に還すことを怠り、役立つ人として関わる為、受け取った寄付以上に消費して終わる。

②:147,「与えればいい」は、兄弟を失った哀しみを無に還すことを怠り、身代わりになるように頑張る為、疲弊によりサービスが提供できなくなり、寄付が途絶える。

③:168,「与えればいい」は、母を失った哀しみを無に還す事を怠り、褒めてもらえるようによく見せようとする為、空元気が続くようになり、寄付と引き換えに見落とした問題に気づけず、後々に大事に至る。

④:196,「与えればいい」は、過去世において我が子を失った親が生きることの不条理さを感じたまま、哀しみを無に還す事を怠り、寄付による感謝に埋め尽くされて、再び我が子を失う流れに気づかぬ生き方を続け、子どものヘルプサインを完全に無視してしまう「視覚の盲点」に関係者が誰も気づけないものを抱えている。

⑤:384,「与えればいい」は、みんなに意見を譲ったために問題が起きてしまい、間違いを冒すと解りながら、どうすることもできなかった後悔と罪滅ぼしの哀しみを無に還す事を怠り、自分以外の大切な人に負荷が集まっていても自分の問題に見えず、「どうすることもできない」事態に陥り続ける問題を抱えている。

⑥:453,「与えればいい」は、相手の自主性を尊重するあまり「言われた通りに出来ない」問題が、目の前にいる「出来る人」の映し鏡と気づかない為、問題が解決せず、「相手自身の問題だろ」と論点を見誤ることで道を見失ったことに気づきたくない哀しみを無に還す事を怠り、根本療法をしているつもりの対処療法を行っており、炎症が広がっていることに気づけない問題を抱えている。

⑦:529,「与えればいい」は、自分で自分の問題に気づけなくなっていて両目共に盲点で見逃してしまう愚かしさに気づき、頭を下げて聴く勇気を失っている哀しみを無に還す事を怠り、「救済とは何か」が解らなくなってしまうことで、自我で生きる道を正当化したまま「無我の道(タオ)の歩み」を止めてしまっている因果を見落としている問題を抱えている。


 全てが「哀しみの自我」を正当化してしまい、「自我を否定しないこと」と、自我が何を生みだしているのかを知らぬまま、狭い発想力で思考した結果である。


 自我で思考するレベルを「天動説レベル498の愛はない」と、表現するなら、
 無我で智慧を降ろすレベルを「地動説レベル799の愛はそこここにある」と表現することになる。

 釈迦に云わせればみんな「天動説レベル」で切ないのだ。

 みんな目覚めることよりも哀しみを抱えたままの自我で「どうにか出来ないか?」と思案して、神話が作られた時代からこれだ。ずっとだ。

 神話以前の時代に戻れないなどとしてしまっている。


 本当にそうなのか?
 哀しみを愛に還す道は本当にないのか?
 輪廻のままでいいのか?


 真実から現実を生きる人と、
 現実から現実を生きる人とでは世界は違う。


 真実が解らないなら、それに「目覚める」必要があるが、これが大変だ。

「哀しみの自我」と対話しなくてはならず、「客観性を失い主観性に戻る」ことへと踏み出さなくてはならなくなる。

 哀しみを生み出した「あの現実」を思い出し、「認識を改める」事をしなくてはならないのだ。

「悔い改めよ」

 を本気で取り組む必要があるから厄介だ。


「与えればいい」だけにして、輪廻など放置しておいてくれと願いたくなる。
 聞こえの良い話だけで終わらせろよ。

「勇気のない者に、勇気を与える脅迫的な追い詰める行為などするなよ。」

 と言いたくなるらしい。


 傷の舐め合いでうまく社会を形成して生きていて、持ちつ持たれつで何とかやれているから「これでいい」としてくれ。

「あの時、神も仏も何もしてくれなかったじゃないか!」と、神仏のせいにして「哀しみ体験」をそのままにしている自分の未熟さを自分で呪った体験があるだけだが、それを思い知らされるのは「辛い」のだ。


 苦しい!

