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境界の仏 金剛宝菩薩⑩

リーディングマスター・まさみちです。見えないものを読み解くことで、人助けが出来たら素敵だと感じて、心理カウンセリングをしております。自分でも自分の事がわからなくなるから、他人に尋ねて答えを授かるものの『答えは自分の中にある』と答えられたら困りません? 「自分の中にあるなら、尋ねていないよ!」と思うタイプでしたので、自分と同じように人に聞くしかない状態に陥っている人に、「こうだよ」と正確に言い当てて、わからなかった道がわかるように変わったらいいなとサポートしています。(27/88)

リーディングの注意点は、全てがポジティブであるように関わることです。ネガティブに偏るような相談には答えられないものですし、それよってやり取りするものに正確さはありません。精度が大切な世界観がここにはあります。

この読み解く力で、東寺・立体曼荼羅の仏像についての意味合いを調べたら、どんな内容が仏像に込められているのか紹介したら、空海が伝えようとしていた片鱗が、真言密教を習わなくてもわかるのではないかと思い、記事にしています。

悟りを開く段階が4つあり、天、明王、菩薩、如来といった階層があり、どんな意味合いかを解説するならば、生まれ持って「天部タイプ」「明王タイプ」「菩薩タイプ」「如来タイプ」というものが存在するくらいに思っていて欲しいのです。けれども、どんな人も「人タイプ」という煩悩や欲望に呑まれている部分があり、この「人タイプ」がどこまでも気づきや悟りを開かせないよう否定に否定を重ねて、絶対言うことを聴きたくない、仏(善人や聖人の言うこと)に従いたくないと言い張るものを、どうにか説き伏せて信頼関係のwin&winの関係に育てていくのが道だったりします。

「人タイプ」……無料で何かをしてくれると喜ぶ。

「天タイプ」……手間と思うことを代わりにサービスしてやってくれると喜ぶ。

「明王タイプ」……小さいことでも気づいて感謝してお礼を伝えてくれると喜ぶ。

「菩薩タイプ」……努力を労い、丹精込めたり、掛け替えのない時間を費やしてくれて尽くしてくれたことを喜ぶ。

「如来タイプ」……全てを打ち明けてくれ、嘘偽りのない本音しかない関わりを示してくれることを喜ぶ。

というように、人との関わりは、天も、明王も、菩薩も、如来も全部のタイプが一つに協力し合う方が嬉しいもので、何かしら人の役に立ち(サービス)し、感謝され努力を労ってくれ本音だけでのやり取りで終始出来るなら、どんなプレゼントでも最高にいいものになり、それがましてや無料であるなら泣いて喜ぶようなものになるのが、本質的な人付き合いというものと仏性は思うのです。

悟りを開くというのは、この五タイプが一体化している状態のことであり、一体化している状態が大日如来の姿となるものです。大勢の人が同時に大日如来化出来た悟りを開いた人たちが集まれば、無料で関わり合える世界も生まれるかも知れませんね。

この立体曼荼羅は金剛界曼荼羅を表しているものです。その為、相対的に存在する胎蔵界曼荼羅が描かれていないけれども感じ取れるものが含まれています。表現されていないものを感じ取れる相対性を認識するには、昼間を見れば相対した夜間を意識出来るものというくらいの感覚で捉えていただけるといいものです。

金剛とは、「ダイアモンドのように砕けないもの」という意味を伝えるものですが、リーディングで読み解く限り「在るけどないもの」であり、「触れているけれど本質でないもの」と表現するものである為、故に「壊れることのない幻のような頑強さがあるもの」と意味するものです。

「存在していない」ものを「在ると言い張る」というものをどれだけ「証明しようとも徒労に終わる」ことを告げているようなものです。筋肉隆々の仁王像などで示して「壊れることのないもの」を表現しているものの、それは肉体的な物理のことではなく、仕組みや構造の全体の流れのことだと気づいてもらえないと、取り違えも甚だしい事になります。関わる取り組み方そのものが間違っている限り「何も変えられない」といったニュアンスを伝える表現が、金剛なのです。

金剛宝菩薩⑩
自由な発想と自由に活動して良いとするなら、人は伸び伸びと活躍していくと信じる「如来タイプ」があれば、人はどこで裏切ったり騙したりするかわからないから、法律や秩序を構築して管理しなければならない「菩薩タイプ」もいます。その法律に従い、礼節を教えて育て上げなければ犯罪を引き起こすかも知れないから厳しく育てなければならないという「明王タイプ」もいます。あまり厳しく戒めても良くないので、誰もが簡単にわかり易く、取りかかれば学べてしまうものが良いとした「天タイプ」もいます。「人タイプ」は損得勘定が強く働き、「如来タイプ」のようなどこまでも無条件に親友しかいないと思い込むようなお目出度い仏性を兼ね備えた人は存在しないから、まずは『他人を宝のように大事にしましょう』というルールを作り、それに従わせることから仲良くしていこうとする段階の解釈があります。みんながルールに従い、馴染み、条件に従えるようになってから、無条件にしてもいい人たちがいたら、その人たちは「如来タイプ」に違いないから、自由にしようとする判断があります。けれども、多くは「如来タイプ」を見ることが出来ないと気づいた人が、「菩薩を越える」段階に入れるものの、これらはいくら説明しても「食わず嫌い」に相当するもので、食べる前に解説しても、食べた感覚はいつまでも得られないものと同じ解釈になるものです。人生経験で得た体験の全てを「宝物だ」と認識できた人は、菩薩から如来の段階に引き上がるものの、それは法律や秩序などのルールに逆らうことになることに気づいてしまう為、苦悩するものです。ルールを守るべきか、経験で得られた体験を宝として「良かった出来事しかなかった」と扱えるかを吟味する存在です。