 人生は「苦」の連続であると、釈迦が言ったとおりに「苦」をまさに感じ、「苦行」を断行している人しかここにはいない。

 六道輪廻の中は「苦行」なんだと伝えておく。

 別に肉体を痛めつけることを「苦行」と言っているものでもないし、精神修行を「苦行」と表現しているのでもない。

 「哀しい体験」を「哀しい体験のまま、喜びを求めて明日に希望を見出して生きることを苦行」と表現しているのだ。

 自我がある時点で「苦行」なのだ。

 だから「苦行をやめませんか?」と伝えるのだけれど、聞く耳があればいいがどうだろうか?

 もっとも、この記事はブロック外しでありリーディングの祈りの中で閃き降ろして書いているものなので、「聞かされている(読まされている)」状態に陥るから強制的に哀しみを愛に還させる帰還命令みたいなものだから避けようがない。


 その時が来たら「みんな救われる」というのは本当であるが、こうしてこの記事に出会う人は、哀しみの幾つかが消え去る体験にはなる。

 それも必然だ。

 だから出会う人と繋がり関わり、苦を無に還すことを「与えればいい」とすれば、色んな事が巡り巡って良いこととなって創造される筈である。

 その「無我で生きる」とした真理を基準にした生き方をするために、自我の学びがある。


 一応、これは「無償提供」の記事だが、
 noteに「サポート」として資金の応援機能があるので良ければ応援して欲しい。


 これにより心と脳が洗われた方(これを洗脳という)は、自分で負荷価値を考えてみて欲しい。多分、値段に代えられないものだ。

 少なくとも自分が逆の立場なら、自分で決められるのは有り難いように感じられるかも知れないが、私は「寄付の金額設定」に困るしかない。

 この無償によるブロック外しの記事、哀しみを愛に還す力は「救済レベル」であるので、相手の自由意思などない「お手上げ」状態で行うものだ。

 自分で判断出来るようなものじゃない。


 天(大いなる根源のわたし)に聞いて、その閃きでサポート金を送ってくれると嬉しい。閃くことが出来たらいいが、解らないなら過去記事を買ってくれるのでもいい。

 イエスの復活、マグダラのマリアの奇跡、イエスと釈迦の兄弟物語の3本くらいは読んで欲しい。



 これら3本の記事は、グループセッションのようなブロック外しが多分に含まれているものである。それ以前の有料の記事は、どれも因果を無に還し、智慧を授けるものである。

 良ければ読んで欲しい。

 この世界が成熟を迎えるには、「哀しみを愛に還す道を確立させる」ことにある。カルマを無に還す道が出来ないと次のステージにはならない。

 人類の課題だから、為し得ないとね。

 個々がそれぞれの真理に従って生きたら、壮大な連携プレーが始まる!


 それがやりたい。


 以上が記事と共に「与えればいい」に囚われた観念のブロック外しの全容である。
 いかがだっただろうか?

 様々なことに気づくと、語りかける言葉がどんどん無くなっていく。

 気づくのは自分だけになり、他者を巻き込むことは「自我を獲得して、自我意識で自由に生きる権利を奪う」ことになり、無我に戻りたい人だけ戻ればよいとなる。


 愛はなにもしない。
 神も仏も何もしない。

 ただ光のように降り注ぐ愛の眼差しで見つめると「変革」という「今」があるだけだ。


追記

飛行機事故

 韓国で飛行機事故が起きた。
 胴体着陸した先に有り得ない「壁」に激突して飛行機は爆煙に包まれた。
 ここで受けたメッセージは「緊急事態でもダメなものはダメ」とした否定感を受け取った。

「イエスと釈迦の兄弟物語~聖書の嘘と終焉~」

 この記事は、「人は緊急事態に陥ると予測不能な行動に出るよ」といったものだ。ミルグラム実験を事例に、「権威性のカルマに縛られて正常な判断が取れなくなる」ことを説明して、イエスと釈迦が背負っているカルマを外す内容を紹介している。


 妻あなむが、Instagramで流れてくる飛行機の「壁」への衝突シーンを見て「カルマの壁だね」と呟いた。
 その一言で、この衝突事故からのメッセージを受け取った。


 ここに紹介する。


「カルマの壁」

受想行識色は五蘊(ごうん)である。
杯杖剣玉はタロットの小アルカナ・数カードの分類(スート)である。
法皇とはタロットの5番目の大アルカナのカードであり、領域を示すものである。


弟目線の領域

受、玉、005,人を変えようとしてはならない。
想、杯、005,何があっても一度決めた信念は変えてはならない。
行、杖、005,女性の意見を取り入れて積み上げられた歴史を変えてはならない。
識、剣、005,兄が常に一番で女や弟の意見で価値観を変えてはならない。


妹目線の領域

色、法皇、995,状況証拠に基づいて誰が見ても同じように見える事実を支えに、良し悪しを決めるもので、天の閃きや筋反射によって真実か虚偽かを判別し、物事の真理に繋がる道を開いてはならない。


兄目線の領域

受、杯、005,兄の許しがない道は存在しない。
想、剣、005,目上に意見するには同等かそれ以上の実力を示さなければ、目上は意見を取り入れてはならない。
行、杖、005,ネガティヴで行動する人の嫌がることをしてはならない。
識、玉、005,世界を変革するような関わりをしてはならない。

姉目線の領域

色、法皇、995,真理を見失っている世界を維持することで、現実世界を通して「わたしが中心である」ことに気づかせないように犠牲的に生きるしかない道を続けている。

 飛行機事故をリーディングし、この事故を目の当たりにすることとなった人類の因果を端的に表現すると、亡くなられた方や遺族は憤慨するかも知れないものの、

「死んでも真理の世界などには行かない」
「それが真実の愛の世界への道なら私はそんな世界を望まない」
「何が起きても、何を示されてもそれを受け入れる世界に行くなら死んだ方がマシだ」
「自我を失った無我の世界に何の喜びがある? この世界は何かを犠牲にしながら生きて行くものだ。私もその時が来たら死ぬし、最愛の人を犠牲に差し出せというならそのようにする。何故なら悪魔の契約の中にある以上、哀しみの世界に留まるしかないと自分が決めたのだ」

 という理屈で、「死を選ぶ」という選択肢を使い、事故を目撃している人たちに「生を選ばせる」という犠牲が続く生贄文化を継承しているのだ。


神の愛の世界がここにある

真理

 真理に基づいた真実の愛への道は、選択肢が消え去る世界に入る。
 質問そのものが好意的であり、建設的であり、真善美に基づいたものになるからだ。

「悪い人がいたら?」
「整備士が整備を怠ったら?」
「万が一を想定しなかったら?」
「誰かを『殺したい』とか『死ねばいい』などと思う様なことが起きたら?」

 これらの質問はネガティヴである為、答えは「無視」するしかない。

 真理から問うなら、答えようがない質問だからだ。

 これに答えると、どこかでまた「ネガティヴ」の問題を生み出す因果を始めてしまうため、堂々巡りの輪廻を形成して「誰も救われない」世界が確立する。


神目線

 神目線からすれば「自分で答えを探したいなら自分でやってみて」と「最後の晩餐」に描かれるようにイエスはユダに「思いついていることを今すぐ為しなさい」と告げるのだ。

 そしてイエスはユダに実行を促して、結果を体験させるしか彼に魂の学びを学ばせられないのだ。

 ユダは自分が「夢を見て誰かにやらせようとした」と気づけばいいだけのこと。

 しかし、生きていられなくなるほど辛い状態に陥り「自殺」してしまう結果に入ると、神の愛を見失ってしまう。

 これでは「学びにならない」と気づけぬが、死ぬほど辛い「自殺」する流れに呑まれてしまうと、「もう真理や、神の愛などどうでもいい」と魂の学びの道に「壁」を立てて、二度と触れないようにするのだ。