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金剛宝とは、自分の培ってきた経験による知恵と、他人の培ってきた経験による知恵とを融合させる力を秘めているものの、自分がゼロ%で、他人が100%の経験があるという判断だけは取れないものです。もちろん、自分が100%で、他人がゼロ%という判断も不可欠である為、どちらも全力を尽くして打ち明け合うことで見えてくれる世界があることを教える菩薩です。

繋がり方
金剛宝菩薩が十体に自分が円形に囲まれているイメージをします。十体を同時に意識しながら自分の経験や知恵、価値観をゼロにして、金剛宝菩薩の十体にあらゆる経験や叡智が備わっている前提でイメージします。未来への予測を捨て、結果に執着しないイメージのまま、質疑応答します。

事例を紹介します。

自分「死にたがっている友人がいるので、どうしたらいいですか?」
金剛宝菩薩十体「“自分も一緒に死にたい”と伝えたらいい」

自分「死にたがっている友人がいるので、どうしたらいいですか?」
金剛宝菩薩十体「“私を殺してから死んでいいよ”と伝えたらいい」

自分「死にたがっている友人がいるので、どうしたらいいですか?」
金剛宝菩薩十体「“あなたが死ぬと、わたしの生きる意味の全てを失うけど、あなたの死にたいは止められない”と伝えたらいい」

自分「死にたがっている友人がいるので、どうしたらいいですか?」
金剛宝菩薩十体「“私の方が、自分を見殺しにしていたんだ”と気づいたと告げて、“わたしの辛い気持ちを聞いて欲しい”と自分に対して声を出して届けたらいい」

自分「死にたがっている自分がいるので、どうしたらいいですか?」
金剛宝菩薩十体「プライドを捨てたらいい」

自分「死にたがっている自分がいるので、どうしたらいいですか?」
金剛宝菩薩十体「人前で弱さを打ち明けて、泣いたらいい」

自分「死にたがっている自分がいるので、どうしたらいいですか?」
金剛宝菩薩十体「人前で飾らずに寂しさを話し尽くしたらいい」

自分「死にたがっている自分がいるので、どうしたらいいですか?」
金剛宝菩薩十体「死より辛い恥ずかしいことがいくらでもあるとみんなに訴えたらいい」

自分「死にたがっている自分がいるので、どうしたらいいですか?」
金剛宝菩薩十体「“笑い方がわからない、教えて欲しい”と死にたがっている自分に聞いたらいい」

自分「笑い方がわからない、教えて欲しい」
金剛宝菩薩十体「もう笑っているじゃない」

自分(泣いている)
金剛宝菩薩十体(微笑んでいる)

といったやり取りが浮かぶかも知れません。

この一連の記事は、どれも大日如来の観点を含んでいますので、菩薩との対話でありながら、如来要素もあります。人の心は、欠点を含んでいる限り従わない側面もあれば、欠点がなければ聞く耳を持たない側面もあり、矛盾がつきまといます。

どこまで解釈の精度を高めても、それにケチをつける人はいます。ですからケチをつけることを正当だという心もあります。天、明王、菩薩、如来タイプであるなら、説明すればケチはつけないものですが、人(エゴエゴの邪鬼のこと)である以上、説明しても話を聞き入れず、徹底抗戦することがあります。これは仕方のないと、諦めるしかないところもあり、人が人の邪鬼さ加減に屈服して、仏にすがるまで待たなければならないことがあります。

そう考えると、「仏にすがる」仏の道に踏み込んだ人よりも、人としての欠陥を持つケチである方が「人間らしく」良さそうな錯覚を抱きます。健康さよりも、不健康さの方が好ましいような印象を抱いてしまう不自然さがあることに気づいてください。

真面目より、不真面目の方が格好いい風潮です。

清潔より、不潔の方を求めるような異常さが感じられると、「何故歪む?」と疑問に思えるものです。

金剛宝菩薩は、「宝」の認識が、人によって大きく変わる為、相手が何を大事にしているのかを間違えるとトラブルにしかなりません。

人の宝を、人なら大事にします。

天の宝を、人は価格の安さで大事にします。

明王の宝を、人は手軽さで大事にします。

菩薩の宝を、人は質の高さで大事にします。

如来の宝を、人は何一つ大事に出来ません。

天の宝を、天なら安さを大事にしますが、菩薩は安さより質なので大事に見ません。

明王の宝を、明王なら手軽さを大事にしますが、明王だから手軽さ以外を求めます。

菩薩の宝を、菩薩なら質を大事にしますが、天は質より安さなので眼中に入れません。

如来の宝を、如来なら全て大事にしますが、人は全否定するので信仰など持ちません。

このように、人は信仰しないものと扱うものである為、そうならないように信仰した方がいいと教えるものです。けれども、人を軽蔑しているといったエゴエゴの心に対して「非難している!」と嘘に基づいている自我(邪鬼)の消滅を促そうとしているものの、人の邪鬼は取り合わない為、対立となり争いとなる為、いつの時代も人同士が争いを止められない理由がここにあります。

自分の中に信仰があるなら、「死にたい」はないものです。


いかがでしたでしょうか?


では、また。

リーディングマスター・まさみち。





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