仏目線

 仏目線からすれば「どんなに遠くに逃げ出しても仏の掌(てのひら)の上ですよ」と、仏の愛から逃れられないことを伝えている。それは常に仏は側で見ており、「そんなつもりじゃなかった」という自分(ユダ)の無垢なる心を見てくれているし、それを罰して自分で責めあげてしまい、自殺に閉じ込めたくなる気持ちさえも理解してくれていることを示すのだ。

 そんな掌の上からこぼれ落ちることなどない仏の愛の存在に人は気づきたくない。だから深い眠りについて「二度と目覚めたくない」と、一切の愛を排除する生き方を貫くのだ。


 それがどれだけ愚かしいことだと理解していても、自分の最も敬愛するような人を「死地に送ったのが自分だ」と知るのは、底抜けに辛いのだ。だから奈落の底に墜ちて二度と自分の力では抜け出せないように仕組む。


 それが地獄だ。冥界とも黄泉の国と表現してもいい。


 そして自己犠牲をして人に尽くす道を見出すが、自分も救われ他人も救われみんなも救われる道は愛の道であり真理に至ることになるので、かつて自殺に逃げた体験と鉢合わせすることになる。

 あの時全力で自殺に逃げたのだから、どんなに転生してもまた自殺を選ぶほど辛いので、輪廻からは逃れられないことになる。自殺に逃げる弱さを受容して、自分の力ではどうにもならないと「諦める」ことができた時、仏の眼差しに気づいて、掌の上、つまりは「仏に救われていた(仏の両掌で掬い上げられていた)」と気づけるのだ。

 奈落の底から見上げて仏に導かれるのも、神に導かれるのも等しくなると、愛の一本道を泣きながらでも歩くことになる。

 自分一人では成り立たない。男女という二人で一つの愛の道に入るには、兄弟で分離していてはダメであり、姉妹で分離していては成り立たない。

 愛の力で根拠のない信頼で繋がり合わないと見出せない、男女が一つになった愛の眼差しで見る世界に「第三の眼」が開くものであり、単身で開くものではない。


 五という数字は「変化」を示す数霊として知られている。

 五本指、五体など、一人を見たときに両手両足頭と五体を見る。
 その腕の先端も五本指、その足の先端も五本指、頭は眼耳鼻口身となる。

 右と左があるように、男と女があり、陰と陽がある。
 男の陰の中に性器の陽の凸部がある。
 女の陽の中に性器の陰の凹部がある。

 男の根底は女だ。
 女の根底は男だ。

 そして一人の中に兄弟姉妹と父か母かの性質が全部揃っている。


 その全てを変化させながら今を生きるには「真理」に基づかないとどうにもならない。客観視している主観の「わたし」の究極地に立たなければならない。


わたし

 小さい「私」と大いなる「わたし」との繋がりは変革の中でしか育めない。

 変わり続けるから学べるのである。

 それは「自我」を手放して「無我」に立ったときに、明け渡せるほどに「他人に変えてもらえる歓喜が得られる」という気づきがもたらされる。


 今回の飛行機事故の「壁」という「カルマ」は、

「他人に変えられたくない」
「他人を変えてはならない」
「自我が変わりたいと言い出して変わる兄は認めるが、姉弟妹の変化は認めない」

 という「意地悪」が隠れているカルマである。

 「変えなければならない時は、死んだ方がマシ」として全員で「尊い死を選ぶ」というペトロの間違った殉教を選ぶのだ。


 真理は「無に還す理(ことわり)」と伝えている。

 真理に頼る時は、学びが行き詰まった時である。


 イエスも釈迦も「あの人が言っていた」として教えの題材に使われるが、「文脈や背景はそうじゃない」とツッコミを入れたくなるレベルで教えが広がっている。

 神仏の愛で生きるより、自我で生きてみたいと思うからだ。

 だから「存分にやりなさい」と、肯定してあげるしか出来ない。
 その結果の「事故」であっても、「肯定して行くしかない」のだ。

 その結末が「やりたかった」ことなのだから。


 もし、「こんなことしたいわけではなかった」というなら、改まる道が始まる。
 ここで肉体を死なせる「自殺」が答えではない。

 やるべきことはこれまで培われた経験則に基づいた「自我」「殺す」ことで「使う必要がないと消す」ことにある。

 くれぐれも「肉体を死に至らせる道」など存在しないことに気づく必要がある。

 自我は自己消滅が可能だ。

 この「自分の我が要らないんだ」と解れば「自我の自殺」は可能だ。
 この「私は要らないんだ」とならぬ事だ。「私の自殺」は不可能だ。

 客観視して洞察した気でいる自我がコントロール制御しているつもりで、実際はコントロールミスを生み出す因果を作り出している元凶だと気づかなくてはならないのだ。


光と影

 光があるから影が出来るというシンプルな例え話のレベルではない。

 整備をどれだけやってもバードストライクによるエンジントラブルと緊急時で何をするかパニック状態の中で、まさか滑走路の終わりにある「壁」の存在は、「影が生まれる」などと言ったところで諭されるようなものではないことを示す。

 つまり光と影の話を聞いたところで、起きた事故を未然に止めるような理屈にはならない。

 真理など誰も到達できないのだから、倫理的な教えに留めて秩序を守るには「他人を変えようとしないことだよ」としれっともっともらしいことを言っても、目上の横領や不正を目下が正せない仕組みは破綻しかない。

 だから事故や大病などでサインが来る。

「それでいいの?」

 でも、「神仏の声をシャットアウト」=「真実が解る人からの意見は見ない」=「他人を変えてくる注意喚起はトラブルの元だから排除」=「解るように言わない人の言葉には耳を傾けない」=「他人を変えようとしてはならないルールの遵守」をさせて、ループする輪廻転生の仕組みを支持するのだ。


「いいわけないだろう!」

 と、自我の方が目覚めなければ始まらない。


 真理に到達していないなら、まず到達するところから始めないと話にもならない。
 この記事で「真理への探究心」に火が灯ることを祈る。


 自我をこねくり回して「与え合えばいい」という道を作り出す前に、自分のカルマと向き合って六道輪廻から四聖の世界に入り、それを越えた仏陀の境地に立たなければ「天動説派」からの脱却はないくらい「ヤバい」状態で生きていると気づきなさい。


 見た格好の手本だけでなく、心の中身までも、細部に渡って真似される世界であると気づくことである。

 全てを「肯定文」で成り立たせる為に、端的に理解し易い「否定文」があるだけで、「否定文」を基準にしたり、支えにしてはならない。

 

 それでも「否定したい現実」は後を絶たない。

 だからこそ多くの人が真理に触れないとならないし、真理に基づいた教えさえも「無に還す知力」を備える必要がある。

 賢い人がより賢くなるには、より愚かな人の気持ちを理解する読解力か不可欠であるのだ。


 読解力がリーディングであり、読解力が神仏への祈りだと気づくことだ。

 祈りなさい。

 今年もお世話になりました。
 来年は覚醒元年にしましょう!

 -真空のまさみち と あなむ-


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真空のまさみち 〜真理で紐解くカウンセラー〜
リーディングで閃き降ろして書く記事は、因果を無に還しながら気づきを届けていくものとなります。 あなたさまからの応援が有り難いです。 励みになります。 これからも頑張ります!! お互いが愛の力(パワー)みなぎる範囲でのチップでお願いします